武田泰淳の恥ずかしさ

 

 

 柄谷行人すが秀実が、一九八九年という冷戦終焉の年に、揃って武田泰淳について論じたことは記憶に強く残っている(柄谷行人「歴史と他者」(『終焉をめぐって』)、すが秀実「方法としてのフェティシズム」(『小説的強度』))。むろん、柄谷はそれ以前から何度も泰淳を論じてきたし、すが論はどちらかというと竹内好論というべきだろう。だが、私のような者は、鋭敏な二人がこのとき泰淳について書いたことによって、ようやく冷戦終焉をリアルに感じたのである。

 

武田はいう。《記録と言うとごく簡単に考える人があるが、私は、記録は実におそろしいと思う。記録が大がかりになれば世界の記録になるし、世界の記録をなすものは自然、世界を見なおし考えなおすことになるからである》。

むろん、この言葉は、「主題の積極性」を強調したマルクス主義の文学論に対して向けられている。そして、『司馬遷――史記の世界』も実はマルクス主義歴史認識に向けられていたのである。〔…〕

おそらくマルクス主義の運動のなかで、武田はそのような考えに対する異議を抱いていただろう。マルクス主義からの転向者は、先にもいったようにニヒリズムまたは宗教に向かうか、さもなければ次のような方向に進んだ。それは、ヘーゲルマルクス主義的発展論を変形し、そのようなアジアを解放することを「世界史的使命」として、日本の帝国主義を正当化することであった。これは元マルクス主義者だけが考えだしうる理屈である。武田は、これに異議を唱えるだけでなく、マルクス主義の根底に生き延びているヘーゲル主義を批判しようとしたのである。一言で言えば、彼は『史記』のなかに、ヘーゲル主義的な把握に対立し、且つそれを相対化する視点を読もうとした。それは歴史を空間的に把握することであり、「世界」史から意味・理念・目的を排除し、そこに「中心のない諸関係の体系」を見ることである。(柄谷行人「歴史と他者」)

  

 柄谷は、冷戦の終焉によるマルクス主義の失効を、あくまで「ヘーゲルマルクス主義的発展論」=史的唯物論の終焉とみなし、その後、そうではないマルクス―例えば「交通Verkehr」というマルクス――を見出していくことで、「無限」空間、世界宗教、交換=交通様式から構造的に見る「世界史」へと思索を展開していった。これら無限や世界宗教、交通から構造的に見る世界史などが、すべて武田泰淳と共有された問題意識であったことは言うまでもない。

 

 冷戦が終わって、未来という「時間」が決定的に喪失された世界や歴史は、以降「空間」的なものになっていかざるを得なくなった。グローバル資本主義とはそのひとつの「表現」である。日本のポストモダンは、一方でそれを追認するかのような国際主義と、その裏面の日本回帰として現れた。一方、泰淳は、資本主義世界の勝利どころではない、いわば(全的)「滅亡」を通して「無限」空間を見たのである(「滅亡について」一九四八年)。柄谷が、日本のポストモダニズムは、泰淳に代表される「戦後文学を完全に抹消してしまった」と書いたのもそのためだ。例えば、敗戦時、上海に居合わせ、泰淳と一人の女性を争った戦後文学者・堀田善衛(泰淳が『「愛」のかたち』を書けば、堀田が対抗して『祖国喪失』を書いたのもその争いによる)などの歴史観も極めて空間的である。堀田の『広場の孤独』(一九五一年)の「広場」は、泰淳の見た「無限」空間とパラレルだろう。

 

 泰淳は、主著のひとつ『司馬遷史記の世界』(一九四三年)を、「司馬遷は生き恥さらした男である」と書き始めた。柄谷やすがは、冷戦終焉とともに抹消された「戦後文学」の可能性を、いわば泰淳の「生き恥」に見出したといえる。言い換えれば、それは泰淳=戦後文学の「転向」の問題であった。

 

司馬遷は生き恥さらした男である。士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、この男は生き残った。口惜しい、残念至極、情なや、進退谷まった、と知りながら、おめおめと生きていた。腐刑と言い宮刑と言う、耳にするだにけがらわしい、性格まで変えるとされた刑罰を受けた後、日中夜中身にしみるやるせなさを、噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く「史記」を書いていた。「史記」を書くのは恥ずかしさを消すためではあるが、書くにつれかえって恥ずかしさは増していたと思われる。(武田泰淳司馬遷』)

 

 泰淳が「司馬遷は生き恥さらした男である」と書いたとき、人はそこに、泰淳自身が左翼運動から脱落し、地主階級である寺院に寄生し、さらには愛する中国の侵略に兵士として加担せざるを得なかった自らの「生き恥」を重ね合わせているように読んだ。司馬遷が皇帝から処刑され、死刑か宮刑(去勢)かの選択を迫られて宮刑を選んだことは、まさに死の恐怖に屈して転向するという、典型的な左翼の転向と見なされたのである。

 

 だが、柄谷とすがが批判したのは、むしろ泰淳の「転向」をこのように捉えることだったといえる。

 

