「二階」と人民戦線――小津、蓮實、志賀 その4

 監督協会には、東京側からは、内田吐夢小津安二郎清水宏成瀬巳喜男らが、関西側からは、伊丹万作伊藤大輔溝口健二山中貞雄らが参加。それまで日本の映画監督は、各会社に雇われた社員であり、彼らを横断的につなぐ組織を持たなかった。それぞれの会社に分断され、相互の交流も乏しかったようだ。そんななか立ち上がった日本映画監督協会は、表向きは日本映画界の代表たる監督たちが、互いの親睦をはかるとともに、日本映画の向上を目指すということだったが、その背景は次のようなものであった。

 

その素地としては、当時の報道が一様に言及している五社聯盟の存在、映画資本家による従業員への統制の強化に対抗しようとする意識が潜在していたのは間違いない。特に伊丹万作溝口健二にそれが強かったといわれる。当然、資本の側にとって、会社の枠を超えた監督たちの団体結成は最も警戒すべき動きであった。それだけに監督協会は当面、親睦団体を標榜したのだろう。

 小津安二郎は監督協会の設立、運営に極めて積極的にかかわっていく。五月三日に熱海の錦城館で開かれた総会で、彼は山中、成瀬、内田とともに研究部委員に就任、また彼がデザインした協会マークを、会員の作品のタイトルに使うことが決定した。フィルムのコマを模した横長四方形に8の字を横にして収めたもので、映画が第八芸術と称されたことに由来する。このマークをタイトルに出すことを松竹に黙認したが、日活では当初反対する動きもあった。(田中眞澄『小津安二郎周游』)

 

 それは、「映画資本家による従業員への統制の強化に対抗しようとする」、「会社の枠を超えた監督たちの団体」であり、いわゆるクラフト・ユニオン(職能組合)のような組織だった。繰り返せば、時は非常時、二・二六事件戒厳令下である。ただでさえ、団体の結成はことのほか警戒される時期だっただろうが(だからこそ「当面、親睦団体を標榜した」)、その前年の一九三五年、監督協会設立を考えるうえで不可欠な出来事が起こる。長くなるが引用しよう。

 

それはさておき、この時期に監督協会が誕生した意味を考えるとき、その関連では従来殆ど考察されて来なかった論題があったのに気がつく。それは大日本映画協会の存在である。

 この半官半民を謳った団体は、一九三五年十一月に発足したが、実質的に推進したのは内務省であり、一種のカムフラージュとして民間人を取り込みながらも、結局は内務省主導による映画統制、映画国策の遂行を意図していたといえる。〔…〕

 即ち、この大日本映画協会は、一九三三年(!)二月八日の衆議院に岩崎亮が提出した映画国策建議案を承ける形で、内務省主導で遂行した一連の動きが到達した一つの段階を示すものであった。国家権力を背景にしているだけに、映画作家たちにとって、それは眼前の敵である映画資本家たちの組織以上に、映画資本家に加え、菊池寛や小野賢一郎といった有識者も名を連らねたこの協会は。無気味に思えたのではなかろうか。監督協会が発足当初『日本映画』への執筆拒否を申し合わせたのは、故なきことではあるまい。

 

 「映画の民衆に及ぼす悪影響を排除し、以て健全なる国民生活の確保に資すると共に、風教の保持刷新に貢献」すること。この一九三三年=非常時からじわじわ遂行されてきた、内務省主導の映画統制、映画国策。作家たちにとっては、「眼前の映画資本家たち」以上に、この半官半民の「大日本映画協会」の存在がやっかいだったことは想像しやすい。国策遂行に向けて統制されていく映画を、国家と資本の結託から守らねばならない――。そのために小津は、監督協会の設立、運営に積極的に関わっていくのである。

 

監督協会の結成には、そのような映画界の外側の世界からの圧迫感に対する暗黙の抵抗感覚が潜在していたように、読み取れないでもない。そして監督協会結成に呼応するかのように、シナリオ作家協会、映画技術者協会(従来のキャメラマンだけの組織だけではなく、録音や照明の技師も含めた)が次々に組織された。そこに、当時の論壇の議論の焦点の一つであった〝人民戦線〟的連帯すら(それが幻想であるとは承知しつつも)連想したくなるほどである(この年七月、スペインの内乱がはじまることもあって)。もっともこの年の終りには、監督協会から八名の監督が大日本映画協会の役員に選ばれた(理事――池田義信、内田吐夢評議員――村田實、溝口健二山本嘉次郎、吉村操、伊藤大輔衣笠貞之助)。それは監督たちが国家権力に取り込まれたというよりは、国家権力の側で彼らの存在、監督協会という形での連帯を無視できなかったことを意味していたのではなかろうか。

 

 田中が「幻想であると承知しつつも」と断っているように、「党」とは無縁だった映画協会に、「人民戦線」を連想するのは「幻想」だろう。だが、当時の小津が、どうしようもなく、そうした時代的文脈の渦中にあったことは否めない。少なくとも、国家権力が、すぐさま監督協会を大日本映画協会に吸収しにかからねばならなかったほどには、この組織的な連帯は、シナリオ作家協会や映画技術者協会へと「戦線」が拡大していったことかれしても、ある種の政治的実践に見えていたのではないか。

 

 言うまでもなく、映画という芸術は、一人の芸術家による実践ではない。一つの作品は、多数の人間の組織化された共同制作たらざるを得ない。ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」(一九三五年)で、映画を大衆社会化に即した芸術、それは例えば、従来の絵画のようにパトロンではなく、不特定多数の群集に向けられた複製技術時代の芸術様式だ、と述べた。ほぼ同時期に、美学者の中井正一は、「委員会の論理」(一九三六年)で、集団的な制作者と集団的な観客とを媒介する集団芸術としての映画を通して、大衆社会をある種自主管理の下の取り返そうとする新たな「委員会=政体」を構想した。この中井の試みは、非常時の滝川事件以降の『美・批評』、『世界文化』、『土曜日』といった同人誌やタブロイド新聞による日中戦争勃発前後の「日本人民戦線」(平野謙)から地続きの、人民戦線的実践にほかならなかった(長濱一眞『近代のはずみ、ひずみ』参照)。

 

 もちろん、すでに一九三二年あたりからフランスやスペインの人民戦線は活発化しており、それを受けて、一九三五年八月のコミンテルン第七大会における、いわゆる「ディミトロフ決議」によって、反ファシズムの幅広い人民統一戦線は提示されていた。したがって、先の田中眞澄のように、小津らの監督協会結成もまた、映画という大衆社会の媒介を、それをもって国民の統制をはかろうとする国家や資本の側に譲り渡さんと組織的に防衛していこうとする人民戦線的な実践と捉えても、歴史的な文脈からしてあながち的外れでもないだろう。

 

 小津がデザインし、その後も使用されることになる監督協会のマークは、映画が第八芸術と称されたことを受け、フィルムのコマを模した横長四方形の内側に、横倒しになった8の字が描かれている。それは、横のつながりが∞=無限大に展開し続いていくのが、複製技術時代の集団芸術たる映画という芸術だという理念がこめられていたのではないか。

 

 その後、監督協会は、戦時体制の進行に吸収され、一九四二年に解散し、戦後しばらくは松竹、東宝大映の各社撮影所の監督部会に分かれ、なかなか協会の再建には至らなかったが、一九四八年に事態は一変する。

 

事態が急転回したのは、一九四八年春、東宝砧撮影所で会社側が共産党系分子の排除を目的とする人員整理案を提示したのに端を発した、所謂『東宝大争議』に於てであった。会社側と組合側の交渉が決裂し、四月十六日に二百七十九名(「キネマ旬報」による)の馘首が通告されたその中に、四名の監督も含まれていた(監督は契約者だから再契約拒否)。これに対し、五所平之助他十四名の監督が「監督協会」を結成し〔…〕、会社側との折衝に当る一方、他社の監督たちにも呼びかけて、全映画監督の結成の場として、また映画芸術と映画監督の生活権の擁護を目標に掲げたクラフト・ユニオン(職能組合)的性格を持つ、監督協会設立準備を提案したのであった。〔…〕その準備委員会が開かれた。出席者は東宝から成瀬巳喜男豊田四郎黒澤明谷口千吉山本嘉次郎。松竹から小津安二郎、渋谷實、木下恵介大庭秀雄瑞穂春海大映から牛原虚彦

