サウダーヂ(富田克也)

 その瞬間、完全にヤラれた。
 土方の男「精司」が、暴走族が通りにひしめく、栄えし頃の甲府の街を一人歩くクライマックスシーンで、まさかのBOØWYわがままジュリエット」が大音量で流れてきた瞬間である。

 精司がタバコをくわえると、見知らぬ黒服の男がすっと火をさし出す。一挙にバブルの頃の記憶がよみがえる。そう、あの頃は確かにBOØWYだった…。皆、窓ガラス全開でカーステから爆音でBOØWYを流していた。意表を突くと同時に絶妙な、そして悔しいまでにパーフェクトな選曲だ。このシーン一つで、心をわしづかみにされた観客も多いのではないか。

 かつての経済成長を支えた地方の土建業の衰退と崩壊(=精司らの最後の現場は、まさに「墓場」だった)を軸に、甲府という街に折りたたまれた世界資本主義の構造(中核(中央)―周縁(近郊))の〝ひだ〟を映し出していく。構造的な認識が根底にあるからこそ、映画として面白いだけでなく、来し方と行く末とが同時に見えてくる作品だ。

 監督の富田克也はいう。「この先、不景気がさらに深刻になって日本に大量の移民が入ってきたら、いずれ何かが起こるかもしれないという想定をしながら、ギリギリ嘘にならない線で作っていった」(『映画芸術』436号)。

 富田も脚本の相澤虎之助も、ともに中上健次の愛読者だというから、その構造的な認識は中上作品あたりから来ているのかもしれない(作中の「日輪水」も、『地の果て至上の時』の「日輪の水の信心」からだ)。

 精司ら土方は、中上の人物のように土と関わって生きてきたので、「土」の上に乗っかっている表面的なものは別々でも、「土」は世界資本主義としてつながっているという認識をもっている。同じ現場で働くタイ帰りの「保坂」はいう。「ずっと掘っていけば反対側がブラジルで、ちょっと曲がればタイよ」。

 これは、ヒップホップやカポエイラでパーティーを開くことで、ブラジル移民とも「ラヴ&ピース」でつながれると思っている、「パーティーオーガナイザー」の若い女まひる」とは似て非なる認識だ。「つながれる」ではなく、「土」によっていやおうなく「つながってしまっている」こと。

 だが、言うまでもなく、その「土」も自然の土ではあり得ず、あくまでバブルを支えた土建業の「土」であり、世界資本主義のバーチャルな「土」にすぎない。精司は、タイ人パブの「ミャオ」にひかれ、もはや「土」(現場)のない日本(と妻)を捨てて、タイで土方をやりながらミャオと一緒になりたいと願う。地中奥深く掘っていったときの、ひんやりとした土の感じにも似た懐かしさをミャオに感じているのだ。

 だが、この懐かしさ自体が、バーチャルな「土」に関わる者の体の火照りが求めてやまない転倒した「土」の「冷たさ」であり、したがって、「サウダーヂ=郷愁、切なく追い求めてもかなわないもの」にすぎない。

 ミャオは、タイに残してきた大家族のために、むしろ日本国籍を取って働こうとしているのだ。そうした彼女の思いは、すでに少子化の一途をたどる日本で、親にせかされてまで子供を作らねばならない理由がわからず、タイに行ってミャオと二人だけで細々と暮らしていけるとばかり思い込んでいる精司とは、決定的にすれ違うほかはない。別れ際、精司はミャオの背中に「I hate money」とぶつけるのに対し、ミャオは振り返って「I want money」と言い返す。この非対称的な別れのセリフは、「成熟」した日本と、「成長」の過程にあるタイとの、世界資本主義における絶対的な立ち位置の違いを残酷なまでに映し出していよう。

 「土」に触れているからこそ感じてしまう、つながりとつながり難さ。精司には、その断絶を、水パイプでマリファナを吸引し、空想上で埋めた気になることぐらいしかできない。

 これが、後から現場に派遣されて合流する、さらに若い世代の「猛」になると、タイパブの「女の子」やブラジル移民のラッパーたちに対して、もはや「つながり」どころか敵意しか感じることができない。彼らは、まずもって自分たちの生活圏=テリトリー(職、金、団地、ステージ、…)を奪う存在でしかないからだ。したがって、日々のうっ憤をパチンコやタイパブや麻薬で薄め、散らすこともできずに、怒号のような国粋的なラップで敵意むき出しに吠えまくるしかないのだ。

 結局彼は、敵対するブラジル移民のヒップホップグループの一人を、路上で刺すにいたる。両者につながる可能性はなかったのか。作品は、その可能性の一瞬をも見せてくれている。

 それは、まさに「サウダーヂ」という言葉が、作中ただ一回出てくるその瞬間である。猛が日系ブラジル人の経営するハローワークでつぶやいた「山王団地」(少年時代、そこで家族が幸せに暮らしていた)という言葉を、ブラジル人は「サウダーヂ? 何でその言葉知ってるの?」と聞き間違える。猛に「サウダーヂ」(郷愁)を感じさせる「山王団地」が、まさにポルトガル語の「サウダーヂ」に置き換えられてしまう奇跡的な瞬間がここにある。

 ともすれば、ただのユーモラスなシーンとして受け流されてしまうかもしれないこの一瞬にこそ、「サウダーヂ」という作品の可能性が賭けられている。猛とブラジル移民がつながることがあり得るとしたら、きっと、この「サウダーヂ」という「故郷喪失」の感情を共有し、彼らから、そして我々から、日々奪い続ける「何者か」に対して共闘をはかっていくことからはじまるだろう。ただ一回きりの「サウダーヂ」が、猛をラストシーンから救うことができる。

中島一夫