くりかえしていうが、武田のいう「恥」は心理的な問題ではない。司馬遷の「恥」について語るとき、彼は「書く」ことの根拠と無根拠を問うていたのである。〔…〕日本の多くの作家にとって、自らの恥を書くことが文学であったが、彼にとって、「恥」は「書く」こと自体にある。何のために書こうと、何を書こうと、「書く」ことは「生き恥をさらす」ことでしかない。いいかえれば、「書く」ことはいかなる意味でも正当化されないのであり、まさにそこにおいてのみ書くことがありうるのである。(「歴史と他者」)

 

 泰淳にとって「生き恥」とは、マルクス主義から仏教に転向したことではない。司馬遷が書くこと自体、生きること自体に恥を感じていたように、泰淳にとっては仏教自体が恥ずかしかった。

 

武士にも遊女にも、精神病患者にも殺人犯人にも「恥ずかしい」という気持は、かならずあるものである。まして僧侶には、人一倍にその気持が濃厚であるはずであるからには、まず「恥ずかしさ」こそ、新生の第一歩と申さねばなるまい。(「私は苦しかった」一九六五年)

 

当時の私は、なにしろ「働カザル者ハ食ウベカラズ」の説を熱愛していたから、労働者でも農民でも商人にでもない自分が、きき目があるのかないのか、死者を極楽・地獄のどちらへ送りとどけられるのか、いっさい不明のまま、白紙に包んだ金銭を受けとり、あまつさえ普通人と同じ色欲をも満喫して、一般家庭よりひろい、樹木も庭も池もある仏閣におさまっているのが、こそばゆかった。恥ずかしかったと言わないのは、平気な顔つきで、私がお寺の坊っちゃま、若先生でありつづけていたからだ。(「わが思索わが風土」一九七一年)

  

 「恥ずかしかったと言わないのは」と言う以上、むろん「恥ずかしかった」のである。だが「恥ずかしい」と言ってしまえば、たちまちそれは自意識的で自己完結的なナルシシズムに陥る。泰淳が司馬遷に見出した「生き恥」とは、歴史を縦に流れる時間的なものと捉えてしまうことで陥る一国(中心)主義的なナルシシズムではなかった。そうではなく、人間や国家が自分一人で生きているのでない以上、どうしようもなく、見回すように無数の他者があたりに充満しているという、空間的な歴史観からくる「恥ずかしさ」だったのだ。

 

 そんな「無限」の空間において、「自分」などと言ったり書いたりしても仕方ない。にもかかわらず、人はあたかもそうした自己完結が可能であるかのように、「自分」の言葉を書かずにいられない。だが、本当に自己完結が可能ならば、どうして他者に向けて書く必要があるのか。「書く」ことは、かくも不可能で不可避な矛盾でしかない。だから「恥ずかしい」のだ。

 

 歴史が時間的なものから空間的なものになれば、自ずと「すべては等価だ」という文化相対主義がはびこるだろう。そして、そのとき何よりも「生き恥」が忘れられよう。だが「生き恥」を忘れて「すべては相対的だ」「だからすべては平等だ」というのは、謙虚を通り越してもはや傲慢でしかない。このとき泰淳の、仏教の、平等主義や相対主義が「恥ずかしさ」とともに要請されるのである。しかし述べてきたように、冷戦後、「戦後文学」は抹消され、「生き恥」は忘れられ、世界は傲慢なまでに謙虚になった。泰淳が「恥ずかしかった」のはこのような事態ではなかったか。

 

 すがが、泰淳の恥ずかしさに見たフェティシズムとは、そのような文化相対主義の傲慢に対する抵抗だったはずである。

 

(続く)

 

保守革命の「時間と自己」

 

 

 亡くなった木村敏は、分裂症親和的な時間を「前夜祭的(アンテ・フェストゥム)」、鬱病親和的な時間を「あとの祭り(ポスト・フェストゥム)」と呼んだ。これらが、ルカーチ『歴史と階級意識』から借用した概念であることは言うまでもない。

 

 ルカーチは、「現在が過去によって支配される」資本主義に規定された保守的な意識を「ポスト・フェストゥム的」と形容した。それに対比させ、フランスの社会学者で精神科医のJ・ガベルは、プロレタリアートの未来希求的なユートピア意識を「アンテ・フェストゥム的」と呼んだ。「プロレタリアートが自由と革命を希求する強烈な未来意識は、新しい時代の到来という祝祭的な気分をすでに先取的に予感している点で、「前夜祭的(アンテ・フェストゥム)」というにふさわしい」(木村敏『時間と自己』)というわけだ。そして、木村はこれに分裂病者の未来先取的な意識構造を、対する「ポスト・フェストゥム」に鬱病者のそれを見出したのである。

 

 だが、アンテ・フェストゥムとポスト・フェストゥムとは対称的でも対立的でもない。木村自身が述べるように、「アンテ・フェストゥムの反対がポスト・フェストゥムだとは言えないのである」。

 

 そのことは、ポスト・フェストゥム/アンテ・フェストゥムが、ルカーチ(あるいはハイデガー)に依拠した概念であることから明らかだろう。すなわち、ポスト・フェストゥムという意識の保守性は、いわゆる「保守革命」(フーゴー・フォン・ホフマンスタール)の時間構造を示しているのではないか。そもそも、リュシアン・ゴルドマン『ルカーチハイデガー』が言うように、ハイデガー存在と時間』がルカーチの『歴史と階級意識』を下敷きにしていることをふまえれば、木村の思考がハイデガー西田幾多郎の影響下にあったことを考えあわせれば、そこからルカーチの参照は必然だったといえる。

