オブリビオン(ジョセフ・コシンスキー)

 2077年の地球は、60年前の地震津波、また宇宙人(スカヴ)の侵略に対する核攻撃によって、もはや人類自体が住めなくなっている。生き残った人類は土星へ移住、ジャック・ハーパー(トム・クルーズ)は、いまだ続くスカヴの侵略を警戒しながら、無人となった地球をパトロールしている。指令は、上空1000メートルのタワーから「最高のパートナー」の女性を通して随時送られてくる。二人は、モニターの向こうにいる女性(メリッサ・レオ)のコントロール下にある。

 その後のストーリーは、よくあるものだ。実はスカヴこそ人類の残党で、トム・クルーズは記憶を忘却=オブリビオンさせられることでだまされていた、そして実際の妻を記憶とともに取り戻す、というのも極めてありがちな展開だろう。

 面白かったのは、とうとう最後まで、真の敵である侵略者の姿が出てこなかったことだ。もちろん、ストーリー上はモニターの女性なのだが、彼女の姿は画面の向こうの映像のみで、実在しているのかどうかはよく分からない。その様子はまるで「母」で、優しく指示を出し、反抗心をなだめ、こちらを向くように誘惑する。背後に仲間がいるのかどうかも判然としない。母胎のようなマザーコンピューターといってもよい。

 したがって、作品の主軸は、ことさらに垂直性と機能美とを強調する天上のタワーの、そのまた「上」から世界を監視・管理している「彼女=マザーコンピューター」と、荒れ果てた下界のそのまた「下」の地下の洞くつで、その支配に抵抗しようと潜伏している「荒くれ者ども=スカヴ」との「階級闘争」ということになろう。

 天上から次々と送られる無人偵察機「ドローン」は、構造上、至る所に監視の「目」がついている。一方、「スカヴ=スカヴェンジャー」という呼び名は、マニラのごみ捨て場に寄生して生きていかざるを得ない子供たちにカメラを向けた、四ノ宮浩『忘れられた子供たち スカヴェンジャー』を思い出させよう。

 すると、はからずも?この作品は、未来の階級闘争のビジョン――認知労働に包摂された世界において、もはや監視・管理する主体が完全に無人=コンピューター化している――を映し出しているといえよう。「良心」の代表のようなモーガン・フリーマン頭目とする人間の残党は、そうしたコンピューターネットワークに隷属し振り回される「労働者」となることを拒絶し続けてきた、まさに「最後の人間」たちなのだ。

 なるほど、トム・クルーズの消された記憶がよみがえるのが本を読んだときだったり、最終的にコンピューターを破壊するのが「良心」たちの自爆テロだったり、残された人間たちの約束の場所が、絵画のような自然に満ちた「故郷」だったりといった、数々の安易な設定は苦笑を誘う。

 だが、トム・クルーズの飛行機操縦シーンは、トニー・スコットトップガン』を想起させてやまないし、指令室の冷静な女と現場で奮闘するやんちゃな男という対比的な構図も、昨年他界したトニー・スコット作品そのままだ。

 ひょっとしたら、この作品は、技術の「せきたて」(ハイデガー)への抵抗を描いた『アンストッパブルhttp://d.hatena.ne.jp/knakajii/20110511/p1
が遺作となってしまったトニー・スコットにオマージュを捧げながら、その志を継承しようとした作品なのかもしれない。そう、勝手に夢想しながら楽しんだ。

中島一夫