アデル、ブルーは熱い色(アブデラティフ・ケシシュ)

 いかにも堅実な市民が暮らしていそうな、庭付きの白い色の家から、まだあどけなさの残る高校生の少女「アデル」が出てくる。「アデルの人生、第一章、第二章」の原題のとおり、このあと作品は、学生時代から教師になっていくまでのアデルの青春時代を、三時間にわたって活写していく。

 好奇心に従い、触れるものによってどうにでもなってしまいそうな危うさをたたえているアデルは、いつも口が半開きで目線がキョロキョロと定まらない。彼女は、学生時代は同じ学校の「ブラピ似」と言われる男の子と、次いで街で出会った、短髪で相手を射抜く目を持つ画家の卵「エマ」と、それぞれ恋に落ちていく。

 感じたままに、惹かれるままに恋愛関係へと進んでいくアデルの純粋さに、「レズビアン」や「バイセクシャル」という言葉がふさわしいかどうかも不確かだ。いつもどこか不安げな表情で、しょっちゅう涙を流すアデルは、同性異性問わず、性急に他者を求めていく、その衝動ぶりがむしろ際立っている。

 女性同士の激しいラブシーンや、そこで尻が強調されることが話題になっているが、その点は盛んに言われているのでそちらに譲ろう。ここでは、この作品におけるアデルは、エマの絵のモデルとして、またエマの芸術へのモチベーションを刺激するミューズとして生きていくという点について触れたい。

 エマとの出会いによって開かれたアデルの生は、だが、エマの絵のモチーフでしかなく、生というより死である。エマと付き合うようになり、芸術家仲間とパーティーをしたりするなかで交友関係も激変していくが、彼らがクリムトエゴン・シーレかで論争していても、両方とも知らないアデルにとっては苦痛でしかない。

 サルトルの「実存は本質に先立つ」を持ち出すエマに対して、アデルは「にわとりが先か卵が先かみたいな話でよく分からない」とこぼす。身の置き場もない彼女は、家事に徹するほかないのだ。

 エマと付き合いだしたことで、むしろアデルが生を失っていくことがはっきりするのが、デモのシーンだ。学生時代の民営化反対のデモに参加していたアデルと、エマとともにゲイやレズビアン解放のデモに参加している彼女の姿を比べてみればよい。前者のはじっけっぷりに比して、後者のアデルは、終始周囲を気にしておどおどしている。むろん、その前にゲイバーに出入りしていたことで、レズ呼ばわりされ、友達グループに爪はじきにされたことも、アデルの心に影を落としていただろう。

 所詮、堅実な家庭に育ち教師になっていくお嬢さんに、芸術家エマの世界は縁がなかったということだろうか。いや、そうではあるまい。

 確かに、この作品は、エマとアデルを、その種のわかりやすい二項対立――「進歩的な芸術家」と「保守的な実際家」――に押し込めるところがないわけではない。だが、それよりも、アデルがエマの芸術の「対象」となっていくことで、街ですれ違い視線をからませたときには対等だったはずの両者の関係が、知らず知らず、ある種の権力関係をはらんでいってしまうことの方が、はるかに重要だろう。

 端的に、絵のモデルとなるということは、画面の外から中へと、また動から静へと、そして生から死へと権力的に移行させられることであり、画家に「所有」されることにほかならない。エマがアデルを家から追放するシーンに、その権力関係ははっきりと表れるだろう。

 破局のあと、海水浴で海にプカーっと浮かぶアデルの姿は、死の擬態でなくて何だろう。そして、ラストのエマの個展で、画面の中に押し込められたアデルは、そのとき、人生の「第一章、第二章」における完全な死を迎えたといってよい。だから、アデルは、ほとんど絵に見向きもしないし、虚ろなまま、一人?会場を後にするだろう。皮肉にも、そのときアデルは、かつて彼女を魅了してやまなかった、芸術家エマの青い髪のように、真っ青な服を着ていた。だがすでに、ロングスカートで、その自慢のヒップラインは隠されている。

中島一夫