 

 戦後の監督協会再建においても指導的な立場にあった小津は、このとき次のように主張したという。「小津安二郎氏は戦前の監督協会に対する反省をも含めて、東宝の監督諸氏が、必要に迫られて勝手に協会をつくり、それに参加せよと呼びかけるのは失礼である。日映演とは何らの関係もない大義名分の通った監督協会とすべきだ。だから最初の中は親睦機関でいいと思う」(牛原虚彦『虚彦映画譜50年』一九六八年)。「日映演」とは、日本映画演劇労働組合で、東宝大争議を会社側と激しく戦った。小津の目論見は、この労組や東宝問題とは切断された、クラフト・ユニオン=職能組合という「大義名分」を、今度は明確に掲げて再結成しようというものだった。おそらく、東宝大争議で問題になった共産党系か否かを超えた、横断的な連帯を目指すという「大義名分」を実現しようとしたのだろう。レッドパージといってもよい東宝大争議に対抗しようと、今度は明確に「人民戦線」的連帯を打ち出したのである。

 

 注目すべきは、この監督協会再建の一九四九年前後には、小津が、四八年に熱海へと居を移した志賀に、何度も会いに行っていることだ。この時期は、広津和郎なども熱海におり(言うまでもなく、まさに一九四九年公開の『晩春』は、広津の『父と娘』を下敷きにしている。原作ではない)、画家の安井曾太郎や尺八の福田蘭童も含めて、「この時期の熱海には、志賀直哉を中心とする芸術家・文化人のサロンが現出していた」ようだ。

 

 もちろん、志賀直哉と交流をもつことが、直線的に小津を人民戦線に向かわせたわけではないだろう。だが、平野謙の人民戦線論を待つまでもなく、プティ・ブルジョア・インテリゲンツィアの人民戦線への道の背後には、なぜか陰に陽に志賀直哉が存在しているのだ。

 

 例えば、平野の人民戦線論の核心に存在する批評家・井上良雄は、志賀直哉プロレタリアートを強引にも重ね合わせ、そこに究極の自己救済の道を見出そうとした(「芥川龍之介志賀直哉」一九三二年)。また、平野が人民戦線の示唆を読もうとした小林秀雄私小説論」の「社会化した私」が、「思想と実生活」が結合した志賀直哉を、不可能な理念として背景にもっていたことは言うまでもない。さらに、そもそも小林多喜二が、目的意識的に党へと向かう前夜に志賀直哉を訪問し、その「実践者」と「表現者」の古き合一者に対する心からの訣別を行うとともに、新しき合一へのひそかな決意表明を行おうとしたことは有名であろう。小林多喜二は志賀を、いわば「分離・結合」(福本和夫)へのスプリングボードとしようとしたのである。今なお、青年インテリゲンツィアの政治的実践を考えるうえで、無視することはできない「神話」だろう。

 

 京都の独文を出た井上良雄は、北川桃雄らと京都在住の同人雑誌「リアル」を発刊し、治安維持法違反で検挙される(実際には、このとき井上はすでに「リアル」を離れていたようだ)。検挙された井上の「手記」の大部分は、『暗夜行路』論で埋められていたという。この「リアル」検挙が一つのきっかけとなって、「世界文化」などの人民戦線事件にまで波及していくのである。

 

(続く)

 

「二階」と人民戦線――小津、蓮實、志賀 その3

 いったい、『東京暮色』に何が起こっているのか。このとき頭をよぎるのが、またしても『暗夜行路』である。

 

小津作品の中でも最も暗く救いのない印象を与える作品。『東京暮色』というよりは、これでは『東京暗夜』と称したいぐらいである。過去の不倫が物語の伏線となっている点で、この作品は『暗夜行路』の記憶から出発したと考えられなくもない。実際、志賀直哉を崇拝し、私的な交際もあった小津に、『暗夜行路』映画化の勧めはあったらしい。「『早春』快談」で、岸松雄が〈ちょっと聞いたのだけど、小津さん『暗夜行路』をやるのですか〉と質問したのに、小津と野田はこう答える。

 小津 まだやるともやらないともきまらない。

 野田 小津さんがやっても、ぼくは御免こうむる。

 小津 ああいうものをやる自信がない。

 野田 盲目蛇で、志賀先生を知らないでやればやれる。

 小津 こうなってくると手が出ないじゃないかな。強いてやれなければ、あれによく似たようなまやかしものをやれというのだ。(田中眞澄『小津安二郎周游』二〇〇三年)

 

 田中の言うように、「日本映画史上、最も呼吸の合った名コンビだったはずの小津安二郎野田高梧が、この作品に限って対立、確執が生じた事実は、今や伝説的なエピソードであ」る。このとき、二人の「呼吸が乱れていた」(蓮實)ということはよく指摘されるものの、それが『暗夜行路』(映画化)をめぐってであったという事実は、あまり言及されない。だが、当時の助監督及川満の証言でも、「小津安二郎の五七日忌の席上、野田高梧はこの作品に対する激しい嫌悪を私に語った」というように(「野田高梧小津安二郎」『シナリオライター野田高梧をしのぶ』)、小津の死後に至っても収まらないほどの『東京暮色』への「嫌悪」を、野田は隠さなかった。

 

 それは、田中が言うように、「『暗夜行路』映画化に関して、迷いがある小津に対して、野田ははっきりと赤信号を点滅させていた」にもかかわらず、小津がそれを生煮えのまま強行したからではなかったか。

 

 そもそも、野田高梧が『暗夜行路』映画化としての『東京暮色』に批判的だったことは容易に想像がつくことだった。なぜなら、そのこと自体、『風の中の牝鶏』の時の反復だからだ。野田は言っている。「実を言うと、僕は「風の中の牝鶏」という作品を好きでなかった。現象的な世相を扱っている点でその扱い方が僕には同感出来なかった。で、ハッキリそれを言うと、小津君も素直にそれを認めてくれ、そして二人で茅ケ崎の旅館にこもって「晩春」を書くことになったのである」(野田高梧小津安二郎という男――交遊四十年とりとめもなく」『小津安二郎集成』一九八九年)。

 

 『晩春』以降のいわゆる「後期」小津は、この野田の『風の中の牝鶏』批判に始まるといってよい。野田には、『東京暮色』が『風の中の牝鶏』の小津に戻ってしまったように見えたのだろう。それは、野田が『東京暮色』を「リアルに現実を表現することは無意味と思う。現実を越えた或る何か、それを映画の中で描きたい」(及川満、前掲)と、ほぼ『風の中の牝鶏』と同じ言葉で批判していることからもわかる。これら「現象的な世相を扱っている点」や「リアルに現実を表現する」という批判が、志賀直哉白樺派的リアリズムや私小説にも向けられている言葉であると考えるのは、穿ち過ぎだろうか。

 

 おそらく野田には、小津が再び「性的なもの」に誘引されていく原因が、志賀の『暗夜行路』の影響であることも分かっていたのではないか(小林秀雄が「志賀直哉論」(一九三八年)で言ったように、『暗夜行路』は「登場する男女の間に、心理上の駈引きなぞ一切見られない。すべては性慾という根柢的なものに根ざし」ているといえる。まさに「性慾」という、「心理」ではない「リアル」が描かれた小説と読まれていたのだ)。だからこそ、あれほどまでに『暗夜行路』映画化に反対したのだろう。

 

 それはさておき、『東京暮色』に見られる志賀の影については、他にも指摘しておきたいことがある。それは、妹(有馬稲子)の自殺が「踏切り」で起こるという点である。以前論じたことであるが、「踏切り」は志賀文学において特権的な「場所」だからだ(「踏切りを越えて」『収容所文学論』二〇〇八年)。志賀の「児を盗む話」(一九一四年)から引いておこう。

 

