ルック・オブ・サイレンス(ジョシュア・オッペンハイマー)

 ホモサケル。骨と皮だけになった老人が、老女にされるがままに体を洗われている。そこに意志はない。耳も目もほとんど機能を喪失しているようだ。息子のアディに耳元で「歌える?」と言われ歌いだしたときだけ、かろうじて表情がよみがえる。その歌は、楽しかったときの記憶だろうか。

 1965年9月30日、インドネシアで起きたクーデター未遂事件は、100万人もの「共産主義者」の大虐殺へと帰結した。前作『アクト・オブ・キリング』で、加害者らが虐殺の模様を嬉々として「アクト」する(演じる)さまは衝撃だった。今作は、被害者側から当時のことを探る。

 アディは、9・30事件で兄を殺され、父も拷問の果てに「ホモサケル」(アガンベン)となった。この村が、依然として大虐殺について問われることがない以上、父は文字通りホモサケルとして統治されている。実際、アディや監督が、今回危険を冒してまで本作を撮らねばと決意したのは(アディ一家は「映画に関わるな」と脅迫されていた)、認知症の父が、殺された兄ばかりか集まった家族のこともわからなくなり、そこらじゅう這いずり回る姿を目にしたからだ。

 父が「この家は知らない家だ。この道はどこに続いているんだ」と言いながら(まるでインドネシア国家を暗示しているような言葉だ)、床を這いずり回るこの映像(作中にも使われている)は、アディ自身が撮ったものだという。「もう遅すぎた」とアディは言う。父はこのまま、「ドアも鍵もない」、その「恐怖の檻」に閉じ込められたまま死んでいくのだ……。

 虐殺部隊コマンド・アクシの面々は、アラーを信仰しない共産主義者たちを殺したことで「英雄」となり、今や権力の座についている。当時司令官だった男は、「自分たちはアメリカのために、共産主義者を一掃して国際問題を解決したのだから、ご褒美が欲しいくらいだ」と嘯く。この村では、アディ一家のような被害者たちは、彼らにとり囲まれながら息を潜めて暮らしている。

 この作品が素晴らしいのは、まさにタイトル通り、「沈黙」そのものをカメラに収めていることだ。だがそれは、今まで沈黙を強いられてきた、インドネシア史の暗闇を暴いたという意味ではない。それだったら、犠牲者が自ら受けた暴力を語って加害者を告発するという、「ありきたり」のドキュメンタリーにしかならなかっただろう。

 アディはメガネ技師だ。眼鏡を作るために視力検査をするといって、加害者の前に立つ。そして、検査をしながら何とか当時のことを語らせようとするのだ。彼は、告発したり恨みを晴らしたりしたいわけではない。まさにバイアスのかかっていない、度の合った「眼鏡」で、事態を直視してほしいだけだ。

 この被害者と加害者の対峙が、場に異様な緊張感と沈黙をもたらす。何も語られていない、何も起こっていないにもかかわらず、画面からこれほどまでに圧力を受ける映画を他に知らない。作中、アディは、ついに告発の言葉を語らなかった。その様子は、ソ連の収容所にいた、石原吉郎の言葉を思い出させる。

私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。(「ペシミストの勇気について」)

 実際に共産主義者たちの収容所があったこの村(何とアディの叔父が監視官だった)全体が「収容所」である。その中でアディは、被害者として集団を作り、告発することを拒み続けた。それでは今度は自らを「加害者」の位置に立たせるだけだ。

 一人加害者の前に対峙する。そのとき、彼は何を思っていたのか。

そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。

 加害者たちが殺戮方法を得々と「アクト」している映像を、アディはじっと見つめ続ける。そのアクトは、まさにアクトである。彼らは実際に殺害を誇りとしているのではなく、誇りにしているふりを演じていなければ、そしてその演技に村全体を巻き込んでおかなければ、とても正気を保っていられなかっただろう(「殺害した者の血を飲んで正気を保っていたんだ」)。

 何よりそれがアクトであることは、彼らがアディとの対峙によって、沈黙を強いられてしまうことが語っている。アクトからサイレンスへ。その過程で、果たして「一人の人間が生まれる」だろうか。画面を見つめ続けるアディの辛抱強さは、ほとんど「ペシミストの勇気」である。

中島一夫