判決、ふたつの希望(ジアド・ドゥエイリ)

 レバノン映画として初めてアカデミー賞にノミネートされた作品。

 違法建築の補修作業にやって来た現場監督とその家の住人とのささいな行き違いが、しかし二人がパレスチナ人とレバノン人であり、さらに難民と彼らを差別し排除しようとするキリスト教右派政党の熱烈な支持者だったことから、またたくまに民族的、政治的な対立へと拡大、炎上していく。出口がないように見えた両者の法廷闘争に、「希望」をもたらしたのはいったい何だったのか――。

 もちろん、本作の背景には、1970年以降のレバノン内戦、イスラエルレバノン侵攻、サブラ・シャティーラの大虐殺、そして何より主人公に直接関わるダムール事件といった、とても安易に語ることのできない重い歴史が横たわっている。だが、誤解を恐れずに言えば、そうした歴史にこだわっているかぎり、お互いにレイシズムから脱却できないと本作は主張しているのではないか。

 何も、「歴史を忘れないと前には進めない」といったような、単純で「前向き」な「希望」の押し売りではない。本作が提示するのは、レイシズムは何かを覆い隠している、さらに言えば、何かを覆い隠すためにレイシズムは発動されるのではないか、という洞察である。

 ウォーラーステインは、レイシズムを、世界システムの統治の手段と捉えた。「本来」、レイシズムの機能は、人々を外へと排除するのではなく、「劣等人種」としてシステムにつなぎとめておくことだ。だが、ナチによる「最終解決」があまりに行き過ぎたために、かえってレイシズムが無意味化されてしまったのだ、と。

社会科学者たちは、ナチという現象をドイツの歴史的状況のなんらかの特殊性の観点から分析しようとしてきたわけだが、実は、世界システム全体が、ずっと危険な火遊びをしてきたのだということを見ようとはしなかった。それがなんらかの形でどこかに引火して爆発するのは、単に時間の問題だったのである。……そして彼らは単純にも、別の憎悪と恐怖の対象を持ち出して代用してきた。最近になって、いわゆる「文明の衝突」という論争が戦わされているが、その概念自体がこのような社会科学者の発明品なのではないだろうか。(『脱商品化の時代』)

 では、レイシズムが覆い隠しているものは何か。それは、「労働者」という「階級」である。

これは象徴的なことなのだが、今日の批評的、政治的言説からは「労働者」という語が消えた。その語は「移民/移民労働者」――フランスにおけるアルジェリア人、ドイツにおけるトルコ人アメリカにおけるメキシコ人――に置き代えられた、そして/あるいは、それによって抹消されたのである。こうして労働者の搾取という階級問題は、「〈他者性〉に対する不寛容」、云々という多文化主義的問題に変容する。そして、移民の民族的権利の擁護に過剰に入れ込む多文化主義のリベラル派は、「抑圧された」階級の次元からみずからの活力を引き出すのである。……それゆえに、民族をめぐる不寛容に対抗するためには、〈他者〉の〈他者性〉を尊重し、それとともに生きられるようになるべきである。様々なライフスタイルに対して寛容でいられるようになるべきである、云々――を断固しりぞけなければならない。民族嫌悪と効果的に戦う方法は、それと正反対にある民族的寛容ではない。われわれに必要なのは、それとは逆に、さらなる大きな嫌悪である。ただしこれは、政治的と呼ぶにふさわしい嫌悪、共通の政治的な敵に向けられた嫌悪である。(ジジェク『絶望する勇気』)

 ひと昔前に流行った「他者」や「他者性」というタームは、いまや完全に批評性、思想性を喪失した。それらは「絶望する勇気」とともに捨て去られなければならない。むしろ「他者」は、他者を世界システムの「周辺」につなぎとめておくことで、レイシズムを喚起させる「装置」と化している。それは、「共通の政治的な敵」から人々の目を逸らさせ、労働者を分断させ互いに敵対させる。そうした事態にリベラルは「寛容たれ」と言うが、それは結局システムを維持することにしか貢献しない。

 映画に戻ろう。パレスチナ難民の現場監督と、レバノンの自動車修理工は、法廷の「外」で一発ずつパンチを互いに見舞い、やがて排水管の設置と車のバッテリー不具合の解決とを「贈与=交換」する。それは、職人労働者としての技能を、商売ではなく、お互いに困っているが対応できないこと=欠陥を補い合おうとする行為としてなされる。

 そのとき、燃えさかる民族対立の法廷では見えなくなっていた、労働者という階級が突如として露呈する。これだけが、両者の対立を乗りこえる「希望」なのだ。この後、リストラされてしまった現場監督に、きっと自動車修理工は何らかの形で手を差し伸べていくだろう。そんな光景が、自然に目に浮かんでくる見事なラストだ。

中島一夫