生きてるものはいないのか(石井岳龍)

 石井聰互改め岳龍、十年ぶりの新作だという。
 大学と附属病院(全体として、現代社会を映し出すメタファー的空間となっている)を舞台に、前半、日常に頽落していた登場人物たちが、後半次々に死んでゆく。ストーリーらしいストーリーはそれだけだ。いわゆる黙示録=アポカリプス的な作品といってよいだろう。

 すでにカタストロフは、冒頭近くの女子大生たちの会話の中に「列車事故」として忍び込んでいる。だが、彼女らは、事故が運転手の異変によるものらしいという断片的な情報しか知り得ず、したがって「自分は無事に帰れるかどうか」ということにしか関心が向かない。

 前半は、彼女らをはじめ、日常会話を交わす人々が入れ替わり立ち替わり登場するが、彼らは基本的に「三人」で現れる。おそらく、それぞれ話題となる出来事の「全体」を誰も把握し得ず、したがって誰一人それに対して責任を取り得るような超越性を担えないという、現在のリーダー不在の人間関係そのものを示すためであろう(それを象徴する丸テーブル!)。冒頭、道に迷う男が出てくるが、基本的に登場人物たちは、今自らがいる場所の「全体」について何も知らない(在籍する医者ですら大学病院全体については知らない)。

 物語を駆動させる、大学病院にまつわる「都市伝説」というのも、その「全体」を知り得ないという「謎=余白」から発生するものであり、まさに「全体」の不可知性そのものを示している。「伝説」の内容は、病院の地下三階では、細菌兵器の製造のための人体実験が行われており、しかもそれはアメリカの要請によるというものだ。

 いざ、次から次へと人々が倒れていくと、この「伝説」が独り歩きし、その地下で製造されていた細菌が漏れ出てきたのではないかという噂が、まことしやかに人々に流布していく。ならば、「この緊急事態にアメリカの軍隊が動き出すはずだ」と考える者もいるが、後に「伝説」自体がかつての学生たちの作り話だと暴露されると、「アメリカも駄目か…」と肩を落とすほかはない。

 この一瞬、もしやこの作品は、アメリカの兵站地域としてのここ日本では、その「全体」について主体的責任をもって「生きてるものはいないのか」という批判が含意されているのではないかと思わせもするが、この後展開されることはない。これもまた、作品から「意味」を剥ぎ取ろうとする意図によるものだろう。

 唐突にやってくる一人一人の死と、だからこそ準備もなく死に見舞われることで、滑稽にすら映るそれぞれの死にざまを延々と映し出していく。そうすることで、人間の「死」から意味という意味を剥ぎ取り、不条理へとさらしていこうとする試みは分かる。だが、私には、リアルだったのは最初の女子大生の死のみで、むしろあとはすべて「意味」に見えた。

 確かに、直前までテンポよく会話していた女子大生が、突然塩コンブに喉をつまらせて死ぬこともひょっとしたらあるかもしれない。だが、その死を皮切りに、次から次へバッタバッタと死が連鎖していき、すると今度は誰もが、「次は自分の番だ」「自分もそろそろだ」「最期の一言を考えておかねば」などと考え始めていくのだから、もうそれは立派な「意味」だろう。

 何より気になったのは、この作品が「3・11」や福島原発事故を予見していたかのようだという好意的な評価が多く見受けられることだ。だが、「3・11」や原発事故を、この作品のように終末論的に捉えることは許されないだろう。世界は終わることがなく、生き残った者たちは生きて行かねばならないからである。

 この作品の登場人物たちは、他人の死に対して喪失感を抱くことはない。いや、抱く暇もなく自らも死んでゆくといった方がよいか。だから、本当は、ここには不条理など存在しない。不条理とは、「なぜ彼/彼女は死んでしまったのか(そしてなぜ自分は生き残っているのか)」という喪失感なしにはあり得ないからだ。そうした意味においても、この作品は、「3・11」からは最も遠いものだと言わなければならない。

中島一夫