失われたラザロについて――中村光夫、三島由紀夫、転向 その4

 ブランショに、革命=恐怖政治を文学と直結させていくのは、むろんサドの存在である。

 

一七九三年に、革命と《恐怖政治》とに完全に一致していた一人の人物がいた。〔…〕サドは優れた作家である。作家のすべての人間の中で最も孤独であり、それなのに公共的人物であり重要な政治家である。終生閉じ込めながら絶対的に自由であり、絶対的な自由の理論であり象徴なのだ。〔…〕彼の作品は否定のための働きでしかなく、彼の経験は、熱狂した否定の動きである。その否定は血を見るまで押し進められ、他者を否定し神を否定し自然を否定しそして、この絶えまない循環する輪の中で至上の絶対としてみずからを楽しむのである。(「文学と死への権利」)

 

 三島もまた、フランス革命はサドの思想に補填されなければ何でもなかったと考えていた。だからこそ、六八年革命前夜に、革命によって釈放される直前のサドを『サド侯爵夫人』(一九六五年)として書くのである。三島は、サド本人を一切登場させずに「夫人」の視点からサドを描いた。そうすることで、サドの思想の何たるかが、かえってクリアになるからである。ブランショが言うように、サドが「否定そのものだ」としたら、そのサドの「否定」を描くには「否定」される「夫人」の側から書かねばならない。三島はサドの全的な「否定」、絶対的な「自由」、あくなき「享楽」を介して、フランス革命=恐怖政治とそこに文学の真実を見たブランショと踵を接していた。

 

 さらにブランショは、サドの「否定」を、ヘルダーリンマラルメヘーゲルらにつなげ、言葉の問題として展開していく。

 

わたしが〝この女〟という。ヘルダーリンマラルメ、そして一般に、その詩が詩の本質を主題としている人たちは、名指すという行為において不安にさせるふしぎを見たのである。ことばはそれが意味するものをわたしに与える。だがまず意味するものを抹殺するのだ。わたしが〝この女〟といえるためには、どのような方法であれ、わたしはその女からその血肉の現実を抜き去り、不在にし、無に帰させねばならない。ことばはわたしに存在物を与える。だが存在を奪われた存在物として与えるのだ。〔…〕ヘーゲルがいおうとしているのは、この瞬間から、ねこは単に現実の一匹のねこであることをやめ、一つの観念ともなるということだ。ことばの意味は従って、すべてのことばへの序文として、一種の莫大な虐殺、すべての被造物を全くの海に沈める予備的な大洪水を要求する。

 

 「わたし」が「この女」といい、「ねこ」を名指すとき、女とねこを「虐殺」するという「恐怖政治」を敢行する。もちろん、そのことで「わたし」は「わたし」にも死を与えることになるのだ。

 

たしかに、ことばを使うことは誰をも殺しはしない。しかしわたしが〝この女〟という時、実際の死が予告され、わたしのことばの中にすでに現れているのである。わたしのことばは、今そこにいるこの人物がそれ自体から引き離され、その実存とその現われから抽き出され、実存と現われの虚無の中に突然投げ込まれうるということをいおうとするのだ。わたしのことばは本質的にこの破壊の可能性を意味しているのだ〔…〕わたしのことばは、その瞬間自体において死が世界の中に放たれ、話しているわたしとわたしが呼びかける存在とのあいだに出現したことの警告である。ことばはわれわれのあいだに、われわれを引き離す距離のように、ある。だがこの距離はまたわれわれが引き離されていることをさまたげるのだ。〔…〕死はことばの中においてことばの意味の唯一の可能性である。死なしでは、すべてが不条理と虚無の中へ埋没してしまうであろう。

 

 「わたし」と「この女」や「ねこ」は、言葉による「恐怖政治」が与える平等の「死」を共有(分有)することでしか「わかり合」えない(まさに『明かしえぬ共同体』のテーマだ)。言葉が与える「死」こそ、「ことばの意味の唯一の可能性である」。だからそこでは、「死」は「懼れ」ではなく、むしろ「自由」であり「権利」なのだ。そのとき、「わたし」は「わたし」を表象=代行するどころか、「わたし」の実存を「否定」する。そもそも、言葉の表象=代行作用とは、死を生(再現)と錯覚させるイデオロギーなのだ。それは機能失調、いや機能不全の状態こそが「本質」なのである。

