天使の誘惑(新木正人)

天使の誘惑

天使の誘惑

 68年革命の渦中で書かれたこれらの言葉を、まともに論じる能力も資格もない(詳しくは、すが秀実による『遠くまで行くんだ』復刻版の「解説」など参照)。

 橋川文三『日本浪漫派批判序説』を筆頭に、六〇年安保の後、桶谷秀昭磯田光一村上一郎など、保田与重郎や日本浪漫派を論じるのがブームだった一時期があったと言われる。以前はそれを、単なる「転向」としか思わなかったが、当時の保田の論理と昨今のISのそれとが類似している(まさに「非西洋」が「もの」(フェティッシュ)ということだろう)と感じて以来、妙にリアリティを帯びてきた。

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 本書所収の新木による日本浪漫派にまつわるエッセイは、そのブームの中で、しかしそれらと決定的に距離を置こう、「遠くまで行」こうとする試みである。少し読んでみればすぐにわかるが、なるほど、先に挙げた日本浪漫派論とは文章からしてまったく異質なのだ。

 本書で新木は、何度となく「マルキシズム憎悪する献身的なマルキストの快感」と言う。これは、いわば68年のテーゼだろう。既成左翼や社会主義勢力の担保たるマルクス主義を「憎悪」しつつ退けながら、なお「献身的なマルキスト」たり得るか。そしてこれは、68年の「成果」たる冷戦崩壊後の現在においても、なお一層われわれを規定している「前提条件」である。

 だから、当時の日本浪漫派=保田ブームは、「そこには、マルクス主義(反スターリン的なものも含む)の思考に欠落していたものを埋めるというモティーフがあり、主観的にはマルクス主義の放棄ではなかった」(すが秀実『革命的な、あまりに革命的な』)という。すなわち、マルクス主義前衛党が見出すプロレタリアートではなく、それが見逃してきた「生活者」、「大衆」、「民族」、「アジア」、……一言で言えば「故郷」へと向かったのだ。むろん、実体としてではなく「喪失」された「故郷」として。ロマン的イロニーである。

 新木が重要なのは、半ばそこに不可避的に吸引されながらも、最後のところで何とかそれらを断ち切ろう、踏みとどまろうとしていることだ。その耐え方が、いわゆる「少女論」なのである。

 「更級日記の少女」といい、「黛ジュン」といい、「赤い靴」の少女、「上海帰りのリル」、「雪村いづみ」、果ては「中森明菜」、「きゃりーぱみゅぱみゅ」まで、次々と連鎖される(非行)少女たちが、いったい何を意味し、どうして彼女らが選ばれたのかは、ついに分からない。

 おそらく、彼女らは、それが「美空ひばり」ではなく、「藤圭子」ではなく、「山口百恵」「ではない」ことにおいて重要なのだ(「明菜が明菜であり、百恵ではない理由はここにある」)。そして、その「ではない」ことを、新木は「軋み」(本書のキーターム)と呼んだのだろう。

 輪島裕介が言うように、美空ひばり藤圭子は、ニューレフト(竹中労五木寛之)によって「演歌」のスターとして祭り上げられた(『創られた「日本の心」神話』)。既成左翼が「低俗」、「頽廃」として下位に置いてきたレコード歌謡を、それらに対抗する必要上、「土着的」、「民族的」、「民衆的」として肯定的に読み替えていったわけだ(典型的な吉本隆明「転向論」のロジックだ)。これが先の、日本浪漫派=保田ブームと同じロジックに基づくことは言うまでもない。まさに、「喪失」されている「もの」として創造された「日本の心」である。

 新木は、「国民的」な美空ひばり藤圭子山口百恵との差異=軋みにおいて、先の「少女」たちに寄り添ったのではなかったか。『山口百恵は菩薩である』を書いた平岡正明同様、新木にしても、例えば「百恵は私にとって神である。かつて山口百恵という歌手がいた、ということだけを支えに私は生きることができる」と言う。そのとき新木は、「百恵はなによりもアジアの子であり、アジアの最良の魂を具現していた」と、日本浪漫派=保田ブームの論理にからめとられそうになっていただろう。

 だが、ぎりぎりのところで、「百恵の影」である「明菜」を選択するのである。百恵の自意識は「アジア的に円環して」おり「その強さと鋭さが、自分と他者を傷つけることはな」いが、「明菜は違う」からだ。

アジア的円環とは無縁の、自分を傷つけ、他人を傷つけ、もがき苦しみ、のたうちまわったあげくに時間とともに衰えていく、そんな悲しい自意識だ。(「中森明菜」)

 美空ひばり藤圭子山口百恵の「アジア的円環」に吸引され、からめとられた帰結が、「天使の誘惑」に「身を任せきった」天皇制なのだと、今は論証抜きで断言しておく(最近の宇多田ヒカルの、母・藤圭子への「回帰」もこの文脈で見るべきだろう)。とりわけ3・11以降、またしても「故郷=天皇制」への「誘惑」が激しくなるなかで、横になれないほどのひどい不整脈、ユンケルをがぶ飲みしないと立っていられなかった新木が、「少女」をもって必死に耐えようとする姿は、何とも言えず胸を打つとともに、極めてアクチュアルではなかろうか。

 もちろん、この程度の読みでは、唖然とするほどひたすら遠くまで行こうとしていた新木には、まだまだ届かないだろう。

中島一夫