JOKERと黛ジュン、あるいはノックの近さについて

かくして自我は法や愛や人倫などのような規定をすべて価値のないものとみ、単なる仮象とみるのであり、この自我がそれ自身のうちに集中すること、これがすなわちフリードリッヒ・シュレーゲルによって創案され、他の人々によって復誦されたイロニーであり、神的イロニーである。この立場はすべての実体的な、真実なものを空無と観じ、すべての真に客観的なものを虚無と観ずる立場だということもできる。かく空無として観ぜられるとき、すべての真実な、客観的なものは、主観の思うがままになる。したがって主観はこの空無に満足していることができる。かような主観はそれ自身無内容で空虚である。(ヘーゲル『美学』序論・竹内敏雄訳)

 

 もうずいぶん前に二回見た『JOKER』は、ホアキン・フェニックスのあいかわらずの演技と存在感に胸打たれながらも、「こうなってしまえば楽だよなあ」という思いが禁じえなかった。母殺しと「父」殺しを敢行したアーサーは、「すべては主観だ」という立場に行き着く。「自我は法や愛や人倫などのような規定をすべて価値のないものとみ」なすことで、「すべての真実な、客観的なものは、主観の思うがままになる」という立場であり、シュレーゲルの「神的イロニー」である。

 

 だが、「黛ジュン」の新木正人は、上のヘーゲルのシュレーゲル批判を「すぐれたドイツロマン派批判である」と肯定しながらも、この国の革命はもっと「粗雑でひそやかな」ものだと言う。そこで黛ジュンをもってくるのである。以前書いたが、この「黛ジュン」は、ある時は「更科日記の少女」であり、「赤い靴」の少女であり、「上海帰りのリル」、「雪村いづみ」、「中森明菜」、「きゃりーぱみゅぱみゅ」などへ次々に変奏されていく。この連鎖する「少女」らは何なのかと問われれば、おそらく新木にとっての「耐え方」であり「踏みとどまり方」としか答えようがない。新木にとっては、その連鎖そのものが「粗雑でひそやかな」革命なのだ。

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  共産圏崩壊以降、「すべての実体的な、真実なものを空無と観じ、すべての真に客観的なものを虚無と観ずる立場」=「神的イロニー」への誘惑は絶えない。この誘惑に身を任せてしまえば、JOKERのごとく「思わず恍惚を叫んでしまうような呪縛」のもと、「フォルティッシモ与えられた想念は忽ち妄想と化す」ほかはないだろう(新木「遠い意志(一)」)。あるいは,「われわれは皆JOKERだ」とばかりに性急にアナーキーな暴力と破壊の祭の快楽へと没入していくしかないだろう(現在、下層に渦巻くこうした欲望を吸い上げようとするハリウッドのしたたかさ)。だが、いわばそれは「沈む夕陽」への屈服でしかない。黛ジュンは「沈む夕陽止めようと」するように、その磁場から身をねじきって、果てしなく「遠くまで行」こうとしたのだ、と。

 

 とうに冷戦は終焉し、「眼に見える〈敵〉と対峙しそのことによっておのれの〈存在〉を確立させようとする試みがピンチなのは沈む夕陽より確かなことだ」(「黛ジュン」)。眼に見える「敵」は敵ではなく、したがっておのれの「存在」も容易に確立できない。現在盛んに言われる「新冷戦」など、資本制国家AとBのヘゲモニー争いでしかあるまい。それは「敵」を捏造しては真の敵を見えなくさせる、いつものまやかしにすぎない。

 

 新木は、何度も何度も「マルキシズム憎悪する献身的なマルキストの快楽」と言う。現在は、単なる「マルキシズム憎悪」か、単なる「献身的なマルキスト」しか存在しないように見える。いや、それすらほとんど存在しないと言うべきか。

 

 「マルキシズム憎悪」しながらいかに「献身的なマルキスト」たり得るか。新木の言う「遠い意志」とは、この「一歩前進二歩後退」(レーニン)の「耐え方」にほかならない。それに比べてJOKERのノックの音は、あまりにも近い、近すぎるのだ。

 

中島一夫