 

わたしが話す時、わたしは自分がいっていることの実存を否定する。しかしわたしはまたそれをいっている者の実存をも否定するのだ。わたしのことばは、存在をその非実存においてあらわにするとしても、このあらわにすることによって、ことばが作られるのは、ことばを作る者の非実存からであり、自己を自己から遠ざけてみずからの存在とは他者になるその能力からであることを主張するのだ。

 

 言葉は、その唯一の可能性において、「わたし」の「実存」を、ひいては「私」小説を「否定」しているのである。

 

 そして、この点でブランショは、中村光夫とも交錯することになる。中村のテーマである言文一致―私小説―言葉と物の相互的な関係が総論的に述べられている重要な一節なので、長くなるが引用しよう。

 

ところがわが国では「言文一致」というあいまいな用語が象徴するように、文章を口語に隷属させることが文学の近代化の要諦というような錯覚が、一般に支配的であったため、伝統的文体の破壊が、そのまま文章そのものの機能の自覚を消滅させる結果をもたらしています。

 これが小説をたんに事実の再現に限定することを、それを近代意識に適合させる方法と信じた私小説の思想と切り離せない関係にあることは前述した通りですが、別の面からいうと、わが国の近代を代表する詩人や作家が、ある感覚、あるいは人生の一場面を、具体的に写す機能を言葉は自然に与えられていると信じて、言葉の持つ抽象性と闘うのを文学者の務めとしてはっきり自覚しなかったことにもなります。

 僕らがある犬を指して「犬」と呼ぶとき、この言葉は、眼前の一匹の動物を、世界中にいる無数の同類につなげます。言葉による表現は――たとえ芸術的表現であっても――この抽象性によって初めて可能にされるので、文学的描写の具体性とは、このような言葉の自然性に加えられた「人工」であるゆえに、作家の努力の対象になるのです。

 「世の中に二つとして同じ石はない」とフロオベエルがいったのは世の中のすべての石はひとつの単語で表わせるという事実と表裏して、初めて意味を持つのです。〔…〕

 現実の再現が不可能であるという事実を逆用して、現実の本質を表現するのが作家の才能であり、すぐれた小説を読むとき、僕らは活字の背後に人生を感じ、そこに想像する人間達に、自己の生活の真実を見るのです。(「言葉と文章」一九五七年)

  

 犬を「犬」、石を「石」と名指すことで、言葉は物を、次々と生(自然、具体)から死(人工、抽象)へと「虐殺」する。繰り返してきたように、このとき私も「私」として死を与えられている。中村にとって、言文一致のもとでの「私小説」や、プロレタリア作家が転向して書く「私小説」など、マルクス主義思想が現実をつかめなくとも、言葉は現実や「私」をつかめるはずだという、リアリズムに対するおめでたき「錯覚」でしかなかった。同時に、だが現に言文一致による言葉の表象=代行というイデオロギーが機能している圏域においては、師の小林のように「私小説は亡びた」と言うのも安易でしかなかったのである。

 言葉による「現実の再現=リアリズム」は「不可能である」とリアリズムを「否定」することを、いかに言葉を「逆用」し、言葉でもって行うか。

 

探求としての文学の言語は、実在するままのねこを欲し、小石をその物であることにおいて欲し、人間ではなくその男を欲し、その男において、それをいうために人間が排除するもの、ことばの基礎でありことばが話すために排除するもの、深淵、昼に返されたラザロでなく墓のラザロ、すでに臭ってい、悪であるもの、救われ復活したラザロでなく失われたラザロを欲するのである。(ブランショ「文学と死への権利」)

 