それから二三日しての事だった。その日は穏かないい日和だった。午後二時頃私はぶらりと家を出て町へ出ようとした。町へ出るには汽車路を通らなければならなかった。踏切りの所まで来ると白い鳩が一羽線路の中を首を動かしながら歩いていた。私は立ち留ってぼんやりそれを見ていた。「汽車が来るとあぶない」というような事を考えていた。それが、鳩があぶないのか自分があぶないのかはっきりしなかった。然し鳩があぶない事はないと気がついた。自分も線路の外にいるのだから、あぶない事はないと思った。そして私は踏切りを越えて町の方へ歩いて行った。

「自殺はしないぞ」私はこんな事を考えていた。

 

 「児を盗む話」は、尾道を舞台にした幼女誘拐小説だが、この「踏切りを越えて」行くことと「自殺」とが直結していることは、この作品に限らず、志賀文学の特徴的な現象といってよい。「踏切り」は、志賀における、ある臨界点を示している。

 

 尾道といえば、誰もが『東京物語』(一九五三年)において、父母かなぜか尾道に住んでいることを想起せざるを得ないが、おそらく、『東京暮色』における妹の自殺が「踏切り」で起こっていることも、志賀の影響であろう。『一人息子』(一九三六年)や『父ありき』(一九四二年)ほか、あれほどまでに、田舎と都会とに引き裂かれる近代人を描いてきた小津は、おそらく志賀の「踏切り」が、尾道において山と町とを分ける境界線であるにとどまらず、伝統的な共同体と近代的な都市空間とを隔てるシンボリックな「場所」であることをも感受していた。したがって、「踏切りを越えて」行くという行為は、近代人が不可避的に都市(化)されていくほかないオブセッションとしてあり、しかも踏切り=リミットを越えてしまえば、それは家族をはじめとする共同体の崩壊に向かって、もはや後戻りできない「自殺」的な行為であることも、よくわかっていただろう。家族が崩壊していく過程と、有馬稲子が踏切で自殺することは、志賀を介して密接に結びついているのだ。いわば、近代の人間自体が、常にすでに「踏切りを越えて」「自殺」へと突き進んでいく、「暗夜」の「行路」の途上にあるのである。

 

 このように、『東京暮色』で『暗夜行路』の映画化が成功したかは別にして、小津がかなり意識していたことは間違いない。どうやら、小津は、文学少年時代から志賀文学に親しみながら、戦地ではじめて『暗夜行路』後篇を読破したようだ(「岩波文庫で、前篇は二度目だつたが後篇ハ始めて激しいものに甚だうたれた。これハ何年にもないことだつた」一九三九年五月九日の日記)。小津の中で、『暗夜行路』は自らの戦争体験とも不可分なのだ。

 

 したがって、「その1」で述べたように、戦後すぐの『風の中の牝鶏』にも『暗夜行路』の影響が表れているのも自然であるし、以前書いたように、小津作品の「階段」が戦争の記憶と結びついていることも、またきわめて自然だといえる。

 

 そして、『東京暮色』においても、やはり戦争の影は見られる。それは、「戦後」というより「戦前」の様相を呈している。

 

有馬稲子が演ずる捨てられた女の悲劇はたしかに小津の得意とする題材ではあるまいが、その軽薄な恋人の田浦正巳が大学の角帽にトレンチコートといういでたちで姿を見せるとき、われわれは、『非常線の女』の三井弘次がそのまま登場したのではなかろうかといった錯覚に襲われる。事実、すでに触れた真夜中の喫茶店のセットや、警察署の内部の光景などは、『非常線の女』の舞台装置を思わせるほど抽象的で、ほとんど現実感を漂わせてはいない。補導された妹をもらいうけに警察に現われる原節子は、そのコートを羽織った和服姿によって、『非常線の女』の水久保澄子の再来を思わせ、人を戸惑わせる。小津が撮った最後のモノクローム作品は、そのしかるべき側面において、戦前のある時期の自分の映画的世界の再現ともなっているのである。作者自身に、どの程度までその意図があったかどうかは問うまい。(蓮實重彦『監督 小津安二郎』)

 

 蓮實が論じるように、『東京暮色』には明らかに戦前の『非常線の女』(一九三三年)のテイストが感じられる。もちろん、テクスト論に徹する蓮實は、ここでも「作者自身に、どの程度までその意図があったかどうかは問うまい」と断ることを忘れない。だが、『東京暮色』が、『非常線の女』にも似た、ある不穏さをたたえた作品であることは間違いあるまい。何せ、中心人物である有馬稲子が、最後自殺するのみならず、一度も笑わない作品なのだ。

 

 『非常線の女』は、そのタイトル通り、「一九三三年=非常時」の作品だった。「非常時」の一語がスローガンのように行き交った一九三三年に、小津はアメリカ映画の暗黒街メロドラマを、完全に日本へと移植してみせた。一九三三年といえば、ナチスによる梵書事件、小林多喜二の拷問虐殺、滝川事件、佐野学と鍋山貞親の転向声明などが次々と惹起した。まさに「非常時」である。世界資本主義のインターナショナルな拡大が頭打ちになるなか、それと随伴するように共産主義インターナショナリズムも抑圧されていく。すると、反作用的にインターナショナリズムに対抗するナショナリズムが回帰してこざるを得ない。小津のモダニズムも、『非常線の女』から、下町の人情共同体を描くいわゆる「喜八もの」である『出来ごごろ』(一九三三年)へと転回を余儀なくされていった。

 

 小津はマルクス主義者ではなかっただろうが、モダニストではあったといえるだろう。世相風俗としてのマルクス主義(運動)は、いやがうえにも視界には入ってきていただろうし、「失業都市東京」(徳永直)という衝撃的な語が踊る『東京の合唱』(一九三一年)や、『生れてはみたけれど』(一九三二年)ほか「サラリーマン恐怖時代」(青野季吉)を主題化した「会社員もの」の作品も数多い。『大学は出たけれど』(一九二九年)というキャッチーなタイトルは、大卒の就職不安をはじめとするインテリゲンチャの行く末への「ぼんやりとした不安」をすくい上げる決まり文句となっていくだろう。

 

 そんななか、一九三六年、二・二六事件の叛乱部隊が帰順した二月二九日の翌日、三月一日に、日本映画協会が発足する。

 

(続く)

 

「二階」と人民戦線――小津、蓮實、志賀 その2

 「二階=上」に昇る「階段」に意味が生じるのは、このように『暗夜行路』において、である。それは、「不義」という性的な問題と明確に結びついている。そして小津は、その「主題」や作品「原理」を含めて、志賀の「二階」や「階段」を「忠実」に反復しているのである。述べてきたように、両者の関係への視線を遠ざけようとした蓮實のテクスト自体が、皮肉にも両者の近さをさし示しているのだ。

 

 例えば、蓮實は、『晩春』以降の後期小津作品の「二階」を、「女たちの聖域」と見なしている。注目すべきは、その「女たち」が、「たえず二十五歳でとどまりつづける未婚の女たち」だということである。

 

そこで娘たちは、いささかも変容することはない。不意に放埓な存在となるわけではないし、人目を避けて卑猥な仕草を演じるわけでもない。この宙に浮んだ空間への移行は、物語の上でいかなる驚きの契機をはらんではいないのだ。だから、聖域ではありながら、男性を排除した結果として女としての性的な側面が誇張されはしないのである。(『監督 小津安二郎』)

 

 『晩春』以降の小津作品が、「娘」の結婚話ばかり撮ってきたことは誰でも知っている。だが、結婚という家族的なイベント自体に小津の興味が向かっているわけではないことは、作中に「式とか披露宴が姿をみせることはまれ」であることからも分かる。まるで娘たちは、「結婚」自体からは切り離されるために、ひたすらその結婚「まで」の過程が描かれるのだ。

 

 そのことと、小津の結婚前の娘たちが、「ほぼ二十五歳でその成長をとめてしま」い、その瞬間から「階段」が不在となった「聖域」としての「二階」が、あたかも「宙に浮んだ空間」のように「地面から離脱」していくこととは互いに関連しているだろう。それ以来、「不在の階段は、階上へと人を導く上昇する通路ではなく、不可視の壁のようなもの」と化すのだ。

 

 いったい、何に対する「壁」なのか。言うまでもなく「性的なもの」に対して、である。小津の「二階=聖域」は、「男性を排除した結果として女としての性的な側面を誇張されはしない」空間でなければならないのだ。

