運び屋(クリント・イーストウッド)

 

「運び屋」はシジフォスの労働だ。

シジフォスは神々の言いつけで何度となく大きな岩を運ぶが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。どんなに運んでも、いや運べば運ぶほど、重荷から解放されるどころかそれは新たに増すばかりだ。

 

 人生は後悔の連続であり、何といつも罪深いものか。

 ラストで「アール」イーストウッド)が自らを「有罪だ」と言い放つのは、ほとんど自らの人生に対してである(裁判官「あなたはすべてにおいて罪を認めるのですか?」)。自分が、人間が、この世に存在すること自体が罪深い。「許されざる者」だ。誰もが正義の人と化した懲罰社会の現在においては、それは何と反時代的か。

 

「何でも買えるが時間だけは買えない」人間というものは、前に進もうとすれば進むほど遅れていき、目指すべきから遠く離れていく。誰もが「遅咲き」であるほかないのだ。

 

 カミュが不条理を見た人生の劇を、イーストウッドはただ静かに受け入れる。それは『グラン・トリノ』で磔の十字架そのものになった男の「その後」にとって、唯一ふさわしい身振りである。

 

 人生とは牢獄であり、それでも人は生きていかねばならない。

 そんななか、一日だけ花咲くデイリリーは、不断に人を幻惑する。あたかも人生は華やかで美しいものであるかのように。

 

 だから、その中で「老いを迎え入れるな」とは、決して「若さ」の主張ではない。それは88歳を超えてなお、この90歳の「運び屋」のごとく人生から鞭打たれんとする崇高なまでのマゾヒズムである。

 

 確かに「100歳まで生きようとするのは99歳の人間だけ」だろう。今作に「美学」を見るのはよほど優雅な人生だ。腰や膝の曲がりやとぼとぼ歩きを晒し、人生は美しくなどないと言っている。それは教訓にもならない。だから今作には、それを継承する者もいない。

 

中島一夫