 「その2」でも触れたが、三島が「太陽と鉄」で言ったように、私は「私」という言葉が「排除」した「残滓」にしかいない。それは「失われた=残滓」としての「ラザロ」だ。「探求としての文学の言語」は、言葉によって死んだ「ラザロ」を蘇らせるのではなく、いかに墓の「ラザロ」、失われた「ラザロ」を求めるか、なのだ。いくら転倒して見えようとも、この逆説にしか文学の真実はない。それは、全員が平等に死を与えられている恐怖政治の中で、さらに死を権利として追い求めることにほかならない。

 

 重要なのは、中村光夫三島由紀夫ブランショといった「転向者」こそが、この「探求としての文学の言語」の問題に直面したということだ(むろん三島は、橋川文三も言うように、「「転向」を媒介としない実存的ロマンティシズム」と言うべきだろうが)。文学とは、つねに「転向者」のものである。だが、そのことは、文学に「転向」を主題として導入して、はじめて見えてくるのだ。

 

中島一夫

 

恐怖政治と文学――中村光夫、三島由紀夫、転向 その3

革命は作家の真実である。書くという事実そのものによって、自分は革命であり自由だけが自分をして書かせているのだと考えるに至らない作家はすべて、実際には何も書いていないのだ。(ブランショ「文学と死への権利」一九四九年、篠沢秀夫訳)

 

 ブランショは、フランス大革命の「恐怖政治」に文学の真実を見た。だが、なぜ「恐怖政治」なのか。そこでのみ、自らの生と死を「自由」や「権利」として手にすることができるからだ。そこには、もはや「私」がいない。「内面」もなく、すべては「共有」だ。

 

もう誰も私生活への権利がなく、すべてが共有である。そして最も罪深い人間は疑わしい人物、秘密を持ち、自分だけのために一つの考え、一つの内面性を持っている人物である。そして結局、もう誰も自分の生活、実際に分離され物理的に区別のついた存在への権利がないのだ。これが《恐怖政治》の意味である。一人ひとりの市民がいわば死への権利を持っているのだ。〔…〕この点で、フランス大革命は他のすべての革命よりも明白な意味を持っている。

 

 ブランショは、ロベスピエールサン=ジュストの「恐怖政治」を、人々に死を与えるのではなく、彼ら自身が自らに死を与えるものとして見ている。「恐怖政治家は、絶対的自由を欲しながら、そのことにおいてみずからの死を欲しているのだということを知っている人間であり、彼が実現するみずからの死として確認するこの自由を意識する人間であり、それゆえに生きている時から生きている人間たちのあいだで生きている人間のようにではなく、存在を奪われた存在、普遍的な思考、歴史を越えて歴史全体の名において判断し決意する純粋抽象として行動する人間なのである。」

 

 同じく、ロベスピエールの「恐怖政治」を、ベンヤミンの「神的暴力」の表れとして論じたジジェク(『ロベスピエール毛沢東 革命とテロル』)は、やはりロベスピエールが「死を懼れない」ことに触れながら、突然山本常朝に言及する。

 

であればこそ、禅僧山本常朝は武士(ウオリア)本来の態度を次のように描くのである。「必死の観念、一日仕切りなるべし。……古老曰く、「軒を出づれば死人の中、門を出づれば敵を見る」となり。用心のことにあらず、前方死して置く事なりと。

 

 この箇所に、訳者の長原豊松本潤一郎が的確に「註」を入れているように、晩年の三島もまた『葉隠入門』でこの一節に触れ、「これは用心のことばではなく、まえもって死んでおく心構えのことなのである」と述べた。「まえもって死んでおく」ことで、死を「懼れ」ることもない。前回のエントリーで見た、三島の「私」小説批判、「文学」否定は、この点において晩年の『葉隠』への傾倒とつながっている。それは、フランス革命=恐怖政治における「死」の問題であり、そこには「私」が不在である(したがって「懼れ」もない)という問題だ。「死への懼れ」は、自らが革命の外野にいる「無辜の傍観者」であることから忍び寄るものだからである。

 