 

 この小津の不在の「階段」と「二階」の「聖域」化が、あの『暗夜行路』の母が「地上」へととどまり続け、一方、娼婦たちは「二階」の座敷へと気軽に「階段」を昇ってくるという、あの「階段」や「二階」と、主題を共有していることは見やすいだろう。小津の「階段」は、露骨なまでに「性的なもの」と結びついており、後期作品において「階段」が不在と化すのは、「二階」の娘たちを「性的なもの」から「壁」のように遠ざけておくためだといってよい。小津が、結婚「まで」の娘たちにしか関心を向けないことも、その表れであろう。「二階」はまさに「聖域」なのだ。

 

 それは、蓮實が「男たちの聖域」と呼んだ「五十五歳にさしかかった父親たちが寄り集まる料理屋の座敷」と対比すれば、より明瞭になるだろう。そこで交わされる、一見たわいのない男たちの会話は、「二階」とは逆に、現在なら確実にセクハラになるだろう「性的なもの」に満ちているからだ。

 

 例えば、『彼岸花』(一九五八年)では、「夫婦間の男女の精力の差が子供の性を決定する」という俗説を、そこにいる一人一人に当てはめながら笑い合う。さらには、料亭の女将(高橋とよ)にも、「子供は何人いるか」「みんな男だろう」などとからかうのだから目も当てられない。また、『秋刀魚の味』(一九六二年)でも、若い女を後妻に迎えた友人が、それゆえに精力を消耗させて死んでしまったのだと、これまた女将の高橋とよにドッキリをしかけるのだ。

 

 こうして、小津作品には、結婚前の娘たちと対比されるように、これら「五十五歳にさしかかった父親たち」が存在しており、「料亭の座敷という男の聖域で流通している記号が、そこにこめられた意味の他愛のなさにもかかわらず、女性の介入を排しているという事実の確認が重要なのだ」(蓮實)。そこは、交わされる話題も含めて女性たちを排除している空間=聖域だが、裏を返せば、その「性的」な言葉が行き交う空間は、決して「家」の内部には持ち込まれてはならないのである。むしろ、「男の聖域=座敷」は、家という日常性から排除されることで「聖域」化されており、主題的には、あの不在の「階段」が可視化された空間ともいえるだろう。いわば「男の聖域」の存在は、ひたすら「性的なもの」から遠ざけられた「二階」の「聖域」化に、「主題」的に加担しているのだ。

 

 その「聖域」としての「二階」が、突如その存在を危うくさせるのが『東京暮色』(一九五七年)である。蓮實が言うように、この「『東京暮色』は、その前作にあたる『早春』とともに、戦後の風俗に染った無軌道な若者の言動に年甲斐もなく関心を寄せた小津の失敗作と見なされている。かつて、植民地勤務で東京を留守にしていた折に妻に逃げられた初老の銀行家の娘が、不良とつきあううちに妊娠し、子供を堕ろしたうえで自殺するという主題は、なるほど戦後の小津にしては例外的だということもできる」。

 

 『東京暮色』が「失敗作」かはさておき、そこに『晩春』以来遠ざけられてきた「性的なもの」が沁み込んできていることは確かだろう(冒頭のショットからして、木村恵吾監督の『浮世風呂』の看板が映し出される)。「植民地勤務」で「留守にしていた」夫が妻に逃げられるという展開も、植民地=戦地にいる間に妻が売春をする『風の中の牝鶏』の夫を容易に想像させるのだ。

 

 一見、「二階」にいる娘(有馬稲子)が、不良とつきあううちに妊娠し、子供を堕ろしたうえに自殺してしまうという今作は、見てきたような小津作品の「二階」という「主題」を大きくぐらつかせるものだ。だが、夫=父の留守中に(親族ならぬ勤務先の)男と逃げた妻=母は、現在は東京に戻ってきており、娘が不良とつきあううちに出入りするようになった「二階」に位置する雀荘を、新しく夫婦となった男(以前一緒に逃げた男とは別の男)と営んでいる。その姿を目にするとき、娘が「性的なもの」に翻弄されていくのは、やはりこの「二階」という「主題」に構造的に呪縛されているからではないかと思えてくるのである。

 

 思うに、娘の悲劇は、不義を犯したゆえに頑なに「地上」にとどまっていたあの『暗夜行路』の母が、もし「二階」へと昇ってきていたらどうなっていたかを物語っているのだ。母が東京に戻ってきていることを知らなかった娘が、階下にいる姉の原節子を「ちょっと話があるの」と呼び、そのことを問いただすのがまた「二階」である。そこで姉は白状するものの、「このことはお父さんの前で絶対に言っては駄目よ」と、むしろそのことを今日まで忘れよう忘れようとしてきた父のことを気遣っているように見える。あの何かと議論のある「壺」の場面をもつ、『晩春』以降の父と娘の愛情関係といえよう(言うまでもなく『晩春』の父も笠智衆)。

 

 だが、妹は「私はお父さんの子ではないんじゃないの?」、「ちっともお父さんと似たところがないんだもの」、「お母さんの汚れた血が混じっているんだもの」と取り乱すばかりだ。その後彼女は、「二階」の雀荘に赴き、そんな性的に淫らな話は「二階=聖域」にふさわしくないとばかりに母を階下へと誘い出したうえで、母にも同じことをぶちまけてしまうだろう。

 

 つまり、『東京暮色』の母(山田五十鈴)は、後期小津作品が築いてきた、「聖域」化されてきた「二階」を、根こそぎ破壊してしまう存在として登場するのである。先に述べたように、この母は、『暗夜行路』の母に反して、性的に堕落しながらも平然と「二階」に位置している存在である。だから姉は、母のいる「二階」の雀荘へと昇ってきて、妹の死は「お母さんのせいです」とたった一言言い放ち去っていくだろう。まるであなたが「二階」にいること(だけ)がすべて悪いのだ、とでもいうように。また、そう告げる姉が、ひたすら小津作品の「二階」の「聖域」化に貢献してきた原節子でなければならなかったのも、今となっては必然といえるだろう。

 

 母の山田五十鈴の小津作品への出演が最初で最後となったのも、それゆえではなかったか。下の娘の死と、上の娘からの糾弾を受けて、母は「わたし、もう東京が嫌になっちゃった」と言って、小津作品のトポスである東京を永久に去っていくのである。もちろん、それは志賀の尾道であってはならない。雀荘を営む夫婦に、かつて過ごしていた植民地(満洲)の寒さを思い起こさせる土地(室蘭)なのだ。

 

(続く)

 

「二階」と人民戦線――小津、蓮實、志賀

 小津安二郎『風の中の牝鶏』(一九四八年)の戦慄的なシーン―—佐野周二が妻の田中絹代を階段から突き落とす――については、以前戦争と従軍慰安婦との関連で述べた。

 

knakajii.hatenablog.com

 今回は、別の側面から見てみたい。

 

 夫の佐野は、自分の復員前に子供の入院費を得ようと、売春宿で身を売った妻の田中を、またそうさせてしまった自らを許せずに階段から突き落とす。このシーンは、『小津安二郎の芸術』(一九七八年)の佐藤忠雄ならずとも、従兄と不義を犯した妻を、走りかけた列車のデッキから突き落とす、志賀直哉『暗夜行路』を想起させてやまない。

 

 志賀直哉に対する小津の「崇拝」「憧憬」(『小津安二郎、人と仕事』一九七二年)は有名だ。特に『風の中の牝鶏』が公開された一九四八年、翌四九年あたりは、熱海に居を移した志賀のもとに、小津はたびたび出入りし、両者の間に親密な往来があった。いや、志賀への憧憬は、文学少年時代以来ずっとあったのだから、田中絹代が階段から突き落とされた時、『暗夜行路』の「直子」を想起することは、決して不自然とはいえない。

 

 にもかかわらず、蓮實重彦は、そうした作家の伝記的事実や人間関係を読もうとする作家論的な視線を、あらかじめテクスト論によって封じておくように、あるいは重要なのは、「文学的」記憶ではなく「映画的」記憶とばかりに次のように言う。

