パラサイト 半地下の家族(ポン・ジュノ)

 韓国の半地下住宅は、もともと朴正熙の軍事政権時代、「北」の脅威に備えるための防空壕だった。それがやがて、とりわけIMF危機以降、社会の格差拡大とともに、低所得者層の住宅へとスライドしていったのである。つまり、「半地下」とは、軍事政権から民主化へと移行していった韓国における、「統治」の変化を示している場所なのだ。

 

 有事に備えた場所が平常時のものになること。だが、それは「有事=戦争」の消滅を意味しない。「有事=戦争」自体が平常時に浸透し拡散しただけだ。あのバースデーパーティーのシーンで、それが一気に露呈するのである。

 

 だとしたら、半地下の家族に染み付いた「臭い」とは、軍事政権から民主化解放を果たしたかに見える韓国に、いまだなお染み付いた「有事=戦争」の「臭い」そのものだろう。これは同じ「民族」でありながら、どこかに残存してしまう敵対性(北)の脅威の「臭い」なのだ。この「臭い」は、いくら拭っても韓国という国にパラサイトして離れない。そしてそれは、普段は半地下に押し込められていなければならないのだ。

 

中島一夫

 

アダムズ・アップル(アナス・トマス・イェンセン)

 スキンヘッドの「アダム」は、仮釈放後、更生プログラムでデンマーク田舎の教会にやってくる。部屋にヒトラーのポスターを貼るほどネオナチ思想に染まり切った彼は、牧師の「イヴァン」(マッツ・ミケルセン)の言うことを、はなから受け入れる気がない。ああ、だんだんアダムがイヴァンに信仰を説かれ更生していくんだな、と高をくくっていたが、まったく違った。

 

 イヴァンはアダムを信仰に向かわせるどころか、逆にアダムに信仰を失わせられる。本作は『ヨブ記』をベースに展開するが、ヨブの友人同様、アダムは次々にイヴァンへと降りかかる災難があまりにも悲惨なので、彼が何か隠れた罪を犯したに違いないと、イヴァンに悔い改めを迫る。当初、イヴァンは認めようとしないが、次々に降りかかる災難の中で、アダムへの反論の根拠が自らの中で徐々に見いだせなくなっていく。「愛する神が、なぜ人間に災いをもたらすのか」、「神よ、なぜあなたは私を見捨てたのですか」。

 

 この作品は、イヴァン=ヨブが神を見失い「転向」する物語である。ただ、その描こうとするところはそう単純ではない。イヴァンは、いったい神が自分に何を求めているのかがついに分からない。イヴァンはアダムに「神に試されている」と盛んに説くが、その実、神=大文字の他者の欲望が見えない牧師なのだ。

 

 アダムは、イヴァンに因果応報を突きつけ沈黙させるが、そのときはじめて重要なことに気づく。イヴァンが自分や子どもにどんなに過酷な苦難にあっても、それらを「応報」とはとらえず、ひたすら「神に試されている」と説く。アダムはずっとこのイヴァンの姿勢を、あたかも「狂人」のようにしか見ていなかった(観客も概ねアダムに共感していただろう)。

 

 だが、イヴァンが信仰を失って沈黙し、ふさぎ込んで誰とも話さなくなってしまうと、慌てたように周囲にイヴァンと話すよう促すのだ。アダムはイヴァンに同情したのではない。このとき、イヴァンが「正しかった」ことを突如理解したのだ。どういうことか。

 

 おそらく、これは『ヨブ記』最大の難問に関わる。『ヨブ記』で最も躓くのは、神を疑ったヨブを、神は「正しい」と言う場面だ。さらに返す刀でヨブの友人たちに怒りを燃やす。「君たちは、わたしに向かって、わが僕ヨブのように正しいことを語らなかった」。いったい神は何を言っているのか。何度読み直してもわからない。おそらく、ヨブが神を理解できなかったように。

 