 

 ところで、ルカーチハイデガーは、「物象化論=疎外論」という「故郷喪失」のテーマを共有していたが、その故郷喪失=疎外論は、ポスト・フェストゥムにおいては「所有の喪失」として現れる。

 

ポスト・フェストゥム的な過去も、アンテ・フェストゥム的な過去とは似ても似つかぬものである。それは決して過ぎ去って帰らぬものではなく、つねに現在の奥深くに蓄積されている。それは過去というよりは、つねに現在完了としてしか語れないものである。多くの外国語において、現在完了を表すのに、所有の助動詞が用いられるのは、決して偶然ではない。have doneといわれるのは、なされたという形で現在そのことが所有されているからであり、have beenとは、自己がすでにしかじかであったことが現在にまで影響を残しているからである。国語によって、また動詞の種類によって、所有の助動詞のかわりに存在の助動詞が完了型を表すのに用いられることはあっても、事態の本質に差異はない。いままでそうであったことを、いま一種の蓄積として所有しているか、それをいまの自分の状態として存在しているかの見方の差異があるだけである。このことと関連して、鬱病の発病状況がすべて「所有の喪失」としても理解できるのは興味深い。(『時間と自己』)

 

 いわば、ポスト・フェストゥム的な「現在」においては、過去においては所有していた「故郷」が今は喪失されており、しかも喪失されながら「現在の奥深くに蓄積されている」「現在完了」としてある。この「所有の喪失」が、鬱病者に「とりかえしのつかないことをしでかした」「済まないことをした」という未済のまま完了してしまった負債感情=罪責感をもたらすことになる。

 

 だが問題は、この「所有の喪失」が、実際は「喪失」ではないことだ。ポスト・フェストゥムとは、かつて所有したことのないものを「喪失」したという誤認に基づく感情なのである。「メランコリー親和型の人がとりかえしのつかない事態を避けようとするのは、とりかえしのつかない形で自己自身におくれをとるというレマネンツ的なありかたが、彼らの持前の人生設計自身の中にすでに確実にプログラムされているからなのである」(『時間と自己』)。メランコリー=ポスト・フェストゥムにとって、「とりかえしのつかない」状態は、決して想定外ではない。それは、あらかじめ「プログラムされている」ことなのだ。言い換えれば、本当は「故郷」はあらかじめ欠如しているにもかかわらず、それを「喪失」として、とりかえしがつかないという形で「所有」しようとする欲望がメランコリー=ポスト・フェストゥムだといえよう。故郷を回復しようとする「保守革命」が、不可避だが不可能であるように。そして不可避なのに不可能であり、不可能なのに不可避だからこそ、人は鬱病になるのではないか。

 

 初期マルクス的なルカーチ疎外論が実は保守革命的であることは、ソ連崩壊後、いやスターリン批判以降、隠しようもなく露わになった。ポスト・フェストゥムとは、こうして「近代=現代」(モダン)という時間構造を、それなしでは「のりこえ不可能」(サルトル)だったマルクス主義という「歴史の必然」が機能しなくなって以降の「時間と自己」のことであり、つまりわれわれ誰もが免れ得ない「鬱」のことなのだ。『時間と自己』が、そしてポスト・フェストゥムが、ある程度人口に膾炙したゆえんである。

 

 ここにはもうアンテ・フェストゥム的な未知の未来は存在せず、ポスト・フェストゥム的な現在の延長としての未来しかない。中井久夫は、江戸時代の「立て直し」路線に鬱病を、「世直し」路線に分裂病との親和性を見たが(『分裂病と人類』)、現在とは後者なき世界である。「彼ら(注-鬱病者のポスト・フェストゥム的意識)は未知なる未来を見ようとしない。「未知なる未来」という観念すら持ち合わせていないかに見える。彼らにとってあるべき未来とは、これまでのつつがない延長にほかならない〔…〕」(『時間と自己』)。

 

 おそらく、その後木村が「イントラ・フェストゥム」(祭りのさなか)という「第三の狂気」を見出さねばならなかったのもそのためだ。「イントラ・フェストゥム的意識に特徴的な時間構造は、いうまでもなく、現在への密着ないしは永遠の現在の現前である」。ここではこれ以上展開できないが、これは前回のエントリーで述べた、デリダの見た、「狂気」のシンギュラーな「瞬間」とある程度親和的であるように思う(『時間と自己』の最終章には、デリダの名がさかんに引かれている)。いずれにせよ、マルクス主義歴史観が失効して以降を生きるわれわれは、いまだ木村の思考した「時間」と「自己=狂気」の中にある。

 

中島一夫

 

単独性=シンギュラリティは狂気か

 偶然が重なっただけかもしれないが、そのような傾向があるのだろうか。

 先日、躁鬱に苦しむ若い人が、「これも自分のスキル=能力と思うようにしている」と言うのに続けて立ち合った。そのように考えることで、少しでも気持ちが安らぐのであれば、それについてはとやかく言えない。それこそ躁鬱と付き合うなかで身につけたスキルなのだと思う。ただ、聞いていて、フーコーの「狂気とはいったい何であったのか、ひとにはもうよく分かりはしない、という日がやがてくるだろう」という言葉が自然に思い出された。

 

