人生の特等席(ロバート・ローレンツ)

 脚本的にも映像的にも、決して絶賛できる作品ではないものの、それでも何かを語りたくなるのは、やはりイーストウッドの「亡霊」が漂っているからだろうか。自ら一つの幕引きをはかったはずの『グラン・トリノ』の残響が、至る所で立ち騒いでいる作品だ。

 次世代への継承――。
 そもそも本作がデビュー作となる監督が、イーストウッド作品の助監督やプロデューサーだったロバート・ローレンツなのだから、作品の制作自体が「継承」によって成されているのだ。また作品の大きなテーマも「継承」である。イーストウッド扮するメジャーリーグの老スカウトが、親子関係の摩擦を乗り越えて、そのスカウトの「技術」を娘(エイミー・アダムス)に受け継いでいく。

 その「技術」は、原題の「Trouble With the Curve」に端的に表れていよう。この「カーブに問題あり」には、「カーブを打てない」と「カーブに対応できない」の二重の意味が重なっている。イーストウッドは、老いによる視力悪化によって、運転中、カーブに対応できずに事故を起こしてしまう。だが、このことこそが、やがて彼に「バスで帰る」ことを決断させ、前者の「カーブを打てない」というテーマを僥倖のように招き寄せていくところが、この作品の見どころだろう。

 イーストウッドをはじめ各球団のスカウトは、高校生スラッガーの「ボー」を実際に見てみようと、今カロライナ州までやって来ている。他のスカウトはボーの打撃にほれ込むものの、イーストウッドだけは彼が「カーブを打てない」ことを見抜く。いや、歩行中にたびたび躓くほど視界がぼやけるなか、この老スカウトは、それを見抜いたのではなく、音で聴き分けたのだった。

 なるほど、ボーはカーブをもホームランにした。だからこそ、スカウトは皆だまされた。だが、イーストウッドは、バットとボールの接触音で、ボーがカーブを打つ時、手が泳いでしまう癖のあることをつかむ。

 それは、「カーブをホームラン」という表面的なデータからは見えてこない。だからこそ、「trouble=問題」なのだ。彼はカーブにまったく手が出ないわけではない。だが、強く打てないのだ。それを「音」で聴き分ける「技術」をイーストウッドは持っている。ホームランにできたのは、高校生に許される金属バットだったからにすぎない。「金属なら娘でもホームランできるよ」。

 したがって、イーストウッドの技術の継承は、単にデータベース野球(『マネーボール』のような)に対するアンチではない。ここでもやはり、『グラン・トリノ』が想起されよう。本作同様頑固親父のイーストウッドは、少年タオに、車の状況に応じて臨機応変に用具を使い分ける技術をこそ伝承しようとしたのではなかったか。

 それはまた、「アイルランド野郎」「ポーランド野郎」と、挨拶のように差別語を交わすことこそが、異民族・異人種間の交通を円滑にする技術の伝授につながっていたはずである。もちろん、差別語が摩擦を増幅し、罵倒の応酬になる場面も多々あろう。要は時と場合。ここで生きて行くには、状況判断に応じた「用具」の使い分けができる「技術」こそが合理的なのだ。ヴィンテージカー「グラン・トリノ」とともに、イーストウッドから少年に継承されたのは、その合理的な技術だった。

 本作の「カーブに手が泳ぐ」という事象も、データや数字に表れないというだけではない。その見極めの技術こそが、選手獲得に失敗できないメジャーリーグのスカウトにとっては、長い目で見たときに合理的なのだ。ここでは、PCのデータベースとアナクロの身体的・経験的知が争っているのではない。合理性と合理性が闘っているのだ。

 過去の記憶によって互いに壁を作っていた父娘は和解し、娘は弁護士業という分刻みのモバイルワークの縛りから、スカウト業へと転身するだろうことを予告して映画は終わる。そのとき彼女は携帯電話を投げ捨てるのだが、これも単なるデータベースの放棄を意味しない。

 新たなロマンスの相手「フラナガン」(ジャスティン・ティンバーレイク)との、メジャリーグ・カルトQのやり取りは、彼女らが、生きたデータベース(フラナガンは、熱狂的な実況ともにその場面を記憶している)をすでに有していることを示している。しかもフラナガンは、かつてイーストウッドがスカウトした元メジャーリーガーであり、今は肩を壊してスカウト業に進んだ男なのだ。

 愛する娘が、自らの眼鏡にかなった男と、しかも愛する野球の名のもとに一緒になること。老スカウトにとって、これ以上の「人生の特等席」があるだろうか。

 二人の路上キスを尻目に、イーストウッドは「バスで帰ることにする」。愛車グラン・トリノを託して、バスに揺られて帰ること。思えば、娘が球場のピーナッツ屋の青年を剛腕ピッチャーとして掘りだしてきたのも、あのとき娘と別れて一人、バスに揺られて帰ってきたゆえに訪れた僥倖だった。

 現在のイーストウッドにとって、自らの目にかなった、自らの技術を継承する者たちに道を譲り、自分はバスに揺られて帰るその「席」こそが、「人生の特等席」なのかもしれない。

中島一夫