 では、果たしてヨブは、沈黙する前は神を理解できていたのだろうか。いや、おそらくは理解しないままに信仰していたのである。イヴァン=ヨブが、どんなに過酷な苦難に見舞われようとも、それを苦難として受けとめなかったのは、そこに何か意味や理由が、すなわち「応報」を見出していなかったからだ。だからこそ、次々に起こる悲惨な出来事にも立ち向かえたのである。だが、神を信じていなかったアダムには、その姿が狂っているようにしか見えなかったのだ。

 

 もし、苦難を過去の報いだと受け止めてしまえば、神の与える苦難を、人間がその意味や理由を理解できる程度のものに格下げしているも同然である。また、自らの過去に原因があるなら、結局はすべて自分の問題であり、そこに神が介入する余地はない。

 

すると、神の理解不可能性に躓くイヴァン=ヨブこそは、最も神を理解していたことにならないか。神がヨブは「正しいことを語った」と言ったのはそのためだ。苦難を因果応報と捉えるのは、神の矮小化なのである。

 

 イヴァン=ヨブは、神を理解不可能なまま信仰する決断主義者なのだ。『ヨブ記』の神は、信仰とは決断主義だと説いているのである。それは反信仰と言ってもよい。神を信じるとは、最も神を信じないことなのだ。その態度だけが、まっさらに「苦難」に立ち向かい事態を変え、すなわち革命を可能にする。アダムは、突然そのことに気づくのだ。ラストでアダムが焼き上げるアップルケーキは、それが「神に試されている」という言葉の真意であることを知った者への恩寵である。

 

中島一夫

 

ユーチューバーという労働

 先日、知り合いの子供たちが「ユーチューバーごっこ」をやっている光景を目にして、軽い衝撃を受けた。実際に配信しているわけではないようだが、トップユーチューバーを真似て、カメラの前で「番組」の動画を撮影しているという。ユーチューバーは、中学生男女の「なりたい職業」の上位を占めている。いまや似たような光景が至る所で繰り広げられているのだろう。トップユーチューバーらの羽振りの良い生活を動画で見て知っている以上、この資本主義社会において、彼(女)らの模倣の欲望をとめるものなど何もない。

 

 彼らは、ユーチューバーの収入のしくみや、いかにそれだけで食べていくのが難しいかといったこともすでに知っている。ワイドショーのコメンテーターは、逃げ切りそうな年長世代を尻目に、彼らは自分らが逃げ切れないだろうということも知っており、それならばせめて一瞬だけでも輝きたい、少しでも働かずに楽しく稼ぐ暮らしを夢みたいというメンタリティを抱いているというようなことを述べていた。ついつい年長世代は、ユーチューバーの浮ついた虚業ぶりを批判的に見てしまうが、同情すべきところが多々ある、と。

 

 ただ問題なのは、それが「働かずに」稼げる手段ではないということだろう(そもそも、なりたい「職業」と言っているのだが)。

 

 今さらながら気が引けるが、かつてネグリとハートが言ったように、「非物質的労働」においては仕事と余暇の区別が曖昧化する。「工場労働のパラダイムでは、労働者が生産するのはもっぱら工場の労働時間に限られていた。しかし生産の目的が問題の解決やアイディアまたは関係性の創出ということになると、労働時間は生活時間全体にまで拡大する傾向がある。アイディアやイメージはオフィスの机に座っているときばかりでなく、シャワーを浴びたり夢を見ているときにふと訪れるものだからだ。」(『マルチチュード』上)

 

これについて、沖公祐は言う。

 

要するに、新たな精神労働では、労働時間の内外において、つまり、内心と余暇時間の両方に向かって、労働力の売買によって資本に譲渡される部分が際限なく拡大していく傾向がみられるのである。このことは、賃労働者がその固有性―属性(プロパティ)を失いつつあることを、したがって、かつての呼び名であるサーバントに再び近づきつつあることを意味している。

(『「富」なき時代の資本主義』)

 

 ユーチューバーは、不断に他のユーチューバーとの競争状態に置かれている。資本主義のもとでは、利潤を発生させるのは他との差異なので、他と差異化するような「アイディアやイメージ」を絞り出す労働に、彼らは寝ても覚めても24時間携わっていると言っても過言ではない(実際、睡眠時間はほとんどないようだ)。ユーチューバーをはじめとする「非物質的労働」とは、実質的な労働の従属―包摂の完成形態なのだ。

