スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド2 倒錯的イデオロギー・ガイド(ソフィー・ファインズ) その2

 二〇世紀の映画=イデオロギーの認知図を見渡すことでしか、ポスト・イデオロギーの現在とは何かを理解し得ない。そして、ポスト・イデオロギーとは、何よりもポスト共産主義にほかならず、このことを受容しないことには、「迫り来る革命」を思考し得ない。

 ラスト近く、スコセッシ『最後の誘惑』を引きながら、無神論者になるためには、キリスト教徒にならねばならないというパラドックスが提示されるのも、そのためだ。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と言って、神に見放され絶望に陥ったイエスこそ、あらゆるイデオロギーを脱ぎ捨てたポスト・イデオロギーの先駆的存在ではないか、とジジェクは問う。まさに、「イデオロギーの外に出て自由になるには、痛みを伴う」わけだ。

 その意味において、今作(あるいは現在のジジェク)を規定しているのは、ラストに引かれる、絶望の淵にあった『歴史の概念について』のベンヤミンであろう。進歩史観に規定されている社会民主主義は、コンフォーミズム(体制順応主義)にすぎないと喝破し、歴史の連続性を打ち壊しこじ開け、「いまこのとき」に満たされた時間として歴史を捉え直す、「歴史的唯物論者」の力を前面に打ちだそうとした、あのベンヤミンだ。

移行をあらわすのではなく、時間が停止し、静止状態になった現在の概念を、歴史的唯物論者は手放すことができない。なぜならば、この概念こそがまさに、歴史的唯物論者自身が歴史を書きつつあるその現在を定義するものだからだ。

 もちろんそのまなざしは、歴史に、出来事の連鎖ではなく、「ただ一つのカタストロフィーを見る」「新しい天使」のそれであり、「いまこのとき」にもメシアはやって来ると考えるユダヤ人のそれだ。

よく知られているように、ユダヤ人には未来を探ることが禁じられていた。律法(トーラー)と祈祷は、そのかわり、彼らに想起(アインゲデンケン)を教えている。想起は、予言者たちに教えを請う者たちがとらえられた未来の魔力から、彼らを解き放つ。しかし、それだからといって、ユダヤ人にとって未来は均質で空虚な時間とはならなかった。なぜならば、時間のうちの一秒一秒が、メシアがそこを通ってやってくるかもしれない小さな門だったからだ。

 ベンヤミンの言う「歴史的唯物論」とは、共産主義唯物史観を、予言者の「未来の魔力」のごとき進歩史観イデオロギーとして捨て去った、絶望の淵においてしか現れない。それには、激しい痛みが伴うだろう。人類の無意識として構造化されているのだから、待っていればそれはやって来るという未来など存在しない。

 自ら無神論者を名乗る者ほど、何らかの超越性を信じている。ポスト・イデオロギーというなら、徹底的に無神論者たれ。今作のジジェクは、その存在にいらだつように、自らの鼻=ファルスをさかんにいじりながらそうまくしたて、画面の向こうから挑発してくる。

中島一夫