ホドロフスキーの虹泥棒(アレハンドロ・ホドロフスキー)

 日本では初公開、1990年のホドロフスキー長編6作目だ。「幻の未公開作」と言われてきたが、噂に違わぬ傑作だった(カルトなホドロフスキー好きには、やや物足りないかもしれないが)。

 『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥール、『ドクトル・ジバコ』のオマー・シャリーフ、『ロード・オブ・ザ・リング』のクリストファー・リーの共演は、それだけで心踊る。そしていざ作品が始まれば、そこはまるでサーカスのような、めくるめくホドロフスキーワールドだ。世界の本質と理想をいっぺんに描かんとする、良質な大人のファンタジーに酔わずにいられようか。

 冒頭、テムズ川だろうか、水に浮かぶ一匹の魚を、街のコソ泥「ディマ」(オマーシャリーフ)がすくいあげる。空腹のディマは早速食べようとするが、物欲しそうな一匹のネズミが目に入ってしまう。「俺の方が腹ペコだよ」。いったんはネズミを追い払おうとするが、「しょうがないなあ。少しだけだぞ」。結局は尾の部分をナイフで切り取って、ネズミに分け与えるのだ。

 風変わりな大富豪「ルドルフ公爵」(クリストファー・リー)は、彼の遺産にしか興味のない親族にうんざりしている。彼らとの晩餐会に嫌気がさし、「本物の人間を!」と娼婦たち「レインボウ・ガールズ」を呼び寄せて乱痴気騒ぎを繰り広げるのだが、その最中に心臓発作を起こし、その後何年も昏睡状態に陥ってしまう。

 一方、ルドルフの甥「メレアーグラ」(ピーター・オトゥール)は、彼が相続すると見込まれている公爵の莫大な遺産を、自分たちこそ得ようと画策する親族たちの会話を耳にしてしまい、失望のうちに愛犬クロノスとともに姿をくらませる。後に一族の写真を眺めるシーンからもわかるように、彼は遺産には目もくれず、ただルドルフたちとの絆を愛していただけなのだ。

 街をさ迷うメレアーグラに声をかけたのがディマだった。ディマは住処である地下に彼を誘いこむ。ディマにすれば、むろんいつかは手に入れるだろう遺産のおこぼれを期待してのことであり、コソ泥最大の盗みであったろう。親族から身を隠したいメレアーグラにとっても、これは渡りに船。こうして二人の奇妙な地下生活が始まる。

 ディマが地上から持ってきた食料を「盗んだものは食べない」と拒絶し、「金貨ではなく真実を探してこい」と訴えるメレアーグラは、自身認めるところの「時代遅れの信念」を抱き続けるコミュニストだろう。当初は、単なる泥棒だったディマは、このメレアーグラを盗むことで、その信念と精神をも盗む存在となる。それこそ引き継ぐべき真の「遺産」なのだ。

 この「地下」は至る所に通じている。メレアーグラとともに地下生活を送るなかで目覚めていくディマの「地下」は、ワイダ『地下水道』(1956年)から、クストリッツァアンダーグラウンド』(1995年)へと続く「地下」の道のようだ。

 地下生活において、さかんにメレアーグラは、ディマに「水位を測ることを覚えろ」と言う。この水位は、したがって革命の水位だろう。地下=アンダークラスに抑圧され、日ごろは「サーカス」でガス抜きされている者たちが、「水位」の上昇によっていよいよ息苦しくなってきたその時、「それ」はやってくる。メレアーグラは、その「時」(愛犬「クロノス」=時の神)の水位の上昇に備えて、鎖でベッドを宙づりにして待機しているのだ。

 公爵の死去が報じられ、その遺産が「レインボウ・ガールズ」に渡ると知るやいなや、ディマはメレアーグラに食ってかかる。遺産が約束されていたからこそ、彼の面倒を見てきたのだ。対するコミュニストたるメレアーグラは言う。「お前に約束したのは遺産ではない。永遠のパラダイスだよ!」。共産圏崩壊期に撮られた本作が、何を人類の「遺産」と考えていたかが、この一言に明瞭に表れていよう。

 クライマックス。70年ぶりの大洪水が街を襲う。街中の人々はもちろん、地下のネズミまでも我先にと逃げ出している。ディマもまた、メレアーグラを一人地下に残し、人ごみをかき分けては外国へ渡ろうと必死だ。

 この先はやめておこう。クライマックスからエンディングにかけては見事というほかはない。「今度こそ俺の勝利だ!」というメレアーグラの笑みとともに放たれる雄たけびと、盗まれた「虹」の得も言われぬ美しさは、劇場で目撃しなければならないと断言できる。

中島一夫