 

 なるほど、ネグリは「非物質的労働」を、「生の生産」とか「デュオニソスの労働」などと称揚した。だが、実際は「生の生産」どころではない。それは労働者が、労働力の売買によってはまだ譲渡されなかった「人格―身体の固有性」をも譲り渡し、したがって「知的能力や感情といった精神的な諸力までもが資本の統制下に置かれることにほかならない」。このとき労働者は、沖の言うように、完全に「サーバント」と化す。資本はもはや(市民)社会が利潤を発生させないと知るや、社会から撤退しつつある(市民社会の崩壊)。すなわち、奴隷を市民に仕立て上げ、市民社会擬制してきたことを放棄し、再び「奴隷」へと引き戻しつつある、と。

 

 そのとき資本は、それを「人的資本」と言い換え、今や誰もが「生の生産」が可能な「資本家」であるかのように振る舞うだろう。「ユーチューバーごっこ」に興じる子供たちは、「サーバント」への「レッスン」を行っているわけだ。

 

 もちろんそのおぞましさは、今や何をやっているのか意味不明な大学教育や入試のおぞましさと通底している。子供から大学まで、すでに市民社会の「規律・訓練」装置としての機能が不要となった「教育」は、変わりゆく資本主義と労働の形態に応じて、ますますおぞましく変貌しつつある。大学に侵食している教育産業=資本を批判していれば済む段階は、とうに過ぎ去っている。そうした批判は、「不純」な資本に対して、どこかに「純粋」な(大学)教育があるかのような幻想を撒き散らすだけである。

 

中島一夫

 

JOKERと黛ジュン、あるいはノックの近さについて

かくして自我は法や愛や人倫などのような規定をすべて価値のないものとみ、単なる仮象とみるのであり、この自我がそれ自身のうちに集中すること、これがすなわちフリードリッヒ・シュレーゲルによって創案され、他の人々によって復誦されたイロニーであり、神的イロニーである。この立場はすべての実体的な、真実なものを空無と観じ、すべての真に客観的なものを虚無と観ずる立場だということもできる。かく空無として観ぜられるとき、すべての真実な、客観的なものは、主観の思うがままになる。したがって主観はこの空無に満足していることができる。かような主観はそれ自身無内容で空虚である。(ヘーゲル『美学』序論・竹内敏雄訳)

 

 もうずいぶん前に二回見た『JOKER』は、ホアキン・フェニックスのあいかわらずの演技と存在感に胸打たれながらも、「こうなってしまえば楽だよなあ」という思いが禁じえなかった。母殺しと「父」殺しを敢行したアーサーは、「すべては主観だ」という立場に行き着く。「自我は法や愛や人倫などのような規定をすべて価値のないものとみ」なすことで、「すべての真実な、客観的なものは、主観の思うがままになる」という立場であり、シュレーゲルの「神的イロニー」である。

 

 だが、「黛ジュン」の新木正人は、上のヘーゲルのシュレーゲル批判を「すぐれたドイツロマン派批判である」と肯定しながらも、この国の革命はもっと「粗雑でひそやかな」ものだと言う。そこで黛ジュンをもってくるのである。以前書いたが、この「黛ジュン」は、ある時は「更科日記の少女」であり、「赤い靴」の少女であり、「上海帰りのリル」、「雪村いづみ」、「中森明菜」、「きゃりーぱみゅぱみゅ」などへ次々に変奏されていく。この連鎖する「少女」らは何なのかと問われれば、おそらく新木にとっての「耐え方」であり「踏みとどまり方」としか答えようがない。新木にとっては、その連鎖そのものが「粗雑でひそやかな」革命なのだ。

