倭奴(イエノム)へ 在韓被爆者 無告の二十六年(「倭奴」制作推進委員会、NDU日本ドキュメンタリストユニオン)

 いまだに「日本は唯一の被爆国」と言い続けている者たちに対して、この映画は「あなたがたはヒロシマで何も見ていない」(アラン・レネ)と言い続けるだろう。

 釜山のスラム街に住む人々へのインタビューをもとに、強制徴用や徴兵によって日本に連行され、広島・長崎で被爆した在韓被爆者たちの存在を明らかにしていく。三池炭鉱に連行され長崎で被爆した者、生後三日で被爆したかつぎ人夫、原爆症治療のために日本に密航し、留置されたり強制送還されたりした人々、……。

 ひとたび服をたくし上げれば、至るところに被曝の跡が見られる。その痕跡は、普段は服の下に隠れているスティグマであり、現に彼らは日本から戻ってきてスラムへと押し込められ、話す言葉の「発音がおかしい」と言われて日々差別されてもいる存在である。「被曝」とは、現在の原発労働者に至るまで、いつでも差別を隠蔽する「装置」である。

 以前に見たときと比べて、ずいぶん違った印象を受けた。以前は、とにかくラスト近くの宴会の場面が、強烈な印象だった。

 在韓被爆者たちが、マッコリを酌み交わしながら、「ふるさと」など日本の唱歌を歌っている。それに、日本人を告発する「恨」の言葉の数々がかぶさる。その落差に加えて、次々と一人一人の顔をめまぐるしく映し出していく、目が回るようなカメラワーク。それらが折り重なって、一種異様なエネルギーを放つ。

 だが、今回は、同じ宴の場面でも、むしろ彼らにまじって手拍子を打ちながら、どこか冴えない表情を浮かべている布川徹郎の姿に、やけに目を奪われた。上野昂志も指摘するように、この布川の姿に限らず、確かに作品全体が「どこか腰の引けた印象を受ける」のだ(「NDUは、境界を往く」)。

 おそらく、その「腰の引けた」感じは、いきなり冒頭で「お前たちは何しにここに来た」「いつも写真ばかり撮っていて、畜生じゃないか」と横たわったままカメラを凝視する韓国人女性のまなざしの力に負うところが大きいだろう。

 このとき彼らは、抑圧されたマイノリティーにカメラをもって迫ること自体が抑圧的な行為なのだという、まぎれもない事実を突きつけられているのだ。NDU作品が、最も他者に突き放された瞬間であり、またNDU作品全体に対する批判にもなり得る言葉、視線であった。

 それでもカメラは彼女ににじり寄ろうとする。だが、女性が横たわっているために、どうしてもカメラは上から迫っていくほかない。そのことに、すでに映像はためらっているように見える。

 したがって、この作品のメインともいえる、在韓被爆者8名が、訪韓する佐藤栄作首相に被曝者救済を直訴しようとソウルの日本大使館へ乗り込んでくるシーンにしても、出来事全体がきわめて曖昧にしか捉えられていない。そして、作品全体が、他のNDU作品に比べてもひときわ不鮮明なまま終わるのだ。

 だが、それを、上野の言うように「在韓被爆者に対する日本の責任を問う、というテーマが先行したがゆえの勇み足や逡巡が、映画に不透明な影を落とした」と捉えるべきではないだろう。もともと、早大反戦連合=運動組織たるNDU(そしてその中心人物たる布川徹郎)は、「見捨てられた在韓被爆者 日・韓両政府は彼らを見殺しにするのか」(1970年)の著者、竹中労との出会いを通じて、この『倭奴へ』の制作に向かった。

 NDUの創設メンバーの一人である井上修によれば、その背景には、明確に1970年の7・7の「華青闘告発」があったという(「NDU日本ドキュメンタリストユニオンとはいったいなんなのだ?」)。「しかしなにを勘違いしたのか全共闘はなんと在日アジア人側からの出入国管理法阻止運動共闘、そして連帯の提案を拒否してしまったのだった」。

 いわゆる「華青闘告発」とは、この「勘違い」に対する「華僑青年闘争委員会」による告発だった。この衝撃こそが、彼らに「腰を引」かせ、また映像に「不透明な影」をもたらしていると見るべきではないだろうか。

 言いかえれば、それは、在韓被爆者という存在を発見することと、彼らと連帯することとは、まったく別のことがらだということだ。例えば、先の竹中労『在韓被爆者』にあるように、在韓被爆者たちに同意を表明した太田竜は、朴寿南に厳しく拒絶された。

「知っています、太田竜さんから手紙をいただきました。でも、やはりあの人は朝鮮人にとって、きわめて危険なのです。いま韓国の情勢がどのような状況か、太田さんも貴方(注―竹中労)もご存知ありません。朝鮮人のことは朝鮮人にしかわからないのですから、よけいなことをしないで下さい。」「そうです。日本人である貴方がたは勝手なことをいったり、したりできても、朝鮮人がそれにかかわりを持てば死刑になるという、そのことを確認していただきたい。それでも運動をやめないのなら、貴方がたは殺人者ということになるのですよ。」「貴方がたが煽動すれば、むこうみずの半チョッパリがハネ上がって何をするかわからない、そうすれば、日本の左翼と通じているという理由で、韓国政府はやっとつくられたばかりの原爆被爆者協会を解散させ、幹部を投獄するでしょう。」


 津村喬は、構造としてのナショナリズムと、言辞だけのインターナショナリズムを明確に区別した。

わたしの書くものが在日アジア人の他の部分の主張と一致することがあるとしても、それは連帯を意味しない。それによって、在日アジア人とわれわれの間の、歴史的客観性をもった意味の落差はなくなりはしないからである。(「〈戦後〉の超克とはなにか――日本帝国主義と入管体制」)


 まさに石原吉郎も言うように、「無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない」のだ。そのことを思い知った太田竜は、自らの誤りを認め、次のように考えを改める。

私は、一九七〇年七月から一九七一年一月まで、在韓原爆被爆者と呼応した闘いにおいて、重大な誤りを犯した。私は、無意識のうちに、数千の「市民」たちが劉彩品を囲み、朴鐘偵を囲むという、この在来の組織論をもって、在韓原爆被爆者に対したのである。これでは、「市民」たちの勝利はあらかじめ約束されている。
 私は、一九七一年一月から六月までの痛苦にみちた六カ月の試行錯誤を通じて、ようやく、私の誤謬の根源をえぐり出す地点に到達した、と信ずる。
 在韓原爆被爆者の、すくなくとも数人の集団のうちに、私のような日帝市民一人を囲むこと。(中略)必ず、この「市民」を、徹底的に一個に孤立させなければならない。(「棄民の論理」)

 あの宴の中で孤立し、浮かない表情を浮かべていた布川徹郎の姿がここにある。まさに、この布川の居心地の悪さにこそ、70年7・7の華青闘告発に対する、彼らなりの応答があった。そして、ここからしか、彼らは、次回作『アジアはひとつ』に向かえなかったはずなのだ。

中島一夫