革命的決断が下される決定的瞬間には、無辜の傍観者など存在しない。なぜなら、そのような瞬間には、無辜そのもの――自分を決断から除外し、自分が立ち会っている抗争があたかも自分にはまったく無縁であるかのように振る舞うこと――が、まさに大逆無道に他ならないからである。言い換えれば、国家反逆罪の廉で告発されることへの懼れが私の大逆無道に他ならないからである。なぜなら、たとえ私が「革命に反対するようなことは何もしていなかった」としても、この懼れそのものが、懼れが私の胸の裡に湧き上がったという事実が、私の主体的立場は革命に対して外在的であるということ、私が「革命」を私を脅かす一つの外的力として経験しているということを、曝露しているからである。(『ロベスピエール毛沢東』)

 

 死を懼れる、懼れないということを、決してロマン的に受け取らないでほしい。三島もブランショも、革命=恐怖政治を、そして文学の真実を、あくまでロジカルに捉えていた。

 

(続く)

 

中村光夫、三島由紀夫、転向 その2

 中村との対談の二年前、一九六五年から、三島は「太陽と鉄」という、自称「告白と批評との中間形態」を発表し始める。冒頭はこうだ。

 

このごろ私は、どうしても小説という客観的芸術ジャンルでは表現しにくいもののもろもろの堆積を、自分のうちに感じてきはじめたが、私はもはや二十歳の抒情詩人ではなく、第一、私はかつて詩人であったことがなかった。そこで私はこのような表白に適したジャンルを模索し、告白と批評との中間形態、いわば「秘められた批評」とでもいうべき、微妙なあいまいな領域を発見したのである。〔…〕私が「私」というとき、それは厳密に私に帰属するような「私」ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰属したり還流したりすることのない残滓があって、それをこそ、私は「私」と呼ぶであろう。

 そのような「私」とは何かと考えるうちに、私はその「私」が、実に私の占める肉体の領域に、ぴったりと符合していることを認めざるをえなかった。私は「肉体」の言葉を探していたのである。(「太陽と鉄」)

  

 読まれるとおり、明らかにこれは「私」小説=告白への疑いによって書かれたものだ。「私が「私」というとき、それは厳密に私に帰属するような「私」ではなく」、その「残滓」をこそ「私は「私」と呼ぶ」。ここには明確に「私」小説批判があろう。

 

 ひょっとすると、この「残滓」という言葉には、小林秀雄私小説論」の「私の封建的残滓と社会の封建的残滓との微妙な一致の上に私小説は爛熟して行った」が踏まえられているのではなかろうか。小林にとっては「私小説」の「私」とは「封建的残滓」にすぎず、それはマルクス主義という「絶対的な」思想によってすでに乗りこえられた。「私小説は亡びた」のだ。

 

 それに対して、「太陽と鉄」の三島は、言葉というファクターを考えれば、「私」=私という図式も、それを封建的として乗りこえることも、そもそも不可能ではないかと言っているわけだ。むしろ、「私」と言ったとき、それから漏れ落ちる「残滓」にしか「私」はない、と。すなわち、三島にとって、「私」という言葉は、まったく私を「表象=代行」し得ないものであり、本来「私小説」などあり得なかった。その言葉の「表象=代行」作用の不全が、三島をして、「太陽と鉄」による「肉体の言葉」を「私のsecond Language」として形成させていくことになる。

 

 このとき三島は、中村の私小説批判や、言葉の「仮構」の問題に漸近していたといってよい。中村との対談『対談・人間と文学』でも、三島は、中村が「仮構と告白」で「現実はこれを言葉で精細に表そうとすればするほど、筆者の創作になって行くという性格を帯びてくるので、現実の生き生きした再現とみられる文章は必ず仮構なのです」と書いているのを受けて、次のように言う。

 

私小説はそのパラドックスを十分狙ったものだけれども、こんどわれわれが逆手をやろうとするとまた問題が起きてくる。逆にいうと、「創作は言葉で精細に表そうとすればするほど事実となってあらわれるという性格を帯びてくる」とはいえないでしょう。そうなると実に言葉というものと関係ができてきちゃう。芸術ということをまず考えて、虚無を言葉で精細に表そうとすればするほど筆者の現実になってゆくということがほんとうに信じられれば、そこで勝つわけだ。だけどそれがどうしてもそうゆかないわけよ。逆のほうは相対的に成功したわけだ。つまり現実は言葉で精細に表そうとすればするほど創作になってゆくという点で私小説がかりにも芸術になっちゃった。