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  共産圏崩壊以降、「すべての実体的な、真実なものを空無と観じ、すべての真に客観的なものを虚無と観ずる立場」=「神的イロニー」への誘惑は絶えない。この誘惑に身を任せてしまえば、JOKERのごとく「思わず恍惚を叫んでしまうような呪縛」のもと、「フォルティッシモ与えられた想念は忽ち妄想と化す」ほかはないだろう(新木「遠い意志(一)」)。あるいは,「われわれは皆JOKERだ」とばかりに性急にアナーキーな暴力と破壊の祭の快楽へと没入していくしかないだろう(現在、下層に渦巻くこうした欲望を吸い上げようとするハリウッドのしたたかさ)。だが、いわばそれは「沈む夕陽」への屈服でしかない。黛ジュンは「沈む夕陽止めようと」するように、その磁場から身をねじきって、果てしなく「遠くまで行」こうとしたのだ、と。

 

 とうに冷戦は終焉し、「眼に見える〈敵〉と対峙しそのことによっておのれの〈存在〉を確立させようとする試みがピンチなのは沈む夕陽より確かなことだ」(「黛ジュン」)。眼に見える「敵」は敵ではなく、したがっておのれの「存在」も容易に確立できない。現在盛んに言われる「新冷戦」など、資本制国家AとBのヘゲモニー争いでしかあるまい。それは「敵」を捏造しては真の敵を見えなくさせる、いつものまやかしにすぎない。

 

 新木は、何度も何度も「マルキシズム憎悪する献身的なマルキストの快楽」と言う。現在は、単なる「マルキシズム憎悪」か、単なる「献身的なマルキスト」しか存在しないように見える。いや、それすらほとんど存在しないと言うべきか。

 

 「マルキシズム憎悪」しながらいかに「献身的なマルキスト」たり得るか。新木の言う「遠い意志」とは、この「一歩前進二歩後退」(レーニン)の「耐え方」にほかならない。それに比べてJOKERのノックの音は、あまりにも近い、近すぎるのだ。

 

中島一夫

 

帰れない二人(ジャ・ジャンクー)

 ジャ・ジャンクーの中国は、いつも懐かしい。

 前作『山河ノスタルジア』の、あるいは代表作『長江哀歌』のタイトル通り、ノスタルジーやエレジーに満ちている。北京五輪あたりから、まるで中国は、かつて日本に起こったことが大規模かつ早回しに映し出される映画のようだ。中国は、何より日本にとってのノスタルジーではないか。ジャ・ジャンクーを見ていると、いつもその視線に遠さより近さを感じてしまう。

 

 もちろん、それが「中国の近代と日本の近代」(竹内好)の差異を無視した幻影=映画であることは百も承知だ。下手をすると、マルクス主義講座派歴史観よろしく、「前近代性」を日本にも中国にも等しく当てはめてしまうのがオチだろう(そして、その帰結は戦前の「支那統一化論争」だろう)。だが、ジャ・ジャンクーの「風景」が、すでにノスタルジーもエレジーも喪失した、日本のノスタルジーやエレジーの幻想的な代補に見えてしまうことも否定しがたい(今作で、いきなり『YMCA』や『チャチャチャ』が流れる瞬間といったら!)。

 

 作品が告げるように、北京五輪開催が決定した2001年は、山西省、大同の宏安鉱山の閉山が決まった年でもある。大同の街をシマとする江湖=渡世人の「ビン」(リャオ・ファン)は、組員一同と盃をあおり義兄弟の契りを固く結んできたが、昨今大同が様変わりしてくるにつれ、仁義なき新興ヤクザらがのし上がってくる。彼らは前触れも挨拶もなく、ビンらを奇襲する。ビンの恋人「チャオチャオ」(チャオ・タオ)は、炭鉱をクビになった父を連れて開発計画で経済成長の波に乗る新疆へと移住し、新天地でビンと新しく家庭を築きたいと願う。一方、ビンは「渡世人には新天地も安住の家庭もない」とにべもない。だが、渡世人の仁義もチャオチャオとの愛も、先に裏切ったのはビンの方だった。チャオチャオは、大同から奉節、新疆、再び大同へ7700kmを移動しながら、失われた愛と仁義を追い求めてさまようことになる。

 

 ずっとジャ・ジャンクーを見てきた者であれば、ビンとチャオチャオが、あの『青の稲妻』(2001年)の若い二人と同じ名前であることに思いをめぐらせずにいられないし、チャオ・タオが長江の客船に乗って三峡を移動する時の服装や髪形が、『長江哀歌』(2006年)のそれであることに心動かされてやまない。