アルトーは、われわれの言語活動の地盤崩壊にではなく、われわれの言語活動の地盤に属することになろうし、諸々の神経症は、われらの社会の逸脱にではなく、われらの社会の構成的諸形態に属するものだ、ということになるだろう。われわれが今日、極限=境界、異様性、耐え難さとして体験しているもののすべては、実定的(ポジテイフ)なものの平穏へと復帰することになるだろう。そして、いま現在、われわれにたいしてこの〈外部〉を指していることがらが、われら自身をある日指すことになるのである。(「狂気、作品の不在」石田英敬訳)

 

 「諸々の神経症」の「耐え難さ」は、もはや「社会の逸脱」や「外部」ではなく、われわれの「平穏」であり「われら自身をある日指すことになる」――。躁鬱が一個のスキルとなるとき、それは外部の「狂気」ではなく、社会の「内部」へと折り返され、われわれはそれを「異様性、耐え難さとして体験している」ものの、もはやそれはネガティヴなものではなく、ポジティヴに捉え返されているといえる。まるで、そのスキルを身につけることで、自らが交換不可能な特異性、単独性(シンギュラリティ)であることを証明できるかのように。

 

 そのありようは、資本が市民社会の再生産を放棄し、そこから引き揚げることで、市民社会の労働力市場が穴=間だらけとなり、そこに落ち込んでしまった個が、今度はひたすら、そうなりたくなければスキルを身につけよ、スキルアップをはかれ、そうしないとシンギュラーな能力=労働力商品になれないぞ、いやもう労働者の側に回ろうと思うな、これからは個々がお互いに間=差異(ディスタンス)をはらんだ資本家(起業家)なのだとせきたてられている――、そうしたわれわれの社会の「平穏」そのものであり、つまりは「われら自身」の姿なのだ。

 

 かつて、デカルトの解釈をめぐって繰り広げられた、フーコーデリダの論争の論点のひとつは、このことをめぐっていたと思われる。すなわち、「人間」同様、「狂気」も終焉し、それは海岸線の砂の顔が消えるように消え去るだろうというフーコーに対して、デリダは、フーコーのいう「終焉」や「海岸線」というリミットが引かれること自体が理性の「内部」でしか起こり得ない、したがってそれは厳密には「終焉」でも「リミット」でも何でもないと批判した(「コギトと狂気の歴史」『エクリチュールと差異』)。デリダは、フーコーのように理性と狂気の分割線の消滅という事態ではなく、その線そのものが引かれる「瞬間」=「誇張的なものの切っ先」に終始こだわろうとした。デリダがその後も、キルケゴールの「決定の瞬間は狂気である」を何度も引用したゆえんである。ここにデリダ決断主義がある。

 

 ところで、この「瞬間=切っ先」は、理性にも非理性にも属さないシンギュラー=特異的な「場」ということではないだろうか。それは例えば、アブラハムが、イサクというシンギュラーな「死を与える」「決断」をするシンギュラーな「瞬間」という「秘密」の「出来事なき出来事」の「場」である(『死を与える』)。

 

 フーコーは、狂気(非言語)を狂気として捉えるメタ理性(メタ言語)がもはや機能せず(いわゆる「父の〈否〉」=「父の名」の排除)、両者を隔てる位階の分割線(海岸線)が消滅しつつあるのを見た。

 

未来のなんらかの文化の目から見れば――その文化はおそらくすでに近くに迫っているのだが――、われわれは、決してじっさいには発音されたことのない以下の二つの文、有名な「私は嘘をついている」と同じほど矛盾していて不可能な二つの文を最も近くまで近づけた人間たちだということになろう。その二つの文とは、「私は書く」と「私は狂う」というものだ。われわれはこうして、「私は気狂いだ」という文を、「私は獣だ」、「私は神だ」、「私は記号だ」に近づけた他の無数の文化や、はたまた、フロイトに至るまでの十九世紀のすべてがそうであったように「私は真理だ」という文に近づけた文化と肩を並べることになろう。(「狂気、作品の不在」)

 

 「私は嘘をついている」という言表が嘘か真実かを決定できないように、「私は書く」と「私は狂う」、「私は真理だ」と「私は気狂いだ」という二つの文は矛盾した不可能な文である。恐ろしいのは、二つの文が互いに矛盾しているから両立不可能だということではない。そうではなく、「私は狂う」「私は気狂いだ」という言表が実際には不可能であり(「決してじっさいには発音されたことのない」)、にもかかわらず、現にわれわれは平然とそれらの文を書き読み発音してしまっていることで、「私は書く」「私は真理だ」という文の「最も近くまで近づけ」てしまい、あたかも不可能性が回収されてしまっているということなのだ。フーコーの「終焉」や「リミット」とは、その漸近と回収ぶりを指している。それは、われわれの「平穏」に狂気が漸近し、不可能性がポジティヴに捉え返されている、あのありようと同じである。デリダは、それに対して、いや狂気は決して回収しきれないシンギュラーな「瞬間」としてある、と反論したのだろう。

 

 むろん事態は表裏一体だ。そもそも、「父の名」が排除されなければ、複数のシンギュラリティの出る幕はなく、それらは見出されようもないからだ。どう特異的で単独的なのかを言語で語ることは不可能だからこそ単独性=シンギュラリティなのである。「スキル」とは、こうした事態をポジティヴに捉え返そうとする「技術」だろう。

