地獄でなぜ悪い(園子温)その2

 また、三つの話とも、それが映画に関わるものである以上、それぞれに「監督」が存在することになる。最初の話では、CMをリアルタイムで見て少女に虜になったあの日の少年が、そしてヤクザの話ではもちろん親分が、それぞれ監督となる。そして、話が進行するうちに、彼らは、やがてファックボンバーズの監督に、折り重なるように合流し、彼に代表されることになるだろう。

 ここでは、監督も、あらかじめ君臨し鎮座ましましているものではあり得ない。渦の中で生成し、映画とともに疾走するものとしてあるのだ。だからこそ、本作の監督である(第四の監督?)園子温自身も、あえてはじめて映画を撮るかのような、20年前の青臭い脚本で挑む必要があったのだろう。

 この幾重もの入れ子構造を成している「箱」を、巧みにかぶせたり外したりしながら、現実と映画を、「リアリズム」と「ファンタスティック」を、何度も何度も往復すること。おそらくここには、3・11以降、『ヒミズ』『希望の国』と、たて続けに大震災と原発の現実を映画にしようとしてきたこの監督の、「現実=映画」観が込められていよう。

 そして、誤解を恐れずに言えば、ある意味で、一見それとは無関係にみえる、この『地獄でなぜ悪い』こそが、『ヒミズ』や『希望の国』以上に、3・11後の映画(そんな括りが妥当かどうかはさておき)といえるのではないか。自らの作品も含めて、数々映像化されたことで、かえって人々が適度な距離をとりつつある大震災の血なまぐさい現実(本作の、プールのような半端ないあの血の量を見よ)を、あたかももう一度たぐり寄せるように「映画」と拮抗させていくこと。

 監督は言う。「(『ヒミズ』や『希望の国』を)被災地で上映すると、被災地の人たちは「映画を作ってくれてありがとう」とは言ってくれるんだけど、どこか悲しそうな表情をしていたんです。そのとき、次に撮る映画は、明るくて楽しくて、何にも考えなくていい、コーラやビールの似合うポップコーン・ムービーを作ろう」と。

 被災地の「悲しそうな表情」は、「現実をわざわざ映画で見たくない」とか、逆に「現実はこんなもんじゃない」ということだろうか。いずれにせよ、園は、映画を撮ることで、かえって被災地(の観客)を映画から遠ざけ突き放してしまったと感じた。ならば、もう一度、彼らを映画へと連れ戻さねばならない。映画の中に引き込まねばならない。

 ヤクザもファックボンバーズの連中も、映画を「生きる」者らは全員、ここでは警察に「次」「次」と銃殺に処されるほかはない。そうした事態は、機関銃をぶっ放つ警察の一人にさえ、「これは映画じゃないのか…」とつぶやかせるだろう。粛清の後には、累々と死体が折り重なる。かくも映画とは、この一本を撮るために、血を流して「死ぬ」ものであり、「地獄」だということか。

 それでもフィルムは残っている。不死鳥のごとく立ち上がった「監督」は、そのフィルムを抱えつつ、夜風の中を疾走する。勝利の雄叫びを上げるように「フォー」「フォー」と哄笑しながら。

 そして、いつのまにか観客は、いつまでも、その姿を見ていたいと願っているのだ。

中島一夫