 

 また、これも『長江哀歌』のヒロイン同様だが、チャオチャオが常にペットボトルの水を手にしているのが印象的だ。われわれはもう忘れているが、飲み水を商品として買うようになった時の衝撃といったらなかった。ペットボトルの水は、あらゆるものを商品化していく資本主義の「媒介性」の力をそれ一つで示すアイテムであり、かつ失われていく鉱山のミネラルを想起させる(捏造された)「純粋性」の表象でもある(チャオチャオが、列車で出会ったUFO男に手をつなぐことを求められ、思わずペットボトルの水を差しはさんで握り合うシーンは、その媒介性と純粋性とを同時に示すシーンだ)。

 

 ジャ・ジャンクー作品のミューズ、チャオ・タオについても同様なことが言えよう。チャオ・タオは、ジャ・ジャンクー作品において、「純粋性=透明性」を体現しているが、それは中国の休みなき発展の時間と切り離せない。いわば、チャン・タオの純粋性そのものが、もとから存在するものではなく、飽くなき成長と発展という「媒介」を経て逆説的に、また遡行的に見いだされるものなのだ。チャオ・タオという存在がペットボトルの水なのである。

 

 ラストのチャオチャオの姿はその現在形だ。ビンを介護する形で愛を取り戻したかに見えたチャオチャオは、だが結局またしても裏切られてしまう。ラストは、仁義なきアナーキーと化した大同の街に対応すべく、家の内外に張り巡らされた監視カメラに、ビンが消えて右往左往する彼女自身の姿が、皮肉にもいくつもの画面に映し出されることになる。最近の『幸福な監視国家・中国』(梶谷懐 高口康太)が伝える、安全・幸福のためにすすんで監視社会化を歓迎する中国を想起させてやまない。

 

 渡世人の仁義やら愛やら絆やらは、完全に過去のものだ。強く結びついた「二人」にもう「帰れない」のは、ビンやチャオチャオだけではない。ヤクザがシマの「治安」を守っていた「暴力」は、一見暴力を感じさせない監視カメラにとってかわられた(これまた『幸福な監視国家・中国』が言うように、中国の監視カメラは日本のそれより数段これ見よがしに設置され、「監視しているぞ」という威圧感がある)。そんななか、確かに現在プロファイリングされてしまうのは、「帰れない」仁義や愛に固執してしまうチャオチャオのような人間なのかもしれない。彼女のような人間は、いまや記録され保存される過去のデータ=標本なのだ。まさにジャ・ジャンクーの作品は、失われていく中国の、いなくなっていく人間の、貴重な記録としてある。

 

中島一夫

 

上級国民と一夫多妻

 

上級国民/下級国民 (小学館新書)

上級国民/下級国民 (小学館新書)

 

 

 2019年4月の池袋における車の暴走事故以来、ネット上に飛び交うようになった「上級国民/下級国民」という概念について、『上級国民/下級国民』(小学館新書)の橘玲は次のように言う。

 

「上層階級(アッパークラス)/下層階級(アンダークラス)」は貴族と平民のような前近代の身分制を表していましたが、その後、階級(クラス)とは移動できる(下流から「なり上がる」)ものへと変わりました。それに対して「上級国民/下級国民」は、個人の努力がなんの役にも立たない冷酷な自然法則のようなものとしてとらえられているというのです。いったん「下級国民」に落ちてしまえば、「下級国民」として老い、死んでいくしかない。幸福な人生を手に入れられるのは「上級国民」だけだ――。

 

 かつての「下流社会」(三浦展)が名前のとおり「社会」だったことを考えると、「上/下」の分断は、階級→社会→国民、と移行してきたということか。下流「社会」には、まだ市民「社会」がかろうじて残存しており、だからこそ、まだ「上流」は「下流」の鏡像であって、「下流」から「上流」へのなり上がりも可能であった。

 

