神々のたそがれ(アレクセイ・ゲルマン) その1

 このとてつもない怪物的な映像を、いったいどのような言葉で捉えればいいのか。何度見ても、途方に暮れてしまう。

 ゲルマンは国内外で「反ソ」の作家と目されてきた。確かに、長編第一作『七番目の道連れ』(1967)で、早くも達成二年後に裏切られた革命を描き(トロツキー的?)、続く『道中の点検』は、ゴルバチョフペレストロイカまで公開されなかった(あの「反スタ」ソルジェニーツィンも秘密上映会で見たがっていたという)。前作『フルスタリョフ、車を!』では、とうとうスターリンの死を、観念的にではなく、その死後硬直した遺体=肉体を画面にさらけ出すという不敬を働いた。ゲルマン自身、自分は党員ではなく、共産党と映画で論争していたと公言している。

 だが、反ソでありながら、単なる反スタや、反革命ではなかったところに、この監督の真骨頂があろう。「ロシアは悪の国家なのに、ロシア人は善人なのです」。ゲルマンの言葉には、彼が抱えていたねじれや逆説がにじみ出ている。主観と客観、内面と外面がめまぐるしく交互に映し出され、やがて錯綜して混沌としていく。この、新しすぎたがゆえに無理解にされされ続けた、監督独特のポリフォニックな映画言語は、何よりもその、真に革命を追求するためには革命を裏切るほかないという逆説を余儀なくされた、監督自身の生を表現していよう。

 本作の原作、ストルガツキー兄弟SF小説『神様はつらい』では、地球より800年遅れ、中世のまま停滞している惑星に、地球の学者30人が「観察者」=秘密調査員として派遣される。その一人である主人公「ドン・ルマータ」は、「ドン=貴族」として惑星の住人にまぎれこみ生活しているが、いつしか「神」へと祭り上げられていく。

 ルネサンスが到来せぬまま混沌の中にあって、知識人が迫害、虐殺されているこの惑星は、粛清の嵐が吹き荒れた1930年代のロシアを容易に想起させよう。中世に逆戻りしたかのような反動的なその光景は、ゲルマンの逃れがたい原風景といってよい。

アレクセイ・ゲルマンはどうだったかと言えば、彼は自由で民主的な社会発展の道が可能なのではないかとの幻想を捨てきれないでいる知識階級に属していました。とはいえ、ゲルマンは、私たちの国がとりわけ一九三〇年代に経験した恐怖政治へと回帰してしまうことに怖れを抱いていたのです。生涯を通じて、彼はあの時代が醜さを露わにしながら再び戻ってくるのではないかと懸念していました。(ゲルマンの妻にして協働者、スヴェトラーナ・カルマリータの発言)

 とすれば、その惑星を後進的と見なし、「観察者」を送りこんでは進歩を促そうとする「地球」とは、「あるべき革命の未来」ではなかったか。ルネサンスの訪れない惑星とは、革命があらぬ方向に向かいつつあるロシアであり、その歴史の顛末をすでに知っている800年後の地球の「知恵」によって、革命をあるべき方向へと導こうとする願い。観察者とはその担い手にほかならない。原作に比べると、地球人と惑星人は、ほとんど見分けがつかないほどその違いがぼかされている。

 映画において、惑星では、革命が捻じ曲げられようとしている。災害や不幸は知識人の招いたものだとされ、知識人狩りが横行しているのだ。彼らを「陽気な塔=収容所」に閉じ込め拷問し、また屋外便所に放り込んで処刑し、至るところに逆さづりにしてさらし者にする。人々を無知な状態にしてコントロールしやすくするという、独裁国家の繰り返されてきた統治法である。

 このような恐怖政治を行なっている統治者「ドン・レバ」を、原作者ストルガツキー兄弟は、当初「ドン「レビヤ」」、すなわちスターリン体制下おける大粛清の執行者として悪名高い「ベリヤ」のアナグラムの名前を採用していたという(結局、SF作家のエフレーモフの助言で取りやめた)。

 ここでにわかに、前作『フルスタリョフ、車を!』が思い出されよう。そのタイトル自体、いよいよスターリンが死を迎えたときに、側近だったベリヤが、ボディーガードのフルスタリョフに「車を呼べ」と指示した言葉にほかならないからだ。つまり、ベリヤの手によってスターリン時代の終焉が告げられたことを、象徴的に示しているのである。

(続く)