 

 ここで言われているのは、二葉亭四迷の言った「実相を仮りて虚相を写し出す」という模写の問題だろう。言うまでもなく、中村のリアリズム批判の根底にある認識である。この時期の三島は、二葉亭-中村とほぼ問題を共有していたといえる。だから、「ぼくは昔から芸術至上主義といわれてきましたけれども」「芸術至上主義というと私小説で、ぼくのような考えは芸術至上主義の反対でしょう。むしろ芸術侮辱でしょうね」と言った。この「芸術侮辱」もまた、二葉亭―中村の「文学否定」と別のものではない。

 

(続く)

 

中村光夫、三島由紀夫、転向 その1

 三島由紀夫は、中村光夫との対談(『対談・人間と文学』一九六八年)で、日本の小説家がプルーストのように自我が崩壊しなかったのは、「左翼からの転向」があったからだと述べている。

 

自分はイデオロギーで戦って、イエデオロギーで罰せられて転向を迫られている。向うには権力があるけれども、それは自分が自我形成でやってきた次元とは別ものである。だからわれわれはひとまず退いて、近代的自我の形成という抽象的倫理的問題に一歩退けば、そこで守れる。それならなにも自分は左翼だ共産党だという必要はない。その固執が少なくとも四五歳以上の作家にはあると思う。それがいまの日本の近代文学全部の良心のすりかえのもとになっていると思う。

 

 高見順にしても、島木健作にしても、「人間存在の仮構的な部分を次々と消去して行って、最後にのこるものに自分の思想を託している。しかし託しえたのは、実はマルクシズム思想ではなくて、極限的な自我信仰だ」と。彼らは、「非転向ということと転向ということが、ほとんど同義語になるところまで問題を追いつめてしまっている」と。

 

 これは、対談相手が中村光夫であることや、対談時期が一九六七年だったことなどを考え合わせると、きわめて興味深い発言である。まさに、その島木や中野重治らプロレタリア作家と激しく論争しながら、なぜ彼らは転向すると、プロレタリア文学が否定してきたはずの私小説=自我信仰へと向かってしまうのかを、誰よりも考えてきたのが中村光夫だったからだ。中村が、三島の発言にわが意を得たりとばかりに、「待ってください。それは非常におもしろい問題だ」と身を乗り出したのも無理はない。

 

 三島にすれば、マルクス主義を信じてきた者らが、転向したにもかかわらず自我が崩壊しないのなら、彼らにとってマルクス主義とはその程度のものだったのか、ということだろう。それどころか、転向作家らは「自分が何かに抵抗した、その抵抗したという行為」に「自分の良心の根拠を求めている」と。

 

 それに対して、中村は「左翼文学者がああいう転向をしたもとはやっぱり自然主義にあるように思う」と持論を展開する。転向は、「もともとが見せるためのものだった。だから昭和の転向というものがある意味では密室の作業でなくて、人の眼を感じながらやる一種の演技になったようなところがあるでしょう」と言うのである。

 

 すなわち、自然主義=リアリズムであり、私小説=告白、である。たとえマルクス主義から転向しても、それを言語で表明する際に、リアリズムの「表象=代行」作用が十全に機能し、自我や良心が崩壊しないような担保となってきた、と。より詳しく言えば、己が信じてきたマルクス主義では、どうも「大衆」をつかむことができず、したがって「現実」を変えることができないという左翼知識人としての「表象=代行」能力の危機に見舞われた者が、転向したのち、より信じられる「表象=代行」能力を発揮している自然主義私小説へと移行していったのだ、と。いずれにしても、問題は「リアリズム」という言語の「表象=代行」作用であり、ならば転向した者やその精神をいくら糾弾しても、「転向」の本質的な問題は捉え得ず、常に後追いになるだけだ。