 だが、昨今の「上級国民/下級国民」になると、それは「冷酷な自然法則のようなもの」(今流行の進化論や功利主義的なもの?)として、巨大な分裂と強固なヒエラルキーを成している、と。いまや「市民社会」は縮減し、かわって「国家」がせり上がってきていることを、はからずも露出させている概念といえよう。

 

 興味深いのは、著者が「上級国民/下級国民」を、端的に「モテ/非モテ」という性愛の分断と見なしていることだ。「お金は分配できても、性愛は分配できない」からである。もはや現代は「事実上の一夫多妻」だというのだ。

 

 「事実上の」というのは、先進国で増えているのは、一部の男が複数の女性と「結婚と離婚を繰り返す」形の「一夫多妻」であるからだ。これによって男性の未婚率が女性の未婚率を大幅に上回ることになっている、と。昨今、男性の未婚率、非婚率の上昇が盛んに取りざたされるが、それは一般化にすぎるミスリードだ。本当は「マジョリティ」を形成してきた「男性」自体が、「モテ」と「非モテ」に分断しているのだ、と。「モテ=上級国民」とは要は「持てる者」であり、経済的にそれが可能なので、結婚と離婚を繰り返す「一夫多妻」を実践しているわけである。

 

 一方、「下級=非モテ」は、その「モテ」と多数の女性が形成する「領域」全体から疎外されているので、彼らは「「モテ」の男(上級国民)」とすべての女は自分たちを抑圧する〝敵〟」と見なしているという。最近、さまざまに論じられている、アメリカの「インセル」のように。

 

 すが秀実が、見事な「雑文」で論じているように、「一夫一婦制は民主主義のインフラであ」り、そして日本においてそれを支えてきたのは天皇制にほかならない。いわゆる「戦後天皇制民主主義」である(「自由と民主主義万歳! われらコソ泥たち――ケーススタディ」「G-W-G」03号)。

 

 であるならば、「事実上」の一夫多妻から排除されている「非モテ=下級国民」が、自分にも分配せよとばかりに「一夫一婦制=戦後天皇制民主主義」を、積極的に支持するのは当然だろう。アメリカでは「インセル」のような「非モテ」が、トランプ旋風のようなポピュリズムオルタナ右翼を醸成させ、それらは互いに結びついている。まだ日本がそこまで行っていないのは、本当は分断している「モテ/非モテ」を、一夫一婦制のインフラたる戦後天皇制民主主義が、かろうじてつなぎ合わせているからだ。だが、本当に「天皇」は、「非モテ」の鏡像たり得るのだろうか。

 

 すがが強調しているように、一夫一婦制の民主主義による平等は、男根(男性)中心主義のもとでのそれにすぎない。それは先日ブログで述べた(「疎外と天皇」)、資本主義=市民社会における「自由と平等」が、その実「支配と隷属」関係をつねにすでに隠し持っているのと同断である。いまや市民社会が崩壊しつつあるので、決して自然解消しない「支配と隷属」の非対称的な「核」が、「資本主義―市民社会」(経済)から「一夫一婦制=戦後天皇制民主主義」(性愛)へと領域的にスライドしてきているのである。それにともなって、「上流/下流」社会が、「上級/下級」国民へとスライドしてきたわけだ。

 

 三島由紀夫が東大全共闘を相手に「フリーセックスの天皇」と言った時、現在の問題を先取りしていたと言える。

 

私の言う天皇というのはその統治的な人間天皇のことを言っているのじゃないのだ。人間天皇というのは統治的天皇ですから儒教的原理にしばられて、それこそ明治維新以後あるいはキリスト教にもしばられていたでしょう。一夫一婦制を守られて国民の道徳の規範となっておられる。これは非常に人間として不自然だ。私は陛下が万葉集時代の陛下のような自由なフリーセックスの陛下であってほしいと思っている。

 

 『古事記』の天皇は、兄弟が平気で殺し合うし、父母をちっとも尊敬していない不道徳のかぎりを尽くしている天皇だ。だが、景行天皇日本武尊を疎外してからというもの、天皇は、儒教的原理やキリスト教的道徳に縛られた「統治的天皇=人間天皇」になり果ててしまったと三島は言う。三島の説く「神=天皇」とは、この「統治性」(フーコー)の外部自体を指している。

