人魚伝説(池田敏春)

 ストーリーはあえて省略する。そんなことをつらつら書いても、とても作品の強度に拮抗し得ないからだ。

 原発推進派に夫を殺された海女の復讐劇。それだけ。白都真理が、白肌(オールヌードが話題になった)と白装束を血で真っ赤に染めながら、海に潜ってはまた地上にあがり、代議士や地元の実力者からパーティーコンパニオンに至るまで、原発誘致に加担したすべての者どもを次々に皆殺しにしていく。

 日活を退社した池田敏春が、1982年に設立された映画制作会社ディレクターズ・カンパニー(ほか長谷川和彦相米慎二根岸吉太郎大森一樹井筒和幸、石井聰互、黒沢清高橋伴明らが参加)の劇場映画第一作として発表した本作は、まぎれもなく傑作である。

 とにかく、白都真理が、原発竣工パーティーの会場に一人乗りこんではテロを敢行するクライマックスが圧巻だ。7分間にわたる大立ち回りで、40〜50人(いや、もっとか)を銛でめった刺し。ピューとほとばしる血しぶき。返り血で顔から服から真っ赤に染まる白都。やがて血の赤が重なってどす黒くなっていく。

 何人がかりでつかみかかっても、決して彼女を捕えることはできない。もはや人間とは思えない何者かになっている。海から上がってきた怒れる人魚? しかもその海は、折口信夫がその向こうに異界を見出した伊勢の海だ。ならば、怒れる人魚は、社会の秩序を一変させる「マレビト」でもあるか。

 作品を通して、彼女は、何度となく海に突き落とされ、また逃げ込んでは、そのたびに怒りを膨れ上がらせて「蘇生」する。その怒りは、もはや夫を殺されたというのをこえている。

 「人魚=海女」とは、漁を営むために、海(魚)という自然と共存をはかってきた「人=魚」であり、半分人間、半分魚の存在だろう。だから、海に原発を建設することは、共存してきた下半身(魚、海、自然)を切断する行為以外の何物でもない。海に生きる者にとって、いろいろな意味で身を切られるような思いなのだ。

 宮谷一彦の原作漫画は未読だが、おそらくは、三重の芦浜原発闘争あたりがモデルになっているのではないか。1964年に中部電力が芦浜を原発候補地として構想を掲げて以来、真珠貝養殖の町、南島町では、海水汚染の恐れに漁民たちが立ち上がり、激しい闘争へと発展していく(隣の紀勢町は賛成に回り、それまで協同してきた地元漁師たちを敵対させることにもなった)。

 「サカナに頼まれて反対している」。伊達火力発電所建設に反対した有珠地区の漁師の言葉だ。白都真理が「アワビ取るしか能がない」とぼやくとき、それは単にそれで生計をたてているという意味ではない。自分にとってアワビは主体でも客体でもある、自分とアワビとは切り離せないと言っているのだ。

 「あんた殺したん、いったい誰や!」。彼女は皆殺しにしながら叫ぶ。夫を直接殺した真犯人は分かっても、原発を支える顔=主体のない力、しかもそれは続々と無際限に湧いて出てきて、切っても切ってもきりがない。「いったい、何人殺したら終わるんや」「次から次へと悪い奴ら出てきよる」。

 殺しが数人だったら変に生々しかっただろう。だが、これだけの人数がバッタバッタと殺されていくとき、画面は凄惨さをこえて圧倒的な強度を帯びてくる。この作品には、この強度が必要だったのだ。

 おそらく、この作品は、今や国家すら口にする「脱原発」という骨抜きの言葉(泊原発はあっさりと再開されたではないか)に回収されることを拒む強度をはらんだ、ほとんど唯一の作品ではないか。

 彼女はあたりを機動隊に包囲され、万事休すと思われたそのとき、あの地元の漁師たちと海を見守ってきた地蔵への祈りが通じたのか、神風のごとく大嵐がやってきて、機動隊は突風にあおられズルズルと後退、ついにはジュラルミン盾もろとも吹っ飛ばされてしまう。

 ここまで来ると思わず笑いすらこみあげてくるが、すぐさまハッとなる。昨年、この伊勢の海で、池田監督は投身自殺をはかった(折口の見た風景を見ようと、私も大王崎灯台にのぼったことがあるが、見はるかす海は確かにどこか幻想的で、ともすると吸い込まれそうになる)。

 もちろん、監督がどんな思いで死に至ったのかは分からない。だが、不謹慎を承知であえて言えば、伊勢の海に放り投げられた白都真理が、その後怒り狂って嵐を引き起こしたように、伊勢の海における監督の死は、今回津波という嵐を呼び起こし、われわれが、すっかり「原発」を忘れほうけていたことを、怒りをもって思い出させようとしたのではないか。画面の嵐を見ながら、そんな錯覚を覚えた。

 まさに「祈り」であるだろう、水中写真の名人・中村征夫によるラストの水中撮影のシーンは、えも言われぬほど美しい。

中島一夫