サウルの息子(ネメシュ・ラースロー)

 ピンボケの画面を男が近づいてくる。

 その男、サウルは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所の「ゾンダーコマンド」だ。ガス室の遺体処理や床洗いのために、ユダヤ人で構成された特別部隊で、背中に×印の囚人服を着せられている。

 ゾンダーコマンドに指名された初仕事は、前任者の処理だったという。その交代劇は定期的に繰り返される。つまり、ここには、ユダヤ人自身がユダヤ人を絶滅させるという、悪夢のような循環システムがを作られようとしているわけである。

 ぼやけた画面の中をゾンダーコマンドの男が現れる冒頭は、事態が「ピンボケ」であやふやであることを許さないという宣言なのだろうか。そう考えると、なかなか戦慄的なオープニングである。

 ならば、殺された息子を埋葬してもらえるよう、囚人の中にラビ(祈祷師)を探し回るサウルにピントを合わせ、あるいはその身体に寄り添うほど異様に近づき、視界の狭まった(スクリーンサイズも正方形)カメラが、混乱する収容所においていったい何を見つめようとしているのかも、自ずと明らかになろう。

 サウルは、ゾンダーコマンドの同僚に、何度も「息子はいない」とその存在を否定され、「お前もレジスタンスに加われ」と迫られる。実は映画では、一度も息子の顔は映されない。「息子はいない」とは、「お前に息子はいないはずだ」とも、「われわれの記憶を継承するような「息子」は存在しない」ともとれる。

 それでも彼は、遺体を「息子」と言い張り、レジスタンス集団から外れて、ただひたすらユダヤの正統的な埋葬をラビに求め続けるだろう。その姿は、敬虔なハシディズムや、敬虔であり過ぎたために矛盾に満ちた孤立の道を歩んだ、ゲルショム・ショーレムのようなユダヤ神秘主義を想起させる。

 絶滅のシステムに送りこまれたユダヤ人――しかもその同胞は、戦後もイスラエルアメリカに移り住むことなくヨーロッパにとどまり続けるだろう、イディッシュ語を話すユダヤハンガリー人――が、存在しないかもしれない「息子」を、ラビの力であらしめようと奔走する姿は、レジスタンスによって事態を打開しようとするユダヤ人とは、全く異質な闘いを実践しようとしているといえよう。それはそのまま、同じくユダヤハンガリー人の監督が、歴史的トラウマを風化させまいと量産されてきた、ハリウッドやドイツのの「アウシュヴィッツ映画」と、全く異なる目で事態を捉えようとしていることに重なるだろう。

 ならば、ピントを合わせたことでかろうじて見出されるサウルが、周囲に抗して「いる」と言い続けた「息子」とは、この監督自身のことだと言うのは、安易に過ぎるだろうか。だが、ラストシーンを見ると、思わずそのようにつぶやきたくなる。

中島一夫