 

 三島の主張する「言論の自由」も、この一夫一婦制の道徳からの自由である「フリーセックス」の「フリー」をベースにしていよう。三島は「言論の自由」を、「文化を腐敗させる」「本質的に無倫理的」なものと言っているからである。三島は、無倫理なフリーセックスや一夫多妻が文化を腐敗させ、ポピュリズムを醸成させることなど百も承知だっただろう。にもかかわらず、「相対的にこれ以上のものは見当たらない」のだ、と(「文化防衛論」)。天皇制による一夫一婦制とその道徳とは、結局「男根(男性)至上主義」による「統治」でしかないからだ。いくら表面的にはPCの嵐が吹き荒れようとも、それは「モテ/非モテ」のヒエラルキーを微温的に保持し続けるだけだろう。

 

中島一夫

 

疎外と天皇(三島、江藤、柄谷)

 拙稿「江藤淳新右翼」(『江藤淳 終わる平成から昭和の保守を問う』)は、「右からの六八年=保守革命」(フォルカー・ヴァイス『ドイツの新右翼』)の文脈で、江藤と三島を捉え直してみたものだ。だが、柄谷行人が「新しい哲学」(1967年、『柄谷行人初期論文集』)で、とうに同様な指摘をしていたことを最近思い出した。

 

 もちろん、柄谷は「右からの六八年=保守革命」や「新右翼」という言葉で述べてはいない。一言で言えば、柄谷は疎外論の文脈で捉えていた。そこでは「国家」と「市民社会」の分離とは、人間を類的存在という「本質」から疎外するものであり、その「疎外」を明確に認識し批判し得た存在として、三島と江藤とが論じられるのである。

 

戦後民主主義の虚妄に賭ける」という丸山真男はおそらくこの自己分裂の現実がどれ程深く文学者の表現にくい入っているかについて知らないか、梅本のように政治的有効性においてしか考えようとしないか、のいずれかである。政治学者は「合理化」の度合をプラグマティックに考量していればいいらしいが、人間の今の自己回復について過敏な少数の文学者は端的に分裂を表白する。その一人が三島由紀夫であり、また江藤淳なのである。三島は市民社会大衆社会)の私的実存にとって民主主義国家が疎遠なものと化し、利己的で非本質的な人間が競争する醜悪な現実に対して、ほとんど原理的といってもいい程わかりやすい反応を示す。つまり国家を市民社会の側にひきもどすこと、国家というかたちで疎外された人間の本質(類的本質)をひきもどすこと、そのためには(国家を揚棄するのではなく)国家を宗教化すること、いいかえれば天皇を神とすることである。天皇が三島にとって現状否定のシンボルとなるのは、それが転倒されたかたちでの市民社会揚棄をめざすからであり、林(注―房雄)にとって現状肯定のシンボルとなるのは、それが「民主主義」の保守的機能を果すからである。

 また江藤淳は国家と市民社会の分離を「喪失」として、つまり人間的本質の喪失として把握し、それが文学的言語の中にいかに表出されているかを指摘してみせる。かつての江藤淳はいわばブルジョア的合理化のイデオローグであり、それを散文化のうちに見ようとする文芸批評家にすぎなかった。その姿勢が実践的であるだけ、彼は市民社会の散文化自体が人間的本質の「喪失」を伴うことに気づいていなかった。だから僕は松原新一の江藤批判は実に下らないとしか思えない。松原の小道徳的批判にも拘らず、江藤淳の「転向」の意味するものは二つの点で鋭く僕ら自身に関わっている。第一に、先に述べた現状況の変化、第二にその変化を感性的にとらえうるために必然的に江藤がやらねばならなかった何ものかの放棄。すなわち〈行動する批評家〉から〈見る人〉への転換である。