 

 中村が、二葉亭四迷に戻って、言文一致という言語の「表象=代行」作用の「起源」と、その批判的考察に向かったゆえんである。中村が自然主義を批判したのは、二葉亭が、疑い、また自己嫌悪に陥りながらも試行錯誤していた、その言語の「表象=代行」作用を、もはや自然主義が疑わなくなったからである。彼らは、言語が、常にすでに現実や自己を「表象=代行」し得ると考えることができた。中村は、その無邪気な信じ込みを「リアリズム」と呼んだのである。中村にとって、転向とは「リアリズム」への転向だった。つまり、マルクス主義ではなく文学の問題だったのである(これが大西巨人との論争の焦点でもあった)。

 

 中村は、三島の『サド侯爵夫人』(一九六四年)を、「ぼくは「サド侯爵夫人」が傑作なのは告白がないということだと思う。あの人物の背丈は高いもの。あなたのどの芝居より」と肯定した。むろん、作家が自身の等身大の人物を描いてしまう(=広義の「告白」)ことが、容易に「リアリズム」に回収されてしまうからだ。それは「転向」なのである。それに対して作家は、「そんな大ざっぱなことを言わないでください」と返した。だが、三島には、一九六七年の三島には、中村の言いたいことがよく分かっていた。

 

(続く)

 

全共闘、三島由紀夫、村上一郎

 奥野健男は、東大全共闘三島由紀夫、そして村上一郎の「三者」関係について、次のように述べている。

 

三島由紀夫全共闘の過激派が革命的暴力行動にいっせいに蜂起するのを望んでいた。それ故に昭和四十四年六月、東大駒場まで行って全共闘の学生たちと討論会を行い挑発している。もし学生が革命をめざし蜂起したら、その時こそ楯の会を率いてその行動を阻止し、天皇を守り、先頭に立ち華々しく斬り死にしたいと真剣に願っていた。あるいは西郷南洲のように敵を前にして割腹して死のうと願っていたのかも知れぬ。

 その三島の烈しい渇仰は、立場が異なるとは言え、同じく烈しい魂の持主であった文学者村上一郎に伝わるのだろうか。昭和四十五年六月十五日、六〇年安保の中で樺美智子が殺された記念日、旧海軍軍服を着た村上一郎は皇居前の犠牲の地に行き、日本刀のさやを払い抜刀の礼で樺美智子の霊を慰め、その足でぼくの家に来た。家の近所に刀研ぎの名人がいるから帰りにそこで研いでもらうのだと言った。なぜ研ぐのかとぼくが聞くと、全共闘蜂起の時、その先頭に立って、阻止する三島由紀夫と真剣勝負し斬り殺すためだ。いよいよその時が切迫しているからだと目を据えて語った。(奥野健男三島由紀夫伝説』)

 

 以前は、こうしたロマンティシズムには、とてもついていけないとしか思わなかったが、最近はこのロマン主義は「主権」というものにこだわっていたからではないか、と考えるようになった。ある意味で、彼ら(だけ)は本気だったのだ、と。

 

 このあたりは複雑に絡みあっているので、ここで十分に問題を展開することはできない。ただ一つだけ指摘すれば、三島が二・二六事件に自らの「道義的革命」のモデルを見ていたのに対して、村上は五・一五事件の方に思想的な可能性を見出していた。村上は、二・二六へのアンチテーゼとして五・一五を見ていたのであり、その対立が奥野の言うような両者の「真剣勝負」の中核をなしていたのである。

 

五・一五事件の人びと、少なくも橘は、北一輝のアンチテーゼとして己れを考えている。……むしろ五・一五事件二・二六事件のような北一輝的な「改造」を防ぐものだった。(村上一郎「私抄“二・二六事件”――「革正」か「革命」か?――」)

 

