三姉妹〜雲南の子(ワン・ビン)

 「その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない」。坂口安吾の小説「白痴」の書き出しだ。

 大空襲の中、どてっ腹に爆弾の衝撃を感じながら、だが「僕はね、ともかく芸人だから」「逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃がすわけには行かないのだ」と疎開を忌避し、人間が家畜と同列の地平で生きるさまを描いた。その生は、動物的、非人間的、「白痴」的で「堕落」したものだったが、だからこそ、この上もなく人間的で美しかった。それが安吾の見た「戦争」であり、目をそらさずに見つめようとした、原初的で裸型の人間の姿だった。いや、「芸人」根性で、どうしようもなくそれを見たかったのだ。

 ワン・ビンの新作『三姉妹 雲南の子』は、戦争下でないにもかかわらず、その「白痴」の世界を彷彿とさせる。泥だらけの服で泥まみれの顔をした10歳、6歳、4歳の三姉妹が、けたたましく鳴きたてる豚、犬、鶏、家鴨、羊らに囲まれ、また動物たちの匂いと糞にまみれながら生きている。「まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない」。

 中国西南部雲南省の洗羊塘村。中国最貧困地域の一つだ。出来るだけ多くの農地を確保しようと、山の急斜面に段々畑が目立つものの、海抜3200メートルに位置しているため(ワン・ビンは、撮影中、高山病にかかったという)、農作物はジャガイモしか育たない。約80戸470人の村人たちは、牧畜で何とか生計をたてようとしているのだ。

 また、高地のためインフラも不十分で、電気が通ったのは2007年だという。ここは中国で最も遅く電気がやってきた場所であり、今や中国脅威論が盛んになるほどの経済発展と、それがもたらすはずの恵みや潤いから、最も遠い土地なのだ。

 いや、「遠い」のではない。「遠い」には、まだ距離が、そして「やがてはここにも」という微かな希望がある。だが、この村はすでに全村移住が決定しており、しかも当時村人には、移住先すら知らされていなかったという。ここは、開発から見放された村であり、やがては消えゆく場所なのだ。今回ワン・ビンが、この村の三姉妹にカメラを向け、その生活の記録を残そうとしたのは、何も想像を絶する貧困の中、たくましく生きる彼女らの姿に胸を打たれたからばかりではない。

 冒頭、三姉妹が、土塀に囲まれた穴倉のような家の暗がりに身を寄せ合っている。暗がりに靄が立ち上る。ワン・ビンの画だ。とっさに、近作『名前のない男』の住む荒野の洞穴や、『無言歌』の砂漠の収容所が思い出される。

 ここ何作かのワン・ビンの関心は一貫している。それは、死に隣接するような貧困というだけでは足りない。国家に、社会に、世界に見放されてしまった人たち、「外」にいる人たちに、ワン・ビンの視線は注がれる(そもそも、三姉妹の存在自体が、中央の一人っ子政策の「外」にある)。そして、「ここにこんな人たちがいる」と驚いている。ワン・ビンの画の力は、画面から伝わるこの驚きの力だ。ワン・ビンを見る者は、何よりもその驚きを共有する。そして画面は、高みの見物を許さないとばかりに、人物たちにくぎ付けとならざるを得ない距離感で迫ってくるのだ。

 しばらくたっても、三姉妹の親の姿が一向に見えない。どうやら、母は家を出て行方知れず、父は何年も出稼ぎに出たきりのようだ。必然的に、長女の英英(インイン)が、次女の珍珍(チェンチェン)と三女の粉粉(フェンフェン)の面倒をみることになる。

 長女は、妹たちのけんかをなだめ、怪我の手当てをし、髪のシラミを取り、同じように豚や羊の世話をし、牧草を刈る。その合間に学校へ行き、宿題もこなさねばならない。母であり姉であり生徒であり労働力であり…。彼女にとっては、それらは当たり前のように未分化で、それら全部が生きることだ。彼女は、草刈り鎌で鉛筆を削り、座る間もなく立ち歩きながら食事する。