 江藤淳が〈見る人〉であり、病者としての自己と世界を〈見る人〉であるのに対して、三島は「病者であるとともに医者でなければならぬ」といって積極的に思想を語りはじめる。但し三島の思想は「めざめた夢」(フォイエルバッハ)にすぎない。国家と市民社会の分裂は市民社会内部の分裂の表象なのだから、国家幻想のうちに市民社会を吸収しようとする空想は刹那的にしか実現されないことは先験的に明らかである。いずれにしても三島や江藤の意識に(たとえ転倒されたかたちにせよ)まるで鏡のように現実が映し出されているの驚かざるをえない。それに反して左翼知識人の意識に映っている危機感は、せいぜい民主主義の危機か戦争の危機でしかない。マルクスをいかにかじっても、彼らは〈見る〉ということができないのだ。(柄谷行人「新しい哲学」)

  

 三島と江藤にとって、「戦後民主主義」とは、「国家」と「市民社会」が分離、分裂しているにもかかわらず、それがないかのように、さらに言えば民主主義革命によって、あたかも「国家」が乗り越えられたかのように見なす「ごっこ」(江藤)であった。だからこそ、彼らはまず、人間の「疎外」を明確にしたうえで、「国家を市民社会の側にひきもどすこと」を目論んだのだ、と。

 

 つまり柄谷は、三島と江藤は、初期マルクス的な疎外論を共有していたと言っているわけだ。だからこそ、ニューレフトと交差し、保守革命を志向し得たのだといえる。保守革命は、必ず「本質=故郷」からの「疎外」をモチーフとするからだ。そして彼らが、「天皇」を最も疎外された者として、すなわち民衆の「疎外」を表象=代表する存在として捉え直し、それに対するフェティッシュ的な欲望を共有していたことも言うまでもないだろう。

 

 逆に言えば、彼らは、天皇へのフェティシズムを持つことによって、疎外論を保持し得たということだ。もし疎外が解消されるなら、還元し得ない存在がフェティッシュ化することもないからだ。

 

 市民社会マルクス主義の大衆天皇制論(松下圭一)や、廣松渉の疎外革命論批判(社会構成論)は、この疎外=フェティッシュが、松下のように陣地戦的に漸進的に、であれ、廣松のように錯視を除去することで一挙に、であれ、解消可能であるかに見なした。ここに誤りがあったのではないか。それらは、現在の「リベラル天皇制」や「新しい社会運動」にまで理論的にまっすぐつながっている。

 

 だが、マルクスによる商品の物神性論の「肝」は、商品の関係に、人間の社会的諸関係が、ひいては支配と隷属の関係が、(転倒されて)隠されているということではなかったか。商品の物神性とは、支配と隷属という人間相互の関係が、商品相互の関係に置換されたものだ。すなわち、資本主義による商品の物神性に覆われた近代市民社会とは、前近代的で封建的な支配と隷属の関係が抑圧された擬制にすぎず、前者における自由や平等は、後者を隠蔽したイデオロギーである。近代になって封建制から市民社会になったといっても、資本主義的な市民社会自体が、常にすでに「半」封建的なのだ。

 

 言い換えれば、資本主義における商品の物神性が存在する以上、支配と隷属からくる「疎外」がなくなることはない。疎外は、「自由と平等」のイデオロギーで抑圧され塗りつぶされ解消されたかに見える。

 

 だが、疎外が決して解消されていないことは、ほかならぬ「天皇」の存在が示しているのだ。先に述べたように、「天皇」とは、民衆の疎外が集積され表象された「もの」だからだ。「天皇」は疎外が解消されない証であり、「天皇制」とは半封建の残存ではなく、資本主義―市民社会そのものの半封建性の表れなのである。三島と江藤が、疎外から「天皇」をフェティッシュ化したゆえんだ。

 

 柄谷は、「新しい哲学」の時点でそれを触知していながら、私見では、その後『探究Ⅰ』の段階で「転回」した。『探究Ⅰ』で、商品と商品との関係に、垂直的な支配と隷属関係ではなく、水平的な(当時は「斜め」の言われた)非対称性や他者性を見出していった時、いわゆる「市民社会論」に漸近していったのではなかったか。その時、疎外―フェティシズムが見失われた(置換された)のだ。柄谷の他者論に、もう天皇の姿はない。

 

中島一夫