帰れない二人(ジャ・ジャンクー)

 ジャ・ジャンクーの中国は、いつも懐かしい。

 前作『山河ノスタルジア』の、あるいは代表作『長江哀歌』のタイトル通り、ノスタルジーやエレジーに満ちている。北京五輪あたりから、まるで中国は、かつて日本に起こったことが大規模かつ早回しに映し出される映画のようだ。中国は、何より日本にとってのノスタルジーではないか。ジャ・ジャンクーを見ていると、いつもその視線に遠さより近さを感じてしまう。

 

 もちろん、それが「中国の近代と日本の近代」(竹内好)の差異を無視した幻影=映画であることは百も承知だ。下手をすると、マルクス主義講座派歴史観よろしく、「前近代性」を日本にも中国にも等しく当てはめてしまうのがオチだろう(そして、その帰結は戦前の「支那統一化論争」だろう)。だが、ジャ・ジャンクーの「風景」が、すでにノスタルジーもエレジーも喪失した、日本のノスタルジーやエレジーの幻想的な代補に見えてしまうことも否定しがたい(今作で、いきなり『YMCA』や『チャチャチャ』が流れる瞬間といったら!)。

 

 作品が告げるように、北京五輪開催が決定した2001年は、山西省、大同の宏安鉱山の閉山が決まった年でもある。大同の街をシマとする江湖=渡世人の「ビン」(リャオ・ファン)は、組員一同と盃をあおり義兄弟の契りを固く結んできたが、昨今大同が様変わりしてくるにつれ、仁義なき新興ヤクザらがのし上がってくる。彼らは前触れも挨拶もなく、ビンらを奇襲する。ビンの恋人「チャオチャオ」(チャオ・タオ)は、炭鉱をクビになった父を連れて開発計画で経済成長の波に乗る新疆へと移住し、新天地でビンと新しく家庭を築きたいと願う。一方、ビンは「渡世人には新天地も安住の家庭もない」とにべもない。だが、渡世人の仁義もチャオチャオとの愛も、先に裏切ったのはビンの方だった。チャオチャオは、大同から奉節、新疆、再び大同へ7700kmを移動しながら、失われた愛と仁義を追い求めてさまようことになる。

 

 ずっとジャ・ジャンクーを見てきた者であれば、ビンとチャオチャオが、あの『青の稲妻』(2001年)の若い二人と同じ名前であることに思いをめぐらせずにいられないし、チャオ・タオが長江の客船に乗って三峡を移動する時の服装や髪形が、『長江哀歌』(2006年)のそれであることに心動かされてやまない。

 

 また、これも『長江哀歌』のヒロイン同様だが、チャオチャオが常にペットボトルの水を手にしているのが印象的だ。われわれはもう忘れているが、飲み水を商品として買うようになった時の衝撃といったらなかった。ペットボトルの水は、あらゆるものを商品化していく資本主義の「媒介性」の力をそれ一つで示すアイテムであり、かつ失われていく鉱山のミネラルを想起させる(捏造された)「純粋性」の表象でもある(チャオチャオが、列車で出会ったUFO男に手をつなぐことを求められ、思わずペットボトルの水を差しはさんで握り合うシーンは、その媒介性と純粋性とを同時に示すシーンだ)。

 

 ジャ・ジャンクー作品のミューズ、チャオ・タオについても同様なことが言えよう。チャオ・タオは、ジャ・ジャンクー作品において、「純粋性=透明性」を体現しているが、それは中国の休みなき発展の時間と切り離せない。いわば、チャン・タオの純粋性そのものが、もとから存在するものではなく、飽くなき成長と発展という「媒介」を経て逆説的に、また遡行的に見いだされるものなのだ。チャオ・タオという存在がペットボトルの水なのである。

 

 ラストのチャオチャオの姿はその現在形だ。ビンを介護する形で愛を取り戻したかに見えたチャオチャオは、だが結局またしても裏切られてしまう。ラストは、仁義なきアナーキーと化した大同の街に対応すべく、家の内外に張り巡らされた監視カメラに、ビンが消えて右往左往する彼女自身の姿が、皮肉にもいくつもの画面に映し出されることになる。最近の『幸福な監視国家・中国』(梶谷懐 高口康太)が伝える、安全・幸福のためにすすんで監視社会化を歓迎する中国を想起させてやまない。

 

 渡世人の仁義やら愛やら絆やらは、完全に過去のものだ。強く結びついた「二人」にもう「帰れない」のは、ビンやチャオチャオだけではない。ヤクザがシマの「治安」を守っていた「暴力」は、一見暴力を感じさせない監視カメラにとってかわられた(これまた『幸福な監視国家・中国』が言うように、中国の監視カメラは日本のそれより数段これ見よがしに設置され、「監視しているぞ」という威圧感がある)。そんななか、確かに現在プロファイリングされてしまうのは、「帰れない」仁義や愛に固執してしまうチャオチャオのような人間なのかもしれない。彼女のような人間は、いまや記録され保存される過去のデータ=標本なのだ。まさにジャ・ジャンクーの作品は、失われていく中国の、いなくなっていく人間の、貴重な記録としてある。

 

中島一夫