上級国民と一夫多妻

 

上級国民/下級国民 (小学館新書)

上級国民/下級国民 (小学館新書)

 

 

 2019年4月の池袋における車の暴走事故以来、ネット上に飛び交うようになった「上級国民/下級国民」という概念について、『上級国民/下級国民』(小学館新書)の橘玲は次のように言う。

 

「上層階級(アッパークラス)/下層階級(アンダークラス)」は貴族と平民のような前近代の身分制を表していましたが、その後、階級(クラス)とは移動できる(下流から「なり上がる」)ものへと変わりました。それに対して「上級国民/下級国民」は、個人の努力がなんの役にも立たない冷酷な自然法則のようなものとしてとらえられているというのです。いったん「下級国民」に落ちてしまえば、「下級国民」として老い、死んでいくしかない。幸福な人生を手に入れられるのは「上級国民」だけだ――。

 

 かつての「下流社会」(三浦展)が名前のとおり「社会」だったことを考えると、「上/下」の分断は、階級→社会→国民、と移行してきたということか。下流「社会」には、まだ市民「社会」がかろうじて残存しており、だからこそ、まだ「上流」は「下流」の鏡像であって、「下流」から「上流」へのなり上がりも可能であった。

 

 だが、昨今の「上級国民/下級国民」になると、それは「冷酷な自然法則のようなもの」(今流行の進化論や功利主義的なもの?)として、巨大な分裂と強固なヒエラルキーを成している、と。いまや「市民社会」は縮減し、かわって「国家」がせり上がってきていることを、はからずも露出させている概念といえよう。

 

 興味深いのは、著者が「上級国民/下級国民」を、端的に「モテ/非モテ」という性愛の分断と見なしていることだ。「お金は分配できても、性愛は分配できない」からである。もはや現代は「事実上の一夫多妻」だというのだ。

 

 「事実上の」というのは、先進国で増えているのは、一部の男が複数の女性と「結婚と離婚を繰り返す」形の「一夫多妻」であるからだ。これによって男性の未婚率が女性の未婚率を大幅に上回ることになっている、と。昨今、男性の未婚率、非婚率の上昇が盛んに取りざたされるが、それは一般化にすぎるミスリードだ。本当は「マジョリティ」を形成してきた「男性」自体が、「モテ」と「非モテ」に分断しているのだ、と。「モテ=上級国民」とは要は「持てる者」であり、経済的にそれが可能なので、結婚と離婚を繰り返す「一夫多妻」を実践しているわけである。

 

 一方、「下級=非モテ」は、その「モテ」と多数の女性が形成する「領域」全体から疎外されているので、彼らは「「モテ」の男(上級国民)」とすべての女は自分たちを抑圧する〝敵〟」と見なしているという。最近、さまざまに論じられている、アメリカの「インセル」のように。

 

 すが秀実が、見事な「雑文」で論じているように、「一夫一婦制は民主主義のインフラであ」り、そして日本においてそれを支えてきたのは天皇制にほかならない。いわゆる「戦後天皇制民主主義」である(「自由と民主主義万歳! われらコソ泥たち――ケーススタディ」「G-W-G」03号)。

 

 であるならば、「事実上」の一夫多妻から排除されている「非モテ=下級国民」が、自分にも分配せよとばかりに「一夫一婦制=戦後天皇制民主主義」を、積極的に支持するのは当然だろう。アメリカでは「インセル」のような「非モテ」が、トランプ旋風のようなポピュリズムオルタナ右翼を醸成させ、それらは互いに結びついている。まだ日本がそこまで行っていないのは、本当は分断している「モテ/非モテ」を、一夫一婦制のインフラたる戦後天皇制民主主義が、かろうじてつなぎ合わせているからだ。だが、本当に「天皇」は、「非モテ」の鏡像たり得るのだろうか。

 

 すがが強調しているように、一夫一婦制の民主主義による平等は、男根(男性)中心主義のもとでのそれにすぎない。それは先日ブログで述べた(「疎外と天皇」)、資本主義=市民社会における「自由と平等」が、その実「支配と隷属」関係をつねにすでに隠し持っているのと同断である。いまや市民社会が崩壊しつつあるので、決して自然解消しない「支配と隷属」の非対称的な「核」が、「資本主義―市民社会」(経済)から「一夫一婦制=戦後天皇制民主主義」(性愛)へと領域的にスライドしてきているのである。それにともなって、「上流/下流」社会が、「上級/下級」国民へとスライドしてきたわけだ。

 

 三島由紀夫が東大全共闘を相手に「フリーセックスの天皇」と言った時、現在の問題を先取りしていたと言える。

 

私の言う天皇というのはその統治的な人間天皇のことを言っているのじゃないのだ。人間天皇というのは統治的天皇ですから儒教的原理にしばられて、それこそ明治維新以後あるいはキリスト教にもしばられていたでしょう。一夫一婦制を守られて国民の道徳の規範となっておられる。これは非常に人間として不自然だ。私は陛下が万葉集時代の陛下のような自由なフリーセックスの陛下であってほしいと思っている。

 

 『古事記』の天皇は、兄弟が平気で殺し合うし、父母をちっとも尊敬していない不道徳のかぎりを尽くしている天皇だ。だが、景行天皇日本武尊を疎外してからというもの、天皇は、儒教的原理やキリスト教的道徳に縛られた「統治的天皇=人間天皇」になり果ててしまったと三島は言う。三島の説く「神=天皇」とは、この「統治性」(フーコー)の外部自体を指している。

 

 三島の主張する「言論の自由」も、この一夫一婦制の道徳からの自由である「フリーセックス」の「フリー」をベースにしていよう。三島は「言論の自由」を、「文化を腐敗させる」「本質的に無倫理的」なものと言っているからである。三島は、無倫理なフリーセックスや一夫多妻が文化を腐敗させ、ポピュリズムを醸成させることなど百も承知だっただろう。にもかかわらず、「相対的にこれ以上のものは見当たらない」のだ、と(「文化防衛論」)。天皇制による一夫一婦制とその道徳とは、結局「男根(男性)至上主義」による「統治」でしかないからだ。いくら表面的にはPCの嵐が吹き荒れようとも、それは「モテ/非モテ」のヒエラルキーを微温的に保持し続けるだけだろう。

 

中島一夫