 

 だが、フーコーデリダの「海岸線」に即してもう一度それを捉え返せば、「私はスキルだ」はそもそも不可能ではなかったか。われわれは、「私はスキルだ」と「私は狂う」が限りなく接近した場所にいる。そこは、シンギュラリティに「なる」というポジティヴな誘惑の声が、不断に聞こえてくる場所である。

 

中島一夫

 

革命の狂気を生き延びる道を教えよ その4

 大西巨人は、「俗情との結託」(一九五二年)で、今日出海の『三木清に於ける人間の研究』と野間宏『真空地帯』における性の描かれ方に、「俗情との結託」を見出した。

 

まして人間が、ある条件の下で性慾処理・青楼行きの問題に直面して、そこに深刻な社会的・道徳的――一夫一婦制の、純潔の、売淫の存在その他についての――問題を発見したり悩んだりすることは、今日出海らの目には野暮の骨頂、お話しにならぬ滑稽、非人間的な事柄と映じるのであろう。〔…〕それは、この作品が(現代まだ労農市民・国民大衆〔特にその遅れた層〕の中に広汎に存在する)封建的・後退的要素すなわち俗情と結託することによって書かれ、それと結託することによって読まれた、という事実を指示するとともに、現在また今日出海帝国主義反動の狡猾極まるイデオローグとして俗情との結託・俗情の保守のために積極的に努力した、という事実を証拠立てる。〔…〕

 

しかしその曽田は「彼自身あそびに行かないわけではなかったが」ということ、すなわち彼自身の買春と社会主義反戦思想との関係については少しの疑問も感じる様子がないのである。のみならず、このことは、ひとしく作者もなんら疑問としないところであるらしい。この曽田は、時子と言わば「肉体主義的」な性関係を行ない、その行為の途中で彼女に「半ば兵隊に奉仕する感じ」などという相手を慰安婦扱いにした見方を抱き、それを「兵隊である限りは、こうなのである」と真空地帯のせいに解消してしまうのである。〔…〕ここにもマニラの青楼にたいする今日出海の場合とおなじ俗情との結託が認められねばなるまい。

  

 この時、大西は、明らかに一夫一婦制に反する性欲処理や買春行為を、あたかもそれが軍隊を含めた封建制の不合理性が支配する空間=真空地帯を「うちこわす」(野間宏)行為であるかのように描くことを「俗情との結託」として批判している。すなわち、「俗情」とは、一夫一婦制の外へと安易に踏む外すことを意味していた。

 

 さらにいえば、「彼自身の買春と社会主義反戦思想との関係については少しの疑問も感じる様子がない」と言うのだから、このとき大西は、一夫一婦制への永久革命こそが、社会主義の道だと考えていたはずである。大西からみれば、野間らの性的放縦など反革命以外ではなく、それが封建制の残滓の清算につながることなどあり得なかった。

 

 むろん、共産党員だったのだから当然だが、このとき大西は、講座派史観に基づく二段階革命論を信じていたということだろう。その一段階目においては、封建制の残滓を打破し、日本民主主義人民共和国を樹立する民主主義革命が目指されねばならない。大西においても、まずもって、一夫一婦制=平等の浸透が追求されなければならなかったゆえんである。

 

 そのように、講座派マルクス主義は、その「半封建」の残滓としての天皇制打破を、革命の第一段階において考えていたはずだが、当の戦後天皇制は、戦後憲法とともにいち早く民主主義と結託し、したがって王殺しは行われたこととした。戦後憲法の曖昧さは、結局すべて王殺しがうやむやになっていることに集約される。さらに、戦後天皇制は、皇太子と正田美智子の外婚制に基づく結婚(一九五九年)によって、むしろ一夫一婦制=民主主義の模範(象徴)となることへとアダプテーションした。マスメディアに即応した大衆社会の欲望の鏡像となる「大衆天皇制」(松下圭一)の成立である。ほぼ並行して、スターリン批判(一九五六年)以降、社会主義共産主義の信頼は低下の一途をたどっていた。

 

 このような歴史的文脈において、改めて大西の大江批判(一九五九年)を捉え直してみるとどうか。大西のいう一夫一婦制という永久革命が、社会主義の道を照らし出すことのリアリティは失われつつあったのではないか。大西の大江批判が拠って立つ一夫一婦制=民主主義は、戦後の大衆天皇制に簒奪されようとしていた。

 

 繰り返せば、大西においては、まだ二段階革命論の有効性が信じられていた。だが、すがの大江論が述べるように、父=法の不在(衰弱ではない!)において、「「父の名」の排除」のごとき狂気を生きる大江においては、いわば革命=王殺しはすでに訪れているのである(すがの読みでは、敗戦を前に死んだ父が王殺しの担い手であった、と)。姦通や近親相姦などを繰り返しながら、しかしそれに「否」という法が欠如しているがゆえに、ほとんど罪の意識を持たない「性的人間」たちは、一段階も二段階もなく、「今この現在が革命の時だ」と叫んでいたのではなかったか。その1で見たように、すがの大江論では、これがブント内「革通派」――新たな前衛党を提起する黒田寛一や、当面は小ブルジョワの運動でやっていくしかないという吉本隆明の方向ではない――が、「今ここにおける「革命の現実性」」をパラノイアックに強弁していたのと重なるわけだ(この革通派の流れと、まさに「マッドサイエンティスト」のような岩田弘の世界資本主義論が合流して、68年を準備することになる、と)。