 やがて、父親が出稼ぎから戻ってくる。その父が不在の間、三姉妹が何年も体を洗っていなかったことに衝撃を受けずにはいられないだろう。三女は久し振りにお湯で体を洗ってもらいながら、無邪気にそのことを父に告げる。何となく責められているようなのか、うつむき加減に固く口を結ぶ長女。彼女は、作品を通して終始言いたいことをがまんしているような顔つきなのだ。その表情が、そのまま彼女の生活の痕跡である。

 下の二人が男の子のように短髪なのもシラミ対策だろう。それでも三女のシラミは、長女がいくらつぶしてもきりがないほどだ。長女の白いパーカーは、すでに背中の文字が読めなくなるほどに黒ずんでいる。だが、ついに最後まで着替えられることはない。

 ワン・ビンは、2010年から11年にかけての6カ月の間、時々雲南に出かけてはこれを撮影していたという。その間彼女は、下のジーンズも含めて一度も着替えなかったことになる。彼女のパーカーは、泥やアカのみならず、ガスがなく薪を燃やす暮らしの中で煤塗れになってもいるのであり、時間がたつにつれ増していくその黒ずんだ汚れは、「ここにこの村の暮らしのすべてがある」とばかりにカメラの前で主張し続けるのだ。

 戻ってきたも束の間、父はまたすぐに出稼ぎに出なければならない。今回は次女と三女を一緒に連れていくことに。長女だけは祖父の元に残していくほかはない。町では学費がかかり過ぎるし、そもそも三人の子供を養うのは難しい。

 この村が資本主義経済に包摂されるということは、父が出稼ぎ中心の生活を強いられ、家族離散を余儀なくされることを意味する。村には自ずと、老人、女性、子供だけが残されることになる。その様子は、村人たちが一同に会する収穫祭のシーンで明らかになるだろう。

 収穫祭での話題は、次第に一つの不安に収斂していく。今後当局は、村人から強制的に医療保険を徴収するらしい、しかも、徴収人を村人の一人に負わせ、払えない者からは豚や羊で現物徴収も辞さない構えだという。租税国家の暴力は、開発を放棄し、やがては消滅する村をも例外とはしない。おそらく父は、それを払うために、何度となくまた出稼ぎに出なければならなくなるのだ。

 父と祖父の相談で、長女だけここに残すことは、いよいよ決定したようだ。すぐ傍でそれを耳にしながら、長女はやはりじっと口をつぐんでいるほかはない。町に向かうバスに乗せる必要からか、次女と三女には、赤とオレンジの真新しい上着が与えられるが、長女には新しい靴だけだ。これらも町で買いそろえてきたのだろうから、自分だけとり残されることは、実はとうに決まっていたことなのだろう。そうか、今回父は、妹たちを迎えに戻って来たのだ。

 長女は、黙っていろいろなことを考える。カメラは、そんな寡黙な長女から目が離せない。だが、何も語られなくとも、長女の着替えられることのない黒ずんだ服と、真新しい靴との鮮やかすぎるギャップは、村と町とに引き裂かれる家族のあり様をあからさまに示していて、痛々しいほどだ。

 その後、結局父は出稼ぎに失敗し、次女と三女とともに再度戻ってくるものの、子守りの女とその娘も一緒だった。父が畑仕事に出ている隙に、自分の娘だけをかばって、次女を邪険にするこの女を、だがいったいこの先、三姉妹が「母」と認める日が来るのだろうか。

 「私のママが、世界で一番ステキ……一番やさしいママ、ママの子はなんて幸せ」。次女の歌声が、泣き笑いのように聞こえて胸を打つ。続くラストシーンに、この次女の姿が見当たらない。そこには、長女が三女を抱きかかえるように山を登っていく後ろ姿があるばかりだ。

 それは、次女の歌を子守唄のように傍で聞いていた、三女の見た「母」の夢だったのかもしれない。ずっと「母」をやってきた長女が、本当に母として三女の前に現れたのかもしれない。おそらく、三女は、年齢的に母を覚えていないだろう。そういえば、スカーフを頭に巻き、その垂れ下がった裾で、パーカーの背中の文字が隠れている長女の後ろ姿は、心なしか少し大きく感じ、母のようにも見える。

 いや、それこそが153分の間、ずっと彼女らの生きる姿を見てきた者の夢であり、幻であったのかもしれない。それでかまわない。

中島一夫