コーヒーをめぐる冒険(ヤン・オーレ・ゲルスター)

 朝、一日の始まりにコーヒーを飲みたくなり、あなたはカフェに入る。だが、あなたの注文したコーヒーだけが、なぜかやってこない。挨拶をしたのに、返してもらえなかったような気分だ。そのうち時間切れになり、あなたは小さな疎外感を抱きながら店を出る。

 一日の始まりのコーヒーにありつけないという、このありがちな出来事は、挨拶を交わしあうことで、今日もまたお互いに象徴界に接続しあう儀式から人を疎外させる。こうして始まる青年「ニコ」の一日は、したがって、ことごとくコミュニケーションがうまくいかない。果たして彼は、無事にコーヒーを飲み、コミュニケーションを成立させることができるのか。ベルリンの街を舞台に、ニコの小さな「冒険」が、モノクロ映像で綴られていく。

 コミュニケーションの軋みや行き違いが、いくつもユーモラスに描かれるので、基本的には笑いを誘われる作品だろう。だが本当は、一つ一つのコミュニケーションの失敗が、言葉や歴史の本質的な問題に関わっているのだ。

 コーヒーショップのシーンはどうか。ニコは、普通のシンプルなコーヒーを飲みたかっただけなのだが、店員は執拗に「アラビアかコロンビアか」の選択を彼に迫る。無理やり選んだら選んだで、やけに高い額を請求され、結局彼はコーヒーを飲むことができない。まるで、ここには「コーヒー」という「類」が存在せず、「アラビア」か「コロンビア」かという「個」に分節された世界だけが、象徴界を形成しているかのようだ。

 そうした事態を示すかのように、ニコは象徴界をつかさどる父に仕送りを拒まれてしまう。いわば彼は、象徴界にアクセスを拒絶されている存在だ。父は、彼に象徴界への参入を認めないように、お気に入りの部下を、あたかもこちらが本当の息子だというように扱う。このニコの追放劇が繰り広げられるゴルフ場は、夢=無意識の場面のように、現実感が妙に希薄である。

 父=象徴界にアクセスできないニコは、当然「歴史」の主体にもなれない。昔の同級生、通称「デブリカ」(太っていたから)と二人で歩いているとチンピラにからまれてしまい、彼女が挑発に乗ったためにニコは殴られてしまう。

 「無視すればよかったのに」と言うニコに、彼女は言い放つ。「私が太っていたとき、あんたたちがからかうのを無視したように? あのとき私は傷ついていたのよ。だから、今は言い返すようにしているの!」ニコが忘れてしまった歴史を差別された側は覚えており、ふいに主体として再び語りだす。まさに、ポストコロニアルな現象として、いたるところで露呈していることだ。

 ラストの老人とのシーンも、同じ文脈にあろう。バーで酔いつぶれた老人が、カウンターに一人座っていたニコに、強引に語りかけてくる。回帰するベルリンの大文字の歴史。老人は、いきなり1938年の「水晶の夜」=反ユダヤ人暴動について演説をぶってくる。歴史を共有していないニコは、「俺には関係ない」と明らかに迷惑顔だ。だが、どうしても「語り」から逃れ去ることができない。

 そのうち、ニコに「僥倖」が訪れる。他の客もバーテンも老人に興味を失いだし、老人とニコが単なる店の喧騒の一部に埋没すると、ふいに老人は、幼いころ、父から自転車に乗る訓練を受けていたときの話を、ニコだけに語って聞かせるのだ。

 この語りが見事だ。話の内容というより、老人の身体性が聴く者を引き込んでいく。そして、これが老人の「遺言」になってしまうのだ。

 ニコはこのとき、思わぬ形で歴史と言葉を他者と共有することで取り返し、それらに再接続を果たすことになる。できれば関係しないですませたかった老人の救急車に、思わず飛び乗ってしまうのもそのためだ。

 何か劇的なことが起こったわけではない。思えば、世界が、ひとつ挨拶を返してくれただけだ。映像は何事もなかったように、モノクロのまま、ニコがコーヒーを飲む姿をとらえ続ける。ただ、コーヒーを一口すするたびに、ニコの中では、何かが静かに始まっているのだ。

中島一夫