 

 話を戻せば、大西は、『われらの時代』の同性愛を、「反自然的・反倫理的」と批判した。だが、大江は、まさに「反自然的・反倫理的」だからこそ、同性愛(のみならず数々の性的倒錯)を繰り返し描いたのである。

 

 大西は、「姦通がなぜ悪いか、というようなことを言ったり、そのとおりに実行したりする人間にたいしては、それが男子ならその妻にも、それが婦人ならその夫にも、姦通を実行させてみよ。もしそれでも当人が平気でいるようなら、その人間を精神病院に強制収容せよ」と挑発した(「批評家諸先生の隠微な劣等感」一九五九年)。大江が『性的人間』や『万延元年』などで、まさに姦通される夫を次々に描いていったのは、ひょっとしたら大西へのレスポンスだったのではないか(正気(正常者)をそれだけで敵視し、自ら「精神病院に収容」されるべく、病に苦しみながらも狂気に踏みとどまろうとした、吉田おさみのラジカルな狂気のように、というのは言い過ぎだろうか)。

 

J、きみは性倒錯だ、蜜子ちゃんに聞いたところでは、きみが自分の妻を性的に男色の相手の少年の代用みたいにあつかっているのはあきらかだ。はっきりいえば性倒錯の男が妻をもっているときには、他の男がその妻と肉体関係をもつべきなんだ、それは他の男の義務だ」(「性的人間」一九六三年)

 

 すがが言うように、大江の狂気は、「民主主義社会に潜在する「原父殺し」の反復であり、現実世界へと誘なったはずの父親による去勢の拒否」である。大江は、「政治少年死す」の「南原征四郎」同様、「「王殺し」以降の民主主義体制を称揚しているが、同時に、否と言う「父の名」=法が回帰していることに、倒錯的に抵抗している」のだ。

 

 王殺し以降の民主主義体制は「称揚」されなければならないが、同時に、その結果「父の名」=法が回帰してくることに対しては「倒錯的に抵抗し」なければならない――。それが大江を、「戦後世代の代表者(チャンピオン)」という戦後民主主義オピニオンリーダーのような側面とともに、それに抵抗する側面とに分裂しているように見えさせる理由である(いわゆる「懐」かしい人・大江と、「壊」す人・大江)。

 

 つまり、民主主義とは、平和で平等どころか、本来は!「王殺し」の狂気に反復的に見舞われる社会にほかならない。にもかかわらず、それが平和で平等のようにみなされているのは、原父が独占していた享楽が、その死後、共同体内に分配されていると信じられているからだ。

 

 だが、この享楽の平等な分配=一夫一婦制-民主主義とは、原父殺し後の「空席」を塞ぐように導入された「否=法」、すなわち外婚制-近親相姦の禁止が、あらかじめ書き込まれた「規範」にほかならない。平和で平等なのは、ここにおいては全員が禁止を受け入れているからである。分配以上の過剰な享楽が禁じられているから「平和」なのであり、それを全員一致で受け入れているから「平等」なのである(だから、大きすぎる享楽の不平等に対しては、その所有者はカリスマ(原父!)のごとき崇められる一方で、わずかな不平等に対してはきわめて嫉妬深い)。

 

 重要なのは、ラカンジジェクも言うように、この「禁止」がイデオロギーだということだ。つまり、「否=法」の導入とは、「主体が欲望の充足に内在的な不可能性を禁止に変換することによって欲望に構造的な行き詰まりを回避するような仕方に他ならないのである」(スラヴォイ・ジジェク『為すところを知らざればなり』)。まるで、「欲望が好き勝手にすることを妨げる禁止がなかったら欲望は満たすことが可能であるかのよう」に。

 

 民主主義の主体には、分配以上の欲望を満たす能力など、あらかじめ喪失されている。にもかかわらず、その自らの不能を隠蔽するために「禁止」という「否=法」を甘んじて受け入れているわけだ。ラ・ボエシのいう「自発的隷従」であり、それに反して「欲望を諦めるな」(ラカン)といわれるゆえんだ。また、大江の「性的人間」たちが、男根が「勃起しない、爆発しない」不能の者として、隠蔽されるどころか繰り返し描き続けられなければならないのも、「禁止」のイデオロギー性を暴くためだろう。

 

 欲望は不可能なのに、それは禁止されているので致し方ない、われわれは民主主義的な主体なのだから、その禁止を甘んじて受け入れよう――。そうすることで、「欲望の行き詰まり」(ジジェク)を回避しようとするのが、一夫一婦制をインフラとする天皇制―民主主義である。大西『神聖喜劇』に準えれば、天皇制―民主主義は、王殺しなど「知りません」を禁止(否=法)され、また「忘れました」を強要されているうちに、いつしか王殺しを不問に付すことを当たり前のように受容している社会にほかならない。忘れたことを忘れてしまったのだ(すがは別稿で、この状態を「認知症=転向」と捉え、大西がこれを恐れていた作家だったと論じていた(「大西巨人の「転向」」二〇一七年))。それに対して、大江は、「亡き父を狂人と見なし、それに唆されて自らをその無理な(理のない)狂気を反復する者とする」(すが)、すなわち王殺しを教わらずして教わりました(狂気をもって使嗾された)とすることで、王殺しなど「知りません」禁止にも「忘れました」強要にも抵抗しているのである。それだけが、天皇制―民主主義が、決して平和で平等なのではなく、ただ欲望に行き詰っているだけであることを知る、か細い「道」であるというように。