 

おそらく、『風の中の牝鶏』の階段の場面の感動には、それとは別の映画的記憶が働いている。佐藤氏は、この着想を、妻を発車する電車からつき落す志賀直哉の『暗夜行路』に求めており、それは大いにありそうなことである。だが、より直接的には、小津がシンガポールで見た『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リーの階段落下のシーンから来ているはずだ。そして、感動的なのは、太平洋戦争直前に作られた聖林ハリウッドの豪華超大作のイメージが、戦後日本のあまりにも貧しい家庭環境に反映してしまっているという点なのである。(『監督 小津安二郎』一九八三年)

 

 だが、ここで指摘したいのは、にもかかわらず、小津の映画は志賀直哉と執拗なまでに響き合っており、しかもそれはほかならぬ蓮實のテクストにおいて露わになっているということである。それは、蓮實が志賀の『暗夜行路』を、「地上の母/二階の娼婦」の対比から、娼婦たちが昇る「階段」や「二階」の座敷に注目するときに明確になる。

 

すでにみたように引手茶屋で、あるいはどことも知れぬ娼家で謙作が女を待っているのは、きまって二階の座敷だ。そして、気軽に階段を昇ってくる女たちが、屋根を見上げて眼を釣り上げてきた母親をそれと知らずに代行しているのである。ちょうど、冒頭でむなしく拡げられた両手が、そこに充実した隆起をまさぐる時間を待ち続けたように、謙作は、ついに階段を昇ることなく地上にとどまり続けた母の代理を、何人も「下」から「上」へと招きよせずにいられないのだ。(『「私小説」を読む』一九七九年)

 

 この七年後に、蓮實は、今度は小津映画における「階段」や「二階」について論じ始める。『監督 小津安二郎』の「Ⅳ 住むこと」の章である。

 

小津的「作品」の後期の相貌を刻みつける娘たちがほぼ二十五歳でその成長をとめてしまった瞬間から、地面とはたやすく接点を持ちえない階上の空間が、小津的な生活環境を二重化し、その上層部分を宙に浮上させてしまったのである。〔…〕そしてこの二重の空間は、選別と排除の運動によって宙に浮んだ二階の部屋を特権化するにいたる。

 

 もちろん、蓮實のテクスト分析において、「上/下」や「上昇/下降」という対比、対立は珍しくない。だが、それならなおのこと、なぜ小津を、志賀ではなくハリウッドへと近づけようとしたのか。まるで、蓮實は、自身のテクストにおける自らの『暗夜行路』の分析との連なりを否認し、その連想を断ち切るかのように、先の『風と共に去りぬ』の「映画的記憶」の方へと読者を導こうとするのである。

 

 ここで蓮實の意図を詮索したいのではない。注目したいのは、そのように、いくら蓮實が小津を志賀から引き離そうとも、それは随所に現れてしまう、その執拗さの方だ。例えば、『風の中の牝鶏』で『暗夜行路』を連想させるのは、階段のシーンそのものもさることながら、むしろその後の夫の行動であろう。

 

 なぜ、あのとき夫は妻を階段から突き落とした後、「大丈夫か」と声をかけながらも助け上げることをしなかったのか――。妻が足を引きずりながら、自力で階段を這い上がってくるのを、ただひたすら待っている夫の姿は、直前に「大丈夫か」と声をかけているだけに極めて不自然な印象をぬぐえない。さらに、這い上がってきた妻を、「この先どんなことがあっても動じない俺とお前になるんだ」と言って抱きすくめる姿に至っては、噴飯ものの演出と言っても過言ではない。一般に『風の中の牝鶏』が失敗作と見なされてきた理由のひとつでもあろう。

 

 だが、この「不自然さ」こそ、小津にとっては重要だったのではないか。この不自然さは、『暗夜行路』の夫が、不義を犯した妻を列車のデッキから突き落とした後大山に登り、「譫言にたびたび直子(妻)の名を呼ん」で、山腹で妻の到着を待っているという、あの『暗夜行路』のクライマックスを想起しなければ、とても解消できないからである。自力で這い上がってきた妻を、「この先どんなことがあっても動じない俺とお前になるんだ」と抱きすくめた『風の中の牝鶏』の夫は、『暗夜行路』の大山という自然との「動じない」合一による、恍惚感に満ちた陶酔との、差異をはらんだ反復でなくて何なのか。

 

 小津の夫と志賀の夫は、不義の妻に対する「許し」においても類似している。『暗夜行路』の夫は、「今、お前のいったように、寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになってくれさえすれば、何も彼も問題はないんだ」と、もはや問題は妻の側にあるのではなく、「総ては純粋に俺一人の問題」なのだと主張する。同様に、『風の中の牝鶏』の夫も、「どうしてその(曖昧宿の)女は許せて、奥さんのことは許せないんだ」と同僚に問われ、「もう許している」と言う。だが、いざ妻の体を目の前にすると、たちまち「寛大でない」感情が頭をもたげてきて、「何かくすぶっているんだ、いらいらするんだ、脂汗が出てくるんだ、よく寝られないんだ、怒鳴ってやりたくなるんだ!」とぶちまけるのである。しかも、彼らはともに、自分は娼婦に会いに行っているのだから、娼婦そのものを憎んでいるのでもない。まさに「純粋に俺一人の問題」に苦しんでいる男たちなのだ。このように見てくれば、小津を志賀から遠ざけておく方が難しいほどである。

 

 『風の中の牝鶏』の夫が、自力で二階に昇ってくる妻を待つという行為が、『暗夜行路』の夫が大山で妻を待つ行為の反復だったとして、ではそもそも、なぜ後者は、山の上で待っていたのか。それは、同じように、夫の留守中に肉親の男と不義を犯した母が、次々と気軽に「二階」に座敷へと昇ってくる娼婦たちに逆らって、決して「地上」を離れなかったことに関わっている。そもそも、『暗夜行路』の妻自体が、母を反復しているのだ。

 

妻の直子は、階段を登って地上を離れたことで罪を犯した以上、再び地表へと押し戻されねばならない。母親は、屋根まで登っては来なかったではないか。二階の座敷へと通じる階段を登って来たのは、芸者や娼婦ばかりではなかったか。(『「私小説」を読む』)

 

 だが、蓮實が論じるのは、その行為の心理的、倫理的な側面ではない。あくまでテクスト的、構造的な側面である。

 

残る問題は、高みに位置するしかない男に対する女の位置である。序詞に語られている母親は、無事に屋根から降ろすことで謙作を救った。この母親による下降運動こそが、『暗夜行路』の説話論的磁力にほかならない。女性によって地上に引きおろされた謙作は、女性を地上から「上」へと引きあげねばならない。そしてその試みが、二階座敷へと女たちを招きあげる放蕩者謙作によって何度か行われていたことはこれまでみたとおりだ。

 

 夫は「女性を地上から「上」へと引きあげねばならない」。だが、母は、それが不義を犯した者の宿命であるかのように「地上」にとどまり続けたのだから、気軽に昇ってくる娼婦たちは、不義を犯した母の「代理」でしかないのだ。したがって、「母」でも「娼婦」でもない「妻」の直子は、いったん「地上」へと突き落とされ、「地上」の「母」を反復した「うえで」、なお「上」へと引きあげられねばならない。母でも娼婦でもない妻は、だが作品の構造的に、母でも娼婦でもあることを求められているかのようだ。

 

 この、ほとんど作品の構造からくるとしか言いようのない不条理な要請に、妻は、何も聞かされないまま応えなければならないのである。「だが、『暗夜行路』の後篇は、まさに、この何もわからない直子が、何かをわかってしまう瞬間に到達するまでの、残酷にして困難な教育的な歩みなのだ」。蓮實は、その直子のふるまいを、「『暗夜行路』を統御する」作品原理へと「忠実さ」と評するだろう。しかし、「俺の考」と「俺の感情」とが「ピッタリ一つになってくれさえすれば」という、「意識と行動」というべきか、「思想と実生活」というべきか、いずれにしても「総ては純粋に俺一人の問題」でしかない「問題」を解決=合一させるために、何とまあ、妻は作品への「忠実さ」を求められることだろうか。

