安保貧乏のこと

 津村喬は、マラヤ人留学生の言葉に、「非常に胸をつかれる思いがしたことがある」と言う(「毛沢東の思想方法―日常性と革命」1970年)。

 彼は、日本人はみなアンポフンサイをいいますね。でも信用できない、と彼は言った。え、と私はききかえした。新左翼から右のほうまでいろいろありますけど……?
 みんな、です。つまり日本にとってアンポをなくすということは明日から三度のご飯が二度になるということだと、誰も思っていませんね。ご飯に関係ない、機動隊と自衛隊とか条約文とかばかり見ていますね。なるほど、「ただ乗り」の意味をいくらか強調しすぎているかもしれないにせよ、いいたいことはわかるような気がした。
 彼は続けた。ベトナム人民だって、抑圧をみとめれば〈高度成長〉したかもしれません。だが彼らは十年も二十年も戦いつづけています。だからベトナム人民はわたしたちの手本です。しかしわたしたちアジア人は、日本の革命派のこと信用できません。

 もし、安保法制に反対するならば、本当はそれが、「明日から三度のご飯が二度になるということ」を意味するということを、まずはふまえるべきだろう。安保という「抑圧」と引き換えの「高度成長」は手にしておいて、それ以外の「安保」はいりませんというのでは、あまりに虫がよすぎるだろう。国内はそれで通っても、「外」は誰も信用しない。

 そういえば、六〇年安保の時は〈安保貧乏〉という言葉があったのである。職場でストがうてなくとも、どうしてもかわりばんこにでもデモをやりたい。そこで番をきめて休んではデモに行く。
 スト基金を使いはたし、カンパでその費用を補うようになる。広義の民衆のたちあがりを〈壮大なゼロ〉などとかっこよく片づける前に、〈安保貧乏〉という、まさに労働者でなければ作り出さぬような率直なことばをささやきかわしながらガンバリ通した大衆がいたことを忘れてはならない。

 自明に過ぎて、口にするのもはばかられるが、平和とは経済戦争のことであり、それ自体「安保」の成果である。したがって、それに反対するということは、まずもって貧乏を覚悟するということだ。「戦争法案、是か非か」や「戦争か平和か」といった問いは、そこだけは問わずにすまそうとする、上底でまやかしの議論にすぎない。

中島一夫