 

鷹四は戦後天皇制民主主義の体制に行き詰まっているのであり、それを「狂気」によってのりこえようとしたと言える。それが、今ここにおける「革命の現実性」である。大江健三郎が、『万延元年のフットボール』以降も、その「狂気」の「生き延びる道」に賭けていたことは、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』のみならず、それ以降の諸作品を見ても明らかではないか。(すが秀実「小説家・大江健三郎」)

 

 この大江の狂気を、PCで裁くことは不可能だろう(排除はいくらでもできる)。PCは、いかにそれが過激に見えようとも、あくまで天皇制―民主主義のもとでの平等=分配の追求にすぎないからだ。そしてそれは、「なんじの欲望を諦めよ」と、革命など「忘れました」にしか帰結しない。

 

中島一夫

 

革命の狂気を生き延びる道を教えよ その3

 大江健三郎の狂気が生き延びる道、それは天皇制―民主主義のインフラたる一夫一婦制に回収されまいとするところに賭けられている――。

 

 そのように考えれば、大西巨人による、あの激烈な『われらの時代』批判も、また違った角度から見えてこよう(「大江健三郎先生作『われらの時代』の問題」一九五九年十一月「新日本文学」)。

 

 大西は、『われらの時代』における性的な記述や描写をおびただしく列挙した後、「ここにあるのは、そのほとんどすべてが知ったかぶりであり、あるいは嘘であり、比喩・修辞として徹頭徹尾観念的に上っ調子の下作であ」るという。そして、そのような『われらの時代』の嘘、観念的、類型的な記述を「新感覚派」と一蹴した。

 

J・ジョイスが『ユリシーズ』の中で一人の男の顎鬚を陰毛に比(たぐ)えるかして、かつてそういう事柄が、「新感覚派文学」に一定の、主として皮相な刺戟を与えた。それは、その派の隊長横光利一において、「新感覚派」時代以後の『紋章』あたりにも尾を引いた。そこで、たとえば自動車のモーターの起動を男根の勃起に擬えて妄想する作中人物が、横光によって作り出された。なにも性的な比喩の採用においてだけではなく、その文体または修辞一般において、この大江先生は、「新感覚派」の、なかんずくその不毛浅薄な側面の糟粕を無遠慮に嘗めている。(大西巨人「「大江健三郎先生作『われらの時代』の問題」)

 

 要は、大西は大江を、新感覚派=転向イデオロギーの末裔とみなしたわけである。それは、「民学同」八木沢の描き方についてもいえる。八木沢は「到底語の真実の意味におけるコミュニストではあり得ない」、「それは、この先生の知ったかぶりの嘘と、そこから来る必ずしも意識的ならざるデマゴギーを物語る」と。だから八木沢=政治的人間と対照的に描かれる「性的人間」の靖男も、たかだか「心情のアナーキスト」にすぎず、それを意味ありげに描く大江は「心情のファシスト」である、と。当時の状況や両者の置かれたポジションから考えれば、大西の批判は正しいが、今回、すがの大江論を通して考えると、性的な位相の問題が違った側面から見えてくる。

 

 大西は、『われらの時代』批判を書いた翌月の時評(一九五九年十二月「新日本文学」)で、こう記している。

 

『われらの時代』批評の中で、私は、「この作中で男根が隆隆と奮い立つのは、ただ鶏姦という破廉恥な機会においてだけである。」、〔…〕これを端的に要約すれば、私は、同性愛を反自然的・反倫理的な行為と断定したのである。だが、一般に、同性愛にたいする非難を「偏見」、「因襲的なモラル」、「野蛮な無知な迷信の産物」として排斥する主張が、近代的な精神分析学者や社会批評家やによって、しばしば繰り返されてきている。そこで一定の見識を持つ読者が、私の批評に「偏見」、「因襲的なモラル」、「野蛮な無知な迷信」の類を見出したような気になり、私の上に精神の異常を推定してみる、というような事態も、発生し得るのであろう。(「同性愛および「批評文学」の問題」)

 

 大西は『われらの時代』は同性愛的な性愛を描いているから駄目だと批判していると、したがってそれが同性愛差別と受け取られたというわけである。もちろん、これは大西としては不本意だった。まずもって、大西は、『われらの時代』の性的な記述の「嘘」を批判したかったのである。だが、以前にも書いたように、大西にとって重要なのは「現実上の嘘と真実」と「小説上の嘘と真実」との明確な位相の区別なのであり(以下を参照)、

 

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 『われらの時代』に対しても、あくまで問題は、「具体的作品批評」の位相にあった。

 