 

(続く)

 

戦争をふせぐ歴史観――「党」のクビまで引っこ抜かないこと その3

 いずれにせよ、この共産党と純文学の純粋性(を見る視点)は、プロレタリア文学運動の挫折後に、徐々に変質していくほかはない。平野謙が、純文学変質説や、疎外された「負傷者」たちの「人民戦線」史観を模索していくゆえんである。もはや、このとき平野には、「その2」で見た「共産党プロレタリア文学との関係が純文学と私小説との関係にほぼひとしいというアナロジーは、この時期において、アナロジーというよりむしろ同心円的なものとなってくる」。

 

 だが、この「同心円」は、失調したとはいえ、あくまで共産党の純粋性や崇高性が前提のパースペクティヴである。逆にいえば、そもそも党に純粋性や崇高性を見出さない花田のような目には、人民戦線史観などはなからあり得ないのだ。繰り返せば、花田にとっては、どんなに失調しようとも、党は「クビ」まで引っこ抜かれてはならないのである。それは「ブント」などに対しても同様だった。

 

後に吉本隆明がシンパサイザーとなるブントは、穢れた共産党から無垢な学生共産主義者が分裂して作られた「党」だが、花田は党の分裂にはあくまで否定的であった。〔…〕花田にとっては統一戦線はもちろんのこと、「党」も純粋無垢なものではありえないのである。(すが『吉本隆明の時代』二〇〇八年)

 

 では、なぜ党は、純粋で崇高なものとして捉えられてしまうのか。それが、今回のすが論で論じられる福本(和夫)イズム、レーニン「外部注入論」、すなわち青年インテリゲンツィアの「浪漫的極左主義」(猪俣津南雄)の問題である。平野謙から引いておこう。

 

インテリゲンツィアが目的意識的なプロレタリア文学運動に参加することによって、みずからの小市民性を清算するという、いわゆる「階級移行」の問題が現実化したのも、そのせいである。これは『宣言一つ』の作者有島武郎などよく予想できなかった歴史の展開だった。

 そういうプロレタリア文学の先頭にたったのは、小林多喜二にほかならない。社会変革のイデエにつかれ、革命的なプロレタリアートの陣営に移行することによって、みずからの小市民性を変革したいと希ったインテリゲンツィアの文学的典型が小林多喜二だったのである。しかし、その希いのゆえに、小林多喜二はついに虐殺されねばならなかった。(「正宗白鳥の意味するもの」一九六六年)

 

 このプチブルインテリゲンツィアのプロレタリアートへの階級移行、つまりは自らの小市民性の「清算」。福本イズムの原則「分離=結合」とは、「結合する前に、まず「きれいに」分離しなければならない」ということだ。それはまずもって、自らの情緒的な通俗性=ズルズルベッタリな「小市民性」を「きれいに」「清算」することを要請する。この小市民性の「きれいな」「清算」が純粋性、崇高性を生むのである(逆に、自らの「小市民性」は決して「清算」などできないという地点に頑として踏みとどまったのが、「宣言一つ」の有島武郎だった)。また、その自己の「清算=変革」は、その潔癖さによって、「青年」の過激な「浪漫的極左主義」へと直結しもするだろう。

 

 述べてきたように、その究極形態が小林多喜二であった。小林が階級移行の「希いのゆえに」「虐殺」されたことが、インテリゲンツィアがプロレタリア階級へと移行し、「共産党員と文学者との合一への道」(平野『さまざまな青春』)へとひた走る「目的意識」の理想形になっていく。だから、平野(に限らず)などは、「キリスト教コミュニズムもおんなじ」と捉えた。ともに、「殉教」「殉死」が、純粋性、崇高性の理想形になっていくからだ。すがが言うように、花田の「晩年の思想」=「なぜ一気に物々しく年をとってしまうことができないのか」は、何よりも平野(や中野)のような「青年」インテリゲンツィアの純粋性、崇高性に対する批判だった。花田は、小林多喜二を一顧だにしなかった。

 

 こうしてみてくれば、平野におけるキリスト教コミュニズムの同一性と、花田におけるチェスタトンをふまえたカトリック「教会」と党とのアナロジーとの違いがとりわけ重要となる。それは、また保守主義チェスタトンの「教会」と花田の「党」との、微妙だが決定的な差異でもある。

 

ただ、ここで付言しておくべきなのは、「教会」(チャーチ)=「党」(パーティー)という正統概念におけるチェスタトンと花田の差異だろう。後の花田は、一方では「パーティー族」なるものを批判して、自らを武井昭夫とともに「運動族」と規定しているからである(武井との共著『運動族の意見――映画問答』六七年)。繰り返すまでもなく、花田にとって「党」は否定されるべくもない正統として考えられている。それは「社交的」パーティーとしてさえ否定されるべきではない。後にドゥルーズガタリも言ったように、社交はそれ自体として闘争であり運動であるという側面を残してはいるからである。社交を運動性のほうに開いてやることこそが「党」(パーティー)であり、そのことこそが、その正統性を保証する。カトリック教会が「党」と異なるとすれば、それが、その運動性を弱体化させる社交だからであり、「異端」なるものを生じさせる硬直した「正統」に転化するからである。(『吉本隆明の時代』)

 

 この党を、「「異端」なるものを生じさせる硬直した「正統」に転化」させたのが、党に純粋性、崇高性を求めた「モラリスト」たちであった。「その1」で述べたような、二重苦よりも三重苦といった、自らがより多くの疎外を被った「異端」(マイノリティ)であることを競い合う現代の「モラリスト」たちが、「硬直した「正統」から疎外された「異端」として自己を正当化する」モラリスト論争における「モラリスト」の末裔であることは、もはや見やすいだろう。彼らは、そうと知らずに、高見順や「近代文学」派の転向概念や、吉本隆明の「転向論」の延長線上にある。「七〇年七・七=華青闘告発」以降のマイノリティに対する差別を批評的に論じてきたすがにとって、現代のマイノリティたちがモラリスト=異端になり果てた「六八年」の一帰結は、「党」の「クビ」が引っこ抜かれてしまった光景にしか見えないのではないか。そこには、花田の「党」が決定的に不在なのだ。

 

花田の場合、崇高化と異なることはすでに論じたが、その「正統性」を認めていたとは言いうるであろう。(「花田清輝の「党」」)

 

 「崇高化」ではなく「正統性」。崇高化、純粋性は、一つの中心をもつ「円」を求め(常に平野謙は「同心円」の比喩で「党」を語った)、したがって、不可避的に中心=党/周辺=疎外、正統/異端、故郷/喪失…といった「分離」「分裂」の力学を生んでしまう。それは、「党」が汚れれば(「リンチ共産党事件」(一九三三年)などのいわゆる「ドストエフスキー」的問題系)、たちまち分離していく純粋無垢な「異端」を無限に生み出し、またその果てに「共産党」という「故郷」が「喪失」されれば、必ずやその代わりに「天皇制」という「故郷=中心」を招き寄せてしまうだろう。

 

 一方、「正統性」は、「二つの焦点」が存在するゆえに、疎外された「異端(マイノリティ)」そのものが存在しない「楕円」である。だが、花田の「楕円」は、単に「二つの焦点」があるという性質にとどまらない。その「楕円」の捉え方自体が、あまりに「中心」的に過ぎるからだ。そうではなく、楕円の「無数の性格を探求すべき」なのである。

 

すなわち、我々は、或るときには、楕円を点の軌跡とみ、或るときには、円錐と平面との交線と考え、また或るときには、円の正射影としてとらえ、無数の観点に立つことによって、完膚なきまでに、楕円にみいだされる無数の性格を探求すべきであった。惑星の歩く道は楕円だが、檻のなかの猛獣の歩く道も楕円であり、今日、我々の歩く道もまた、楕円であった。(「楕円幻想——ヴィヨン」、『復興期の精神』一九四六年)

 

 これがどこか「曖昧であり、なにか有り得べからざるもののように思われ、しかも、みにくい印象を君にあたえるとすれば、それは君が、いまもなお、円の亡霊に憑かれているためであろう」と花田は言う。すなわち、君が「モラリスト」だからだ、と。言い換えれば、楕円においてとりわけ重要なのは、焦点が二つあること自体ではなく、むしろ次の点にある。