 一九六九年、村上は、桶谷秀昭とともに、水戸の愛郷塾の橘孝三郎を訪ね、五・一五事件の真相を問うた。そのとき、橘は、北一輝の『日本改造法案大綱』を見て、「これは大変だ、こんなことになったら日本は終りだと思って立ち上がった」と述べたという。それは、『法案』の主張する「天皇の名をもってする革命」が、「天皇制を逆手にとって天皇制を打倒する革命」であることを嗅ぎ取ったからだろう、と。実際、北は、天皇制を否定していた。

 だからこそ、五・一五は「革正」や「廓清」という語を使い、来るべき「革命」=二・二六を未然に防ごうと行動したのであり、村上はそこに五・一五の比類なき倫理の高さを見出すのだ。

 

 村上が、三島の「革命」に批判的に対峙・介入するために、二・二六のアンチテーゼとしての五・一五を突きつけようとしたのは見やすい。ポイントは天皇であり、すなわち「主権」(天皇大権、統帥権)の問題だった。

 

天皇をどう考えるかは、天皇制という機構の問題としてではなく――それはどうしてもからんでくるが、――二・二六事件なり五・一五事件なりを規定する上に大切であるのみならず、今日三島由紀夫的な考え方を批判する上にも眼目となるところである。三島が『文化防衛論』で、天皇自衛隊の儀杖をうけるのが至当であると述べたのに対し、わたしは、それでは天皇に再び大元帥の服を着せるのかと訊した。それに対して三島は、いやそうではない、天皇は衣冠束帯で儀杖を受けるのであり、天皇という職は国民の献げるすべてを受け容れるのが本義であるから、他のものは受けて自衛隊の儀杖のみを受けないというのはおかしいのであると答えた。ここには三島なりの筋がある。しかしそれならもっと徹底して、天皇を伊勢かどこかへやってしまい、もっと貧乏させて、国民のためを思いながら寒夜に御衣をぬいで歌を作るといった天皇像を思い描けないのは、やはり三島の近代的なところであろう。近代的といってわるければ、二・二六事件的であって、五・一五事件的でないところである。三島は、神風連と結びつけて二・二六事件を評価することを強調する。しかし、五・一五事件はそこまで買ってはいない。(村上一郎「私抄“二・二六事件”」)

 

 知られるように、三島は、二・二六事件の可能性の中心に「大御心に待つ」という精神を見た。そこに、あらゆる制度を全否定する当為(ゾルレン)としての永久革命を見たのである。

 

あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミクスとは、つねに永久革命の形態をとる。すなわち日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ、天皇信仰なのである。しかしこの革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北をくりかえす。二・二六はその典型的表現である。(三島由紀夫「『道義的革命』の論理」)

 

 「永久革命」としての「天皇信仰」。三島の信仰する「天皇」が、またその「大御心」が、何ら実際の天皇とは関係のない抽象性であることが重要だろう。それは現状否定のシンボルであり、ほとんど不可能性としてあった(ゆえに、民主主義の保守的機能を果たす現状肯定のシンボルと見る林房雄と、この点では鋭く対立した)。と同時に、だが三島においては、「待つ」ことによって「それ」は現れる「べき」(ゾルレン)なのである。だから三島は、ベケットの『ゴドーを待ちながら』についても、「僕はゴドーが来ないというのはけしからんと思う。それは二十世紀文学の悪い一面だよ」と言った(安部公房との対談「二十世紀の文学」)。

 一方村上には、二・二六の青年将校らの、そして三島の「大御心を待つ」の精神が、天皇に頼って天皇制を打倒しようとするものにしか見えなかった。統帥権を否定しながら天皇の大権としての統帥権を疑わないのは、「最大の矛盾」ではないか、と。

 

二・二六事件の蹶起将校が、反軍閥・反幕僚的な思想をもちながら、統帥権に対して何の疑いをもさしはさまず、これを擁護しようとしたことは、最大の矛盾であった。彼らは彼らの忠誠心から、統帥権を真に天皇自身のものにしようと考えていたのであろう。が、天皇直率の軍というような姿は、本来あり得なかったのである。(村上一郎「私抄“二・二六事件”」)

 

