『異邦人』論争下の花田清輝

 武井昭夫が、はじめて花田清輝の話を聞いたのは、ちょうど中村光夫広津和郎による『異邦人』論争のさなかだったという。

 新日本文学会の大会でそれをめぐる議論の途中、花田が「射殺されたアラブ人の立場からものを見ろ、その立場から論じた人が一人でもあるか」と言うと、「一瞬、会場はシーンとなった」と(「芸術運動家としての花田清輝」)。

 広津は、カミュのいわゆる「不条理」を、実生活から遊離した「心理実験室の遊戯」と批判した。それに対して中村は、「不条理」は「思想」でも「感情」でもあり、それこそ「現代の機械主義」による「生活の画一化と繰り返し」の洗礼を受けた都会に見られる、極めて一般的、国際的な「生活様式」だと反論した。

 おそらく、花田にとっては、この論争が「思想と実生活」論争の縮小再生産にしか見えなかっただろう。それは、すでに「政治と文学」論争を経て、文学中心のものの見方が不可能になったにもかかわらず、何となお「文学」の枠内で議論しているかと。

 したがって、花田の「アラブ人の立場からものを見ろ」とは、端的に「文学」の「外」を思考せよという意味でなければならない。これは、現在の情勢を思考するうえでも、極めて重要な視点だろう。

 文学を再生、延命、再活性化させようという「フィクション」に加担している場合ではあるまい。「批評の敵」とは、いつだって、文学でなければならないはずだ。

中島一夫