 

焦点こそ二つあるが、楕円は、円とおなじく、一つの中心と、明確な輪郭をもつ堂々たる図形であり、〔…〕ギリシア人は単純な調和を愛したから、円をうつくしいと感じたでもあろうが、矛盾しているにも拘らず調和している、楕円の複雑な調和のほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしい筈ではなかろうか。

 

 楕円が、焦点こそ二つあるものの、「そうでありながら」円と同じく「一つの中心」をもっていること。「二つの焦点」ばかりが注目されるが、花田においては、むしろ「そうでありながら」依然として「一つの中心」を持つことが重要だった。そして、モラリスト全盛の現在においては、楕円が「二つの焦点」をもっているという側面よりも、「そうでありながら」依然として「一つの中心」をもち、したがって「明確な輪郭をもつ堂々たる図形」である楕円像を強調するほうが、はるかに批評的だといえる。言うまでもなく、「党」の「崇高化」でない「正統性」とは、つまり「党」の「クビ」とは、この楕円における「一つの中心」のことにほかならない。

 

中島一夫

 

戦争をふせぐ歴史観――「党」のクビまで引っこ抜かないこと その2

 すがは、戦時下抵抗のルネッサンス論と見なされがちな『復興期の精神』(一九四六年)を、花田自身は「アンチ・ルネッサンス論」と主張していたことに注目する。そして、花田のいう「復興期=ルネッサンス」は、「文学史的には「昭和十年前後」(平野謙)とも呼ばれる「文芸復興期」を(も)指していると見なしうる」と述べるとき、それはすが自身の批評が「アンチ・ルネッサンス」であったことを想起させてやまない。例えば、次のような一節。

 

ヨーロッパ中世を「闇」とし、ルネッサンスを「光」と見なす歴史観や、日本の戦後を「第二の青春」と高唱する文学観は、今やあまり顧みられない。にもかかわらず、そうした観念は今日なお曖昧なまま生き延びている。それは、宮沢俊義丸山真男のいわゆる八月革命説が、その論理的・歴史的誤謬をさんざんに指摘されながらも、その前提なくしては戦後憲法や戦後史の正当性もほとんど語りえないのと似ている。

 

 この一節には、すがの批評が拠って立つ「六八年革命」が、まずもって「八月革命説」を背景とする戦後民主主義に対する批判だったことが含意されていると読める。言い換えれば、戦後の文学は、概ね八月革命説=戦後民主主義に担保された文芸復興期だったともいえよう。そこでは、文芸復興期を規定した横光利一のいう「純粋小説=純文学にして通俗小説」がずっと支配的だったのである。すがが、『探偵のクリティーク』(一九八八年)以降、たびたび横光「純粋小説論」を問題化してきたゆえんである。

 

 今回、すがが明らかにしているのは、そうした文芸復興=ルネッサンス論が、カントの「崇高」に基づく一種の転向であったということだ。その人間復興=人間性の回復は、非転向の絶対的な神のごとき人間離れした者を前にした「崇高」の感情に依っており、この非転向者の非人間性に対する畏怖からの「解放感」が、ルネッサンス=光として表現されたのだ、と。キリスト(非転向者)に対するユダ(転向者)の人間性=やましさこそが、キリストを崇高化する。崇高とは転向者の感情なのだ。花田が、例えば中野重治や中野を敬愛する平野謙らと決定的に異なるのは、「中野や平野に典型的な「転向」という問題系がない」ことである。花田のアンチ・ルネッサンス論は、現実の政治運動に関わったマルクス主義者には殊の外困難だったと思われるが、決して「党」を絶対化、崇高化しなかったということなのだ、と。

 

 注意すべきは、その「党」の崇高化=非人間化が、一方で小林多喜二のような「党」に対する「殉死」に基づいていることだ。人間イエスが代表として死ぬことで、その後復活して非人間=キリストと化したゆえに崇高化したように、「人間であるなら、小林多喜二のように死んでしまうが、党はそれを超えている」のだ。

 

 知られるように、カントの「崇高」は、「主観における人間性の理念に対する尊敬を客観に対する尊敬と取りちがえる」という「詐取」に基づくが、それは「死」を所有したかに見える「主」=非人間を前にした「奴隷」の死への恐怖を、フロイト的な「死の欲動」と「取りちがえる」「詐取」と別のものではない(かつて柄谷行人は、例えば坂口安吾にこの「崇高—死の欲動」を見たが、確かに安吾の、「人間」は「堕落」するものだという「人間」主義(「われわれは人間に戻ってきた」)は、非人間性からの「解放」という文芸復興的=ルネッサンスな戦後文学として捉えられよう)。

 

 そして、「転向」とは、この「詐取=取りちがえ」にほかならない。実際は「党」から「疎外」されている「負傷」者にすぎないにもかかわらず、かえってそれゆえに自らは「革命運動の革命的批判」(中野重治)が可能なポジションにいるという「詐取」である。「外的強制であれ内的要請であれ、はたまたなし崩しであれ、転向が遂行される時、その酔いからの覚醒は「負傷者」の――花田のクリシェを用いればパーソナルな――「自意識」としてあらわれる。これは「絶対的な相」から「疎外」されたことの疚しさであると同時に、自由の意識という「人間性」である。その疎外された自由の意識が、「絶対的な相」への批判を可能にする」(すが)。その心性が「転向小説=私小説」を醸成させもしたし、「むしろ」転向者こそ大衆をつかんでいる、したがって転向者こそ革命的だとする吉本隆明「転向論」的なレトリックに、ある種の説得力をもたせてもきたのである。

 

 そして、ここからは、すが論と離れるが、平野謙のような人間にとっては、小林多喜二の殉死の「崇高性」こそが、純文学の「純粋性」と結びつくことになる。

 

なんといっても小林多喜二の生涯を絶対視したい私どもの世代は、またかつての私小説を絶対視したい視点からのがれがたいのである。いまでも私には小林多喜二の『党生活者』と嘉村磯多の『途上』とは、ほぼ同質のものとして残像している。というより、党に殉じた小林多喜二の生涯と純文学に殉じた嘉村磯多の生涯とをほぼ等価で結びたい気持がつよいのである。この場合における党なり純文学なりの概念は、その純粋性においてひとつのシンボルを形成した。(『文学・昭和十年前後』一九七二年)

 

 平野が、「ともに世俗性をきびしく排除することによって、よく純粋性のシンボルとなり得た」という意味で共産党と純文学を「等価で結」ぶことができたのは、小林多喜二の殉死があったからだ。平野にとっては「純文学」とは、理念的には「プロレタリア文学」を指していたが(拙稿「なし崩しの果て――プチブルインテリゲンチャ平野謙」二〇一七年「子午線vol.5」参照)、その両者のつなぎ目に小林多喜二の死が横たわっているのである。両者は本来、ともに「純粋」で「崇高」でなければならない。もちろん、両者に対して殉死に至るのが最も「純粋」だが、「世俗性をきびしく排除すること」が出来ずに、徐々に通俗性にまみれて「不純」になっていく共産党や純文学にしがみついているよりは、より「純粋」な形態を目指して「転向」する方が、平野にとっては「純粋性」の「シンボル」に忠実な姿勢だった。平野において「転向」とは、不純な共産党に対する「分離=結合」(福本和夫)なのだ(平野にとっての「人民戦線」)。

 

 そして、この「純粋性」をめぐって、中村光夫らと純文学論争をたたかうことにもなる。おそらく、私小説=転向小説を批判し続けた中村と、私小説の純粋性を純文学の理想とした平野との分岐が、やがて「党」の純粋性が崩壊したかに見えたときに、その純粋性という「故郷」の「喪失」に、「天皇制」という別なる純粋で崇高な「故郷」を呼び込んでいった平野と、「天皇制」への批判を持続し得た中村との分岐となっていくのだ。

 

 この共産党の純粋性の崩壊と天皇制の問題は、中野重治の問題でもあろう。例の「村の家」の共産党が、大和=日本の「故郷」のメタファーで語られている問題である。

 