 やはり、村上は、三島の天皇を「存在」(ザイン)のレベルで捉えることから逃れられていないように見える。両者の対立を見ていると、まるで「右」の三島が天皇制を否定し、「左」の村上がそれを防ごうとしているようにしか見えないのである。それが、「例外状況」としての68年ということだったのだろう。

 

 むろん、三島や村上が構えていたようには、全共闘の一斉蜂起は起こらなかった。彼らの自刃は「遅れて」行われるほかなかった。だが、逆に言えば、彼らの自刃の「本質」は、全共闘を前にした時にこそたち現れていたのだ。

 

中島一夫

 

柄谷行人と韓国文学

 

柄谷行人と韓国文学

柄谷行人と韓国文学

 

 上記の書評が、「週刊読書人」2月21日号に掲載されています(以下、ウェブ版に全文掲載)。

 dokushojin.com

恋人たちは濡れた(神代辰巳)

 院生の修論を読みながら、ひさびさにこの映画のことを考えていた。

 

 冒頭、主人公の「克」が、何度も何度も後ろを振り返りながら自転車をこいでいる。何かから逃げているようなその姿は、明らかに翌年(1974年)の『青春の蹉跌』と同型である。『青春』のショーケンは元ブントの闘士という設定だから、内ゲバのリンチの「衝迫」が彼をさかんに振り向かせていたのだろうか。

 

knakajii.hatenablog.com

  「よしえ」から、「過激派?」「学生さんでしょ?」と問われる本作の克も、ひょっとしたらそうなのかもしれない。おそらく彼は、ある「殺人」に関わったがために、昔なじみの街に帰ってきたにもかかわらず、名前も素性を隠しながら過ごす。脱主体的、脱アイデンティティの主体である。

 

 克は、草原の中でセックスしている男女を覗き見る。だが、それは「窃視」とはほど遠い。彼は見ていることを、悪びれもせず隠そうともしない。見られている二人も、克の存在に気づきながらも、「けったくそわるい野郎だ。やめるこたあねえよ」と言って性交を続けるのだ。

 

 おそらく、これは左翼(文学)の脱構築ともいえるシーンだろう。従来の左翼(文学)は、行動する者が「神」であり、その中心の行為者を、周囲の存在が劣等感を抱きながら見るという構図で成り立ってきた。いわゆる、「転向者」の文学である。

 

 だが、本作の克は、(性)行為を眺め見ることに対して一向に悪びれない。「見ている方が悪いのかね。見せている方が悪いのかね」と嘯くのみだ。彼には「転向者」の劣等感はない。克と、性交をしていた光夫は、いつでも入れ替わっていたかもしれないのである(だから行為が終わると、光夫は、見ず知らずの克になれなれしくしては、車で送っていこうとする。「恋人たちは濡れた」の「恋人たち」とは、いったい誰と誰なのか)。

 

 その「行為/見る」の位階の崩壊が明確になるのが、あの「伝説」の馬跳びのシーンだろう。克、光夫、洋子が、砂山で裸になりながら延々と馬跳びをするシーンは、容易には「行為=革命」に行き着かない、その行動の不可能性自体を映し出している。馬跳びの果てにようやく光夫と洋子が行為に及んでも、洋子は克に助けを求める始末だ。一方、克は克で、すぐ傍で行為を眺めているばかりなのだ。

 

 ここには、エロスを喚起する「欲望」が発動しない。もはやエロスを湧き立たせる絶対者=行為者=非転向者が不在だからだ(このことに苛立って、無理矢理「絶対者」を仕立て上げ、最期にそれと合一をはかってエロスを発生させようとしたのが三島由紀夫にほかならない。金閣は、絶対者に仕立てあげられるために燃やされる必要があった。その意味で、神代作品は、否応なく三島の死以降のエロスの不可能性を刻印していよう)。

 

 にもかかわらず、ラストで克は、「本当はあんたを抱きたいんだ」と、洋子という対象に「欲望」を吐露してしまったがゆえに、その直後、何者かに刺殺されてしまうことになる。欲望とその対象というエロスの構図ほど、この作品から遠いものもないからだ。

 

中島一夫