ジャッジ 裁かれる判事(デヴィッド・ドブキン)

 「裁かれる判事」というより、むしろ裁かれる「弁護士」というべき作品だろう。作品として真新しさはないものの、弁護士「ハンク」を演じたロバート・ダウニーJrのひたすら鼻につく感じというか、鼻持ちならない感じがよかった。

 いったい、彼はなぜ「裁かれた」のか。それは、まさにその「鼻持ちならなさ」によってである。冒頭からハンクは、裁判所のトイレで、ライバル検事に話しかけられ、振り返りざまに小便をひっかける。そして、結局ハンクは、このシカゴ=都会の裁判所における小便を、故郷イリノイの法廷で裁かれることになるのである。

 父は、故郷の田舎町の判事で、この町の「父」的存在である。だが、彼は最愛の妻を亡くしたのち、男を車でひき殺したかどで、自ら裁判の被告となってしまう。被害者の男は、かつて自分が温情判決を下したために殺人を犯した、町のゴロツキだった。父は男にこう言われ、男をひき殺すことになったのだ。「奥さんの墓に小便ひっかけに行ってやるよ」。

 そもそも父は、なぜ男に温情判決を下したのか。それは、「男の姿が、ハンクとダブったから」だ。一度道を踏み外しても更生することを信じたい。「それが悪いことなのか?」

 被告となった父は、弁護を買って出た息子のハンクに法廷で訴える。ハンクは答えに窮する。かつてのハンクも、少年院に入るわ、交通事故を起こして兄のメジャーリーグ入りを台無しにするわといった、家族のやっかい者だったのだ。

 その後、更生したハンクは、大学を首席で卒業するほどの敏腕弁護士になるが、ずっと父が自分に冷たかった理由がわからないできた。父はハンクではなく、自らの「息子」への甘さによって取り返しのつかない結果を招いた、自分がずっと許せなかったのだ。だからこそ、今度と言う今度は、この町の「息子」に対して、父自身の手で決着をつけたのである。

 そしてハンクは、男が自分とダブったという父の証言を、自らの手で引き出してしまう。すなわちハンクは、墓に小便をして「裁かれる」ゴロツキを通して、冒頭の小便を「裁かれる」ことになる。むろん、父=判事に「裁かれる」のだ。

 だが、話はそれで終わらない。実は父自身は、自分が男をひき殺したのか、半信半疑だった。がんの進行とその治療のせいで、記憶があいまいになっていたからだ。だが、父にとって、自らの認知症を認めることは、これまで町の「父」として下してきた判決を、すべて反故にしかねない命とりの行為だった。「冷戦を終わらせた実績をもつレーガンだって、アルツハイマーだったことを認めたために、今はそれしか話題にならないではないか」。

 今までのハンクは、裁判に勝って高額の報酬を得られさえすれば、法の下で平気で嘘をつく男だった。法という「父」が「真実」や「正義」を体現してくれていたので、その下で上っ面の言葉の「虚偽」を謳歌することができたのである。いくら中身のない嘘の言葉であっても、相手を論破できればそれでよい。昔の恋人サマンサが「あなたにまくしたてられると、自分が消えてしまいそうだった」と訴えるのはそのためだ。

 だが最後、ハンクは「父殺し」を敢行する。父の記憶が薄弱であることを、法廷で公然と暴露するのだ。それは、三重の意味で「父殺し」である。このときハンクは、父を監獄に送るとともに、町における「父=判事」の権威を失墜させ、さらに自らを保護してきた「法=正義」という「父」をも破壊したのだ。最後に法廷で人目をはばからず号泣するのは、判決によって弁護士として敗北したからだけではない。

 だが、ほかならぬこの「敗北」によって、父ははじめてハンクを弁護士として、しかも生涯で出会った最高の弁護士として認めることになる。ハンクは、自分が陥った「温情」に流されずに、また法の下のゲームではない「真実」を探り当てたからだ。

 このように見てくれば、これ見よがしのラストの演出も、必ずしも「鼻につく」ばかりのものではないのかもしれない。クルクルっと回った判事の席がハンクの前でぴたりととまる。やがてハンクはその席に着くのだろう。だが、それ以上にそれは、この町の「父=法」が、ルーレットのように偶然性にさらされてしまった現状を示している。そして、父の死によって、故郷が少しずつ記憶を喪失していることをも表しているのだ。

中島一夫