共産党天皇制が類似しているという、この、しばしば言われるアナロジーは、「村の家」に即して見た場合、どのようなことを意味しているのか。それは、そのどちらかに寄り添わない時には「狂気」におちいるという、「村の家」のヘルダーリン的な主題と関係しているだろう。それらは、寄り添う者を狂気から守る硬い核のような「もの」を内包していると見なされているのだ。(すが秀実『1968年』二〇〇六年)

 

 共産党天皇制とが「故郷=同心円」として見なされている時点で、すでに「転向」ではないかと思われるむきもあろう。だが、事はそう単純ではない。それは、第一次大戦後のグローバルなリベラリズムの席巻と無縁ではなく、それに対する「保守革命」の文脈を考えあわせる必要があるからだ。それは近代が内包する「故郷喪失」(ハイデガー)の磁場に逃れがたくある。

 

 冷戦が終焉しようとしまいと、冷戦の米ソの「平和共存」において、すでにソビエト社会主義リベラリズムの一変種となり果てていた。それは第一次大戦後と地続きな、リベラリズムしか勝たん!世界である。現在の「新冷戦」や「権威主義/民主主義」といった愚劣な見立てを退けるためにも、今なお「アフター・リベラリズム」(ウォーラーステイン)という視点が必要だろう。

 

 だが、そうである以上、リベラリズムという世俗化(フォニイ)の包囲に対して、すでに「喪失」されたものとして、崇高に屹立する純粋性=本来性を求めてやまない心性もまた、不可避的である。例えば、江藤淳が、『昭和の文人』で取り上げた平野謙中野重治堀辰雄を通して見たのは、彼らにとどまらないリベラリズムの波に飲み込まれた、日本人の日本人からの「転向」であった(拙稿「江藤淳新右翼」参照)。むろん、大塚英志も言うように、江藤自身が、世俗化(フォニイ)するサブカルチャーの波にのまれながら、「純粋」な「少女」としての「天皇」をフェティシズム的に求めていったのである。

 

(続く)

 

戦争をふせぐ歴史観――「党」のクビまで引っこ抜かないこと

 遅ればせながら、すが秀実花田清輝の「党」」(「群像」2022年3月)を読んだ。

 

 以前、何度か触れたことだが、花田清輝は、現代史を「〔…〕二つの戦争によってきりとらずに、逆にそれらの二つの戦争に終止符をうった二つの革命によって――つまり、ロシア革命と中国革命とによってきりとっ」た(「現代史の時代区分」一九六〇年)。戦争中心の歴史観から革命中止の歴史観へ。眼前の一九六〇年安保反対闘争が「ほとんどナショナリズムの立場からなされているということ」への批判として提示されたこの革命中心の歴史観を、一九六八年革命へと延長させ史論を書き継いでいったのが、すが秀実であることは論を俟たない。

 

 いまや、ロシアや中国に対して、少しでも肯定的に言おうものなら糾弾されかねない状況だが、言うまで もなく、花田のいう革命中心の歴史観と現在のロシアや中国とは何の関係もない。両国(ナショナル)が、どう読み替えようとも、とうに革命(インターナショナル)を本質的に喪失しているのは明らかだ。だが、後で触れるように、ある種の人々は、どうしても両者の区別ができないのである。「だからこそ」、次の花田の言葉は、現在改めて肝に銘じられるべきだろう。

 

むろん、平和主義者のなかには、荒正人のように、戦争も革命も嫌いだといったようなひともいるにちがいないが――しかし、戦争をふせぐための最後の切札が革命であり、その逆もまた真であるということを、くれぐれも忘れないでいただきたいとおもう。(「歌の誕生」一九五七年)

 

 もちろん、すでに革命の概念自体が見失われているいま、とても当時の花田のように「われわれは、第一次大戦後とは反対に、戦争にむかってではなく、革命にむかって、一歩、一歩、あるきつづけているわけである」と容易に信じることはできない。しかしこれまた、「だからこそ」、われわれは花田がスターリン批判を、スターリン個人への批判から切り離したことを想起すべきである。「誰よりもスターリン批判の必要を痛感したのは、スターリン自身」(「歌の誕生」)であり、したがってスターリン批判とは「スターリン自身の遺志による「自己批判」(「偶然の問題」一九五七年)だった、と。

 

 すがが、本稿の末尾で述べるように、スターリンや党を批判して、その「頭から帽子を引き抜いた」のは結構だが、「それを「クビまで引っこ抜いてしまっ」て、どうするのか、と」花田は言った。党の「帽子」は引き抜いたものの、なお残っている「クビ」を、すがは「花田清輝の「党」」と呼んだわけだ。それは先に述べたように、今後ますます加速していくだろう、ロシアと中国の「帽子」を引き抜く批判をあらかじめけん制すると同時に、「クビまで引っこ抜いてしま」わないような「理性を守る」「楯」を要請しているのである。

 

 花田は、中江兆民『一年有半』の「権略、これ決して悪字面にあらず、〔…〕ただ権略これを事にほどこすべし、これを人にほどこすべからず、正邪の別、ただこの一着に存す」に準えて、次のように言った。「「権略」を「事にほどこす」ことと、「人にほどこす」こととの区別がどうしてもわからないのが、わたしのいわゆる「モラリスト」と名づける人種であ」る(「日本における知識人の役割」一九五六年)。

 

 スターリン批判をスターリンという「人」に対する批判とみなし、現在のロシアや中国が駄目ならレーニン毛沢東もすべて駄目というような、一点の汚れも認めない道徳的な「人種」を、花田は「モラリスト」と呼び論争した。いわゆる「モラリスト論争」である。

 

 今や「モラリスト」たちは、ポリコレやキャンセルカルチャーとして増殖し、また例えば芸能人の不倫を裁かずにいられないような「人種」へと通俗化して跋扈している。なお「モラリスト論争」が重要だと思うゆえんだ。ふと見渡せば、今や「モラリスト」ばかりになってしまったのである。

 

数カ月前の『中央公論』で、わたしは、コンミュニストの山辺健太郎が、幸徳の直接行動論をナンセンスだといってせせら笑い、幸徳が、荒畑寒村の妻と恋愛したり、入獄中、離婚した師岡千代子の世話になったりしたというので、革命家の風上におけないほど堕落した人物だといってきめつけているのをみて、やれ、やれ、とおもった。山辺もまた、荒と同様プロテスタンティズムの倫理の信者だかどうだか知らないが、なかなかの道徳家である。

 E・H・カーの『浪漫的亡命者たち』のなかに描かれているゲルツェンやオガリョフのように、まるで義務みたいに友だちの女房と恋愛しなければならないとおもいこんでいる連中もコッケイだが――しかし、山辺のようなコチコチのモラリストもまた、困りものだ。恋愛の自由を肯定したことのないものに、プロレタリアートの自然発生的=本能的欲求が理解できるはずがないのである。(「日本における知識人の役割」)

 

 すがが言うように、「花田がもっとも強く「党」の正統性を主張したのは、スターリン批判がおおやけにされた一九五六年に、荒正人山室静埴谷雄高らとおこなったモラリスト論争においてであった」。にもかかわらず、スターリン批判が、スターリンという「帽子」のみならず、「党」の正統性という「クビ」まで引っこ抜いてしまったので、スターリン批判以降、「権略」を人にほどこしてやまない「モラリスト」=異端者の群れが世界を覆っていったのである。

 

 すると、『花田清輝 砂のペルソナ』(一九八二年)から出発したすがが、おおかたの嘲笑に逆らって、あえて一九六八年革命を「勝利」と主張してみせることで、花田の何をつかみ継承しようとしたのかが、より鮮明になってこよう。一九六八年革命史論を、スターリン批判から説き起こさねばならなかったのも、それによって、むしろ「六八年」を、単に「反スタ」に淵源していると捉えるべきではないと告げようとしたのではなかったか。「六八年」を反スタとしてのみ捉えてしまえば、それは「クビ」まで引っこ抜いた「モラリスト」たちの、「第二」ならぬ「第三」「第四」の「青春」(荒正人)にしかならないからだ。事実、「六八年」論の多くは、終焉した「青春」へのノスタルジーに終始したのである。

 

(続く)