内野光子「タブーのない短歌の世界を」
触れそびれていたが、昨年の重要な論考の一つに、内野光子「タブーのない短歌の世界を 「歌会始」を通して考える」(『ユリイカ』2016年8月)があった。
歌人である内野は、自ら短歌空間の渦中にいながら、いかに短歌が天皇制と密接に関わっているかを論じてきた。今回も、従来から指摘し続けている、岡井隆のなし崩しの転向について触れながら、これまた『短歌と天皇制』(一九八八年)や『天皇の短歌は何を語るのか』(二〇一三年)などでも論じてきた、歌会始についての、いわばなし崩し的な変化を見逃さない。
歌会始選者の一人、今野寿美が、昨年から『赤旗』の歌壇選者になったというのだ。内野はこれについて、「今野寿美の思想の自由、『赤旗』の編集の自由だといって、片づけられる問題なのだろうか」と問い、さらに次のように主張する。
だが、これには、前触れがあった。一九四七年以来、七〇年近きにわたって、「玉座」から天皇の「おことば」が述べられている国会開会式には参加していなかった日本共産党が、二〇一五年のクリスマス・イブに、二〇一六年の通常国会から出席すると発表したのだった。そのために開かれた記者会見の模様を、『赤旗』より詳しく報道したのが『産経新聞』であった(一二月二五日)。「共産党、国会開会式に出席へ 天皇陛下御臨席に反対方針を転換「アレルギー」払拭へ」の見出しで、共産党は安全保障関連法の廃止を求める野党連立政権「国民連合政府」構想を提案しており、従来の対応を変えることで他党に根強い「共産党アレルギー」を払拭する狙いがあるとみられる、と報じた。
『赤旗』が公然と歌会始選者を迎え、あからさまに天皇制にからめとられていくさまは、共産党が、従来拒否してきた国会開会式に参加し、安保法案の廃止に向け野党と足並みを揃えようとすり寄っていくことと並行していると言うのだ。すなわち、共産党は、世間の「アレルギー」を払拭するために、政治においても文学においても、天皇制への迎合を必要としたということである。的確な指摘だろう。
内野の指摘は、一昨年の安保法案問題、さらにはその先にある来るべき憲法改正問題が、明確に天皇制と通底していることを突いている。左右を問わず、もはや大衆の支持を得るには天皇制しかないかのような状況だ。
安保法案が通ったことについては「数」の問題(暴力)だと見なされがちだが、そうではないだろう。与党も野党も基本的に天皇制を受容、肯定しているのだから、安保法案に対しても憲法改正に対しても、「反対勢力」を形成することなどそもそも可能なのだろうか。そして、そのことは、政党政治内部だけにとどまらず、「街頭」にあっても同様だろう。
内野は言う。
さらにさかのぼれば、二〇〇四年の新綱領、昨二〇一五年一〇月の「日米安保条約廃案一時凍結」の発表を経て、野党共闘、アレルギー払拭をめざし、一枚一枚、筍の皮をはいで行って、その先に残るものは何なのだろう。そういう流れのなかで、一見、寛容で、ウィングを広げたかのような『赤旗』紙面への著名歌人の登場、歌会始選者の『赤旗』歌壇への起用であったのである。
この問題については、内野以上の言葉を持たない。だが、「一枚一枚、筍の皮をはいで行って、その先に残るものは何なのだろう」という、この、なし崩しの果てまで来てしまったという感覚は共有している。
(中島一夫)