ドライブイン蒲生(たむらまさき)

 人生はドライブインのようだ。

 ドライブインのメシは不味い。うまかったら、長居してしまうから。ドライブインは、どこからかやって来た人を、またどこかへと向かわせる、そんな場所でなければならない。それは、来し方と行く末を中継する「橋」だ。

 冒頭、窓枠が映し出され、窓ガラスにハエが這っていく。そのように、稀代のカメラマンたむらまさきが、最後に監督として、「ここしかない」とばかりに据えるカメラのフレームに、役者たちが入り込んできてはやがて外れていく。それは、映画そのものであり、人生そのものだ。人は、順番に生というフレームに入ってきては、他人と何かを演じ、やがて順番が来たら退場する。

 磯田勉も触れていたが(『映画芸術』2014年春)、たむらは、小津安二郎厚田雄春増村保造小林節雄、三隈研次と牧浦地志といった名コンビと呼ばれる監督を持たないカメラマンだった。かといって孤立しているわけでもない。こう言ってよければ、映画も人生も、「最強のふたり」になるのもいいけれど、フレームの中で出会った誰かと何かを始められればそれでいい。そんなふうに割り切っていたのではなかろうか。今作も、監督だからと言って力こぶの入ったところがまったく見られない。

 「ドライブイン=フレーム」においては、何かが受け継がれているのかもしれない。何の意味があるのか、よくは分からないまま。退場したら、作中染谷将太が呟くように「仏」になるのだろうか。窓枠の中のガラスを這うハエたちは何も分からないまま這っていく。「蒲生家」の人々が「バカ」なのではない(彼らを「バカ」と言う、周囲の人間たちのバカっぷりを見よ)。人生の意味など何も分からずに、「ドライブイン」を訪れては去っていくわれわれの人生が、「バカ」であり「ハエ」なのだ。

 だから、せめて優しくあろうと思う。どうしても人を殴らなければならない時は、せめて右手ではなく左手だ。傷を負った者には、傷口に煙草の葉を擦り込んでやれ。果たして、それが本当に優しさなのか、そんなこともよく分からないし、傷は余計に痛みを増してくるばかりなのだから矛盾に満ちているように思うが、とにかく父(永瀬正敏)はそんなふうにしていたと、娘(黒川芽衣)と息子(染谷)は思う。

 そこではアイスピックも、本来の目的としても凶器としても用いられず、広げた指と指の間を素早く突き立てるナイフトリックや、入れ墨を肌に塗り込む道具として受け継がれるだろう。「蒲生」のドライブインに何がしか固有性があるとしたら、そんな「バカ」な受け継ぎに宿っているだろう。遺骨に染まった入れ墨のように。

 九条シネヌーヴォで、今年亡くなったたむらまさきの追悼上映。生前に見て、亡くなってから見る。これ以上にふさわしい「ドライブイン」の鑑賞はない気がした。

中島一夫