ブラック・ブレッド(アウグスティ・ビリャロンガ)

 もはやアルモドバルの作品を見ても、ほとんどスペインの生命力を感じることはできない。それは、良くも悪しくもグローバルになってしまった。新作『私が、生きる肌』の、地に足の着いた生活から完全に遊離したアッパーぶりからは、現在の財政状況にあえぐスペインの様子はもちろん、濃密な人間関係を生きる人々の姿も一向に見えてはこなかった。

 そういう意味で、この『ブラック・ブレッド』は、きわめて刺激的だ。

 スペイン内戦後のカタルーニャの小村。少年アンドレウは、何者かによって崖から落とされた馬車(この落下のシーンの画が衝撃だ)を森の中で発見する。そこには、馬車から放り出された瀕死の友達クレットと、その父ディオニスの姿が。クレットは、アンドレウに一言「ピトルリウア」と告げて息絶える。

 「ピトルリウア」とは、森の洞窟に住むという伝説上の怪物で、半身が鳥で半身が人だといわれている。だが、実際は、内戦中に左派の活動家だったために森の奥へと追い込まれ、その後行方知れずになった男の名前だった(大江健三郎の世界を想起させる)。

 村人たちは、村中、いやスペイン中を左派と右派に二分したあの内戦の忌まわしい記憶を、この「ピトルリウア」の名とともに森の奥へと押し込め、今日まで暮らしてきたのだ。だが、クレットの死と引き換えに告げられたその名によって、再び内戦の記憶が引きずり出され、村は不穏さに覆われていく。

 そんななか、アンドレウの父ファリオルに、ディオニス親子の殺人容疑がかけられる。ファリオルは、ディオニスと左派の同志だったのだ。では、クレットの言い残した「ピトルリウア」の正体は、父だったということなのか。

 その後、アンドレウは、容疑を逃れるためにフランスに身を隠していたはずの父が、森の洞窟ならぬ屋根裏に潜んでいるのを発見してしまう。そういえば、父は半鳥半人のごとく、たくさんの鳥を飼い慣らしているではないか。友人クレットを崖から突き落として殺したのは、果たして父なのか。アンドレウは混乱するばかりだ。

 あるとき、アンドレウは、「ピトルリウア」の伝説さながらに、鳥のように森を抜け、森の奥の泉で翼を広げるようなしぐさを見せる青年を発見する。彼は、伝染病を患い、自らを隔離するように修道院で療養生活を送っているという。この第二の「ピトルリウア」こそが、最後にはアンドレウにとって唯一の救いとなるのだ。

 父は警備隊に見つけ出され、やがて処刑されることになる。父は、別れ際アンドレウに「戦争が恐ろしいのは、人間が理想を失って空っぽになってしまうことだ」と伝える。実際、父は、内戦のさなか、同性愛者の処刑=去勢に加担し、しかも資産家の婦人のために殺人も行っていたのだった。アンドレウは失望のあまり、父が大事にしていた「理想=自由」の象徴たる鳥たちを虐殺してしまう。

 母もまた父の過去を隠し、それがばれると「貧乏で仕方がなかった」のだとアンドレウを言いくるめようとする。アンドレウには、両親が現実に敗北し理想を失った、汚い大人にしか見えなくなるのだ。

 内戦の手榴弾で右手の指を失い、大人たちを憎んでいる親戚の少女ヌリアから、「村に火を放って一緒に逃げよう」と悪魔的な誘いを受けると、アンドレウは、その誘惑にほとんどすがりつきたくなる。だが、すんでのところで思いとどまらせたのは、あの修道院の青年だった。

 資産家の養子となり医者を目指すか(=裕福の象徴たる白パン)、父が処刑され未亡人となった母のもとに残るか(=貧乏の象徴たる黒パン)の選択を迫られるアンドレウに、青年はどちらも矮小な現実にすぎないとばかりに言い放つ。「低空飛行ではなく、もっと理想高く飛び立つんだ」。

 アンドレウにとって、この第二の「ピトルリウア」は、父のように嘘をつかず「理想」を裏切らない真の「ピトルリウア」だった。アンドレウは感激のあまり、病気がうつってもかまわないと、しっかりと「青年=理想」を抱きしめる。

 それは、同時に、同性愛者をまさに村の「病」であるかのように排除=去勢したり、共産主義という「理想」を掲げながらも、実際は資産家や有力者と癒着していたりしていた両親への決別を意味していた。アンドレウが、頬につたわる涙をふきながら放ったラストの一言は、その宣言でなくて何であろう。

 クレットが言い残した「ピトルリウア」も、「馬車を落下させたのはピトルリウアの仕業だ」という意味ではなかったのかもしれない。それは、「自分は落下してしまったけれど、君はピトルリウアになって理想高く飛び立て」という意味だったのかもしれない。思えば、クレットは、自分の小鳥に、この名をつけていたのだった。

中島一夫