チキンとプラム あるバイオリン弾き、最後の夢(マルジャン・サトラピ、ヴァンサン・パロノー)

 マチュー・アマルリックを見たくて観に行った。
 そのアマルリックの演技が目立たないほど、CGやアニメ、切り絵細工や影絵などを駆使した凝りに凝った画面が魅力の映画だ。

 1958年のイラン。アマルリック扮する天才バイオリニストは、家庭のことはそっちのけで音楽に没頭する毎日だ。ついに妻はキレ、彼が師匠から受け継いだ大事なバイオリンの名器を叩き壊してしまう。代わりのバイオリンを求めて店を探し歩くが見つからず、とうとう彼は自殺することを決意、部屋に閉じこもりベッドに寝たきりとなる。物語は、その死までの八日間に見る彼の夢をファンタジーとして映し出す。

 彼を天才バイオリニストにさせたのは、人生最初で最後の恋人イラーヌとの別れだった。それまで技術的には申し分のなかった彼の腕前を、だが師匠は「お前の演奏はクソだ」と罵倒してきた。「人生の吐息をつかまえろ」と。そして、ついに彼にその「吐息」をつかまえさせたのが、イラーヌとの成就しなかった大恋愛だった。

 この作品が「変」なのは、映像はきわめてファンタジックでありながら、内容がものすごく古典的なところだ。彼は芸術家であるために、恋愛や結婚生活といった俗世間での幸せを諦め、世捨て人とならなければならない。やはり師匠が世を捨て、雲上の楼閣に住んでいるように。いわゆる古典的な「芸術と実生活」の問題である。

 師匠から受け継いだバイオリンは、本当は世捨て人として生きる、すなわちあらゆる所有を断念することと引き換えのはずだった。「吐息」とは、そうした芸術家=無所有者のため息にほかならない。

 だが、その後彼は、母の薦めで昔から彼のことが好きだった妻を迎え、二人の子を作り一家を成すことに。芸術家=無所有者が市民社会の所有者として生活することとなった。とすれば、バイオリンを妻が叩き壊すのも必然だった。結局彼は、師匠の教え=吐息を裏切り、芸術家として堕落したことになるのだから。彼がさかんに吹かすタバコの煙や、いかがわしいバイオリンの店主がすすめるアヘンの煙は、彼にとってはその吐息が薄められた俗世間の代替物にすぎない。

 このように、作品のテーマは、意外にも「芸術家とその所有」にある。それは、彼と弟が言い合うシーンからも明らかだろう。すべてを妻に押し付ける彼を「身勝手だ」と批判する弟に、彼は「お前こそ身勝手だ」と反論する。共産党の活動家である弟もまた、芸術ならぬ「大義」を重んじるあまり、家族を省みずに投獄されることにヒロイズムすら感じるような男だったからだ。太田竜ではないが、革命家が女性を妻として所有してよいのか。芸術家と革命家の兄弟は、市民生活を営むなか、ともに自己矛盾に陥っているのだ。

 妻が、寝たきりの彼に手塩にかけてこしらえる「チキンのプラム煮」は、この「矛盾」の表れにほかならない(だからタイトルにもなっている)。妻は、これを食べているときだけ、夫が優しい言葉をかけてくれるからといって、せっせと「チキンのプラム煮」を作り、めかしこんでベッドに運ぶ。だが、彼は一向に口にしないどころか、「食欲がないのが分からないのか」「お前を愛したことはない」と言い放つ。

 「チキンのプラム煮」とは、天才芸術家という表の顔に隠れた、この男の傲慢さと甘えの象徴である。それを示すように、この料理はこのシーンにしか表れず、またその中身すら画面には映らない。

 死の間際、死の天使「アズラエル」が夢に現れることで、彼ははじめて後悔を口にする。だが、時すでに遅し。彼の人生は、イラーヌ=イランを愛するも一体となれず、最後はアズラエルイスラエル(イランの敵国)によって、死へと導かれたのだった。

中島一夫