福田恆存の「政治と文学」

  

黙示録論 (ちくま学芸文庫)

黙示録論 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

  

 「他人を裁かずにいられない」という現在の「懲罰社会」は、かつて画家のクールベが語った、夜になると目を覚まし、「裁きたい、裁かずにおられるものか」という人々のことを思い出させる。ドゥルーズは、この「裁きたい」という「審判」のシステムを、キリスト教に導入した『黙示録』を論じた、D.H.ロレンス『黙示録論』の仏訳版序文に、したがってクールベとロレンスは「似たところを持っている」と書いた(『情動の思考』)。

 

 もともとキリスト教福音書には、個への関心しかなかった。そこに「衆の心」を導入したのが『黙示録』だった。

 

いずれにしろ、純粋なクリスト教精神なるものは国家、あるいは一般に社会というようなものとは絶対に相容れぬ存在である。大戦の結果これはあきらかな事実となった。それは個人にのみ適応しうるものである。集団的全体はそれとはまったく別の発想に立たねばならない。

 こうしてアポカリプスは、その根本精神においてはいかほど不快なものであるにせよ、とにかくそのような第二の発想をうちに含んでもいるのである。それは、挫かれ抑圧された集団的自我、すなわち心中の挫かれた権力意識の危険な呻吟が復讐的な響を伝えているためにのみ、吾々に不快の感を催させるのだ。しかしながら、また一方には真の積極的な権力意志の啓示もいくらか含まれている。(D.H.ロレンス『黙示録論』福田恆存訳)

  

 第一次「大戦の結果」のヨーロッパを見ながら、ロレンスは、死の直前に『黙示録論』の執筆に向かわざるを得なかった。そして数年後、第二次大戦の開戦と先を競うように、福田恆存はその翻訳に急き立てられることになる(出版にこぎつけたのは、戦後一九五一年)。両者にとって、眼前の民主主義(革命)が問題だったことは言うまでもない。だが、これについては、また後で触れよう。

 

 カエサルのものはカエサルに返すがいいというところに、キリストの「貴族性」、衆ではなく個にしか訴えかけてこないキリストの企てがよく表れている、とドゥルーズは言う。

 

個の心を陶冶してゆけば、衆の心にひそんでいる怪物を追い払うことができると彼は考えていたのだった。政策を誤ったというべきだろう。衆の心――私たちの外にまた内にあるカエサル、私たちの内なるまた外なる〈権力〉――にどう処して切り抜けるかは、彼は私たち一人一人の手にゆだねたのである。この点では彼の使徒や信徒たちも失望を味わわされつづけた。(『情動の思考』鈴木雅大訳)

 

 失望を味わわされた一人、ユダは、この「個の心」に躓いたのである。イエスはいつも一人で、弟子たちと心から交わったこともなく、行動を共にしたこともなかった。「彼はいついかなるときにも孤独だった」。イエスはユダたちの「主人=権力者」になることを拒み続けた。その結果、「ユダのような男のうちにある権力渇仰熱はみずから裏切られるのを感じていたのだ! ゆえに、それは裏切りをもって逆襲し、接吻をもってイエスを売ったのである」(『黙示録論』)。果たして、このときユダは、イエスの「教え」(イエスという人ではない)を裏切ったのか、それともむしろ忠実だったのか。

 

 ロレンスは、キリスト教の「本当の主役はユダなんだ。ユダがいなかったら、この大芝居全体が失敗に終わっていただろう」(『アーロンの杖』)と言う。それは、人は「ひとりになったとき始めてクリスト教徒たりえ」るが、人は純粋に個人たり得ず、キリスト教がキリスト「教」たり得るには「衆の心」、すなわちユダの心をかえりみる必要があるということだ。

 

 このユダの心は、貧しき者、弱き者たちのへりくだった気の毒な心ではない。この「衆の心」こそ、あの「裁きたい」という審判の「権力」、それも「上訴不可能な、他のすべての権力がそのもとに最終的に裁かれてしまうような、ある神のもつ権力」、「普遍的な世界権力」の実現を望む心である。イエスは、パリサイの徒の支配から、人々を剣でもって切断し、解放しようとしてからというもの、ずっと憎み続けた当のもの、すなわち「集団的自我=衆の心」を、あろうことか自ら与えざるを得なくなったのである。キリスト教がキリスト「教」であるためには、イエスも個のままでいられなかった。ニーチェが言ったように、キリストとキリスト教=聖パウロとは区別されねばならず、ロレンスが言うように、福音書を書いたヨハネと『黙示録』を書いたパトモスのヨハネは「同じ人間ではありえない」のだ。

 

 同様に、「レニン、リンカーン、ウィルソンにしても純粋に個人の状況を保っているかぎりは真の聖者たりえたのだが――ひとたび人間の集団的自我に手を触れるとき、あらゆる聖者が悪人と化せざるをえないのだ」。(『黙示録論』)

 

 知識人は、個人としては知識人でも、いざ大衆の心=集団的自我に触れれば、知識人のままではいられない――。ロレンス『黙示録論』が示しているのは、このいわゆる知識人―大衆という図式の崩壊だった。アポカリプス=終末とは、ほとんどそのことを意味している。すなわち「転向」の問題にほかならない。終末とは「ユダの季節」(江藤淳)であり、しかもキリストがいないまま「裁きたい」と言うユダの群れの時代なのである。

 

 福田恆存が、「この一書によって、世界を、歴史を、人間を見る目を変えさせられた」と、ロレンス『黙示録論』に震撼させられたのは、この文脈においてであろう。この期に及んで民主主義(革命)などあり得るのか。福田が、戦後「政治と文学」論争にコミットしたゆえんである。

 

(続く)