もしもいま私が、同性愛は必ずしも全的には反自然的・反倫理的でないと仮定したにしても、『われらの時代』批評の中で私が同性愛を反自然的・反倫理的と断定したことは、具体的作品批評として全面的に正しいのである。前にも私が書いたように、『われらの時代』という仮構された小世界の内部においては、本来完全に自然的・倫理的であり得るべき異性間の性交が、すべて現実の否定的暗黒面に属し、仮定の上でも完全には自然的・倫理的であり得べからざる同性間のそれが、すべて現実の言わば肯定的光明面に属する。その仮構小世界の内部においては、同性愛と異性愛との同権よりも、むしろ前者の尊重と後者の貶下とが、客観的に支持されている。そこに、同性愛は自然的・倫理的であり、それに反して異性愛は反自然的・反倫理的である、という道徳的・社会的価値判断が提出されていると見られる。しかもその提出は、既存価値の転換・新しい価値の建設の試みとしてではなく、全然無理由に、無目的に、放埓に、怠慢に行なわれているにすぎない。現実世界と仮構小世界との間のこういう無理由的・無目的的な断絶および価値逆転、後者(仮構小世界)に存在する同性愛偏重および異性愛排斥、そこに顕現する反現実的、逆比例的な均衡喪失は、作品すなわち仮構小世界にたいする具体的批評としての「同性愛は反自然的・反倫理的である」という判断を――同性愛は必ずしも全的には反自然的・反倫理的でない、という(仮定の)前提の存在もかかわらず、――決定的に正当化するのである。

 

 すなわち、大西にとって、『われらの時代』の問題は以下の二点に集約される。

  • 作品=仮構小世界の内部において、「同性愛=自然的、倫理的」、「異性愛=反自然的、反倫理的」という道徳的、社会的価値判断が提出されている。
  • だが、上の価値判断が、現実世界に対する価値逆転であるにもかかわらず、それが無理由に、無目的に、放埓に、怠慢に行われている。

 

 したがって、大西が『われらの時代』という個別の作品に対する批評において、「同性愛は反自然的、反倫理的である」と批判したのは、何もPCの問題ではない。「『われらの時代』に同性愛が書かれていることそれ自体を非難するのではなく、かえってそれが至極不正当、不十分にしか」書かれていないから批判したのだ、と。「現実上の嘘と真実」というレベルでは、大西自身は、「同性愛は必ずしも全的には反自然的、反倫理的でない」と考えているというのである。

 

 これは、一見詭弁に見えるが、フィクション=仮構小世界の条件を不断に問い続ける大西においては一貫している。大西においては、常に「語り手=ファクト・テラー」と「作者=フィクション・メーカー」とは本質的に区別されねばならないのだ。→

 

 だが、今考えたいのは別のことだ。果たして、『われらの時代』の同性愛の提出は、大西の言うように、「既存価値の転換、新しい価値の建設の試みとしてではなく、全然無理由に、無目的に、放埓に、怠慢に」行われたものだったのだろうか。

 

 大西の大江批判の核心を、もう一度見てみよう。

 例えば、『われらの時代』の「上質のフラノのズボンを、ジミーは、血の匂いと叫喚のたちこめる朝鮮で軍服のズボンをずりおとしていどみかかってきたときのように荒あらしく脱いだのだ。そしてかれら(高とジミーと)の二つの男根は、怪物的な選ばれた男根として盤石の重みに耐え、……」という箇所について、大西はこう述べる。

 

こうして、この小説に登場する男根は、見当違いの、反自然的・反倫理的な対象にむかってのみ、その情熱を不健康にも発動する。男根のエネルギーの放出方向は、大江先生の手によって、本来の、正当な対象すなわち女陰から異例の、不正当な対象すなわち同性の直腸へと一気に逸らされる。ちょうど『人間の羊』において、アメリカ兵の暴力にこそ向かうべき一日本人学生の憤怒と憎悪とが、「進歩的教員」の戯画のつもりらしい一日本人同胞へと逸らされているように。またちょうど『不意の啞』において、アメリカ占領軍にたいしてこそ最大に集注されるべき日本村民の憤怒と憎悪とが、虎の威を借る下っ端の一日本人通訳へと逸らされているように。(「大江健三郎先生作『われらの時代』の問題」)

 

 読まれるとおり、大西の「同性愛は反自然的、反倫理的」という大江批判は、具体的には作中人物らの「男根のエネルギーの放出方向」が「本来の、正当な対象すなわち女陰から異例の、不正当な対象すなわち同性の直腸へと一気に逸らされる」ことに対する異議申し立てなのだ。大西にとって、男根が同性の直腸へと向かうことは、「見当違いの反自然的、反倫理的な対象にむかって」いることであり、あくまで女陰こそが「正当な対象」でなければならない。だからこそ、同性愛は「全然無理由に、無目的に」描かれてはならないことになる。

 

 これが何を意味するのかは、大江批判のみならず「新日本文学」誌上の時評全体を見渡してみるとよくわかる。別の回の時評では、例えば次のように論じられている。

 

もし男子は「一穴主義」を、婦人は「一根主義」を、相互の精神的ならびに肉体的満足において実行することができたなら、天下は太平であろう。先に私は、男女同権の正常な樹立の前途はなお遼遠、と言ったが、同時にそれは、「一穴一根主義」すなわち一夫一婦制の正当な確立の道は遥けし、ということである。われわれは、もうかなり長い時期に亙って一夫一婦制の基本の上に生きている。〔…〕この未完成の一夫一婦制、その正当な確立の要請(postulate)を前提として、初めて有婦の男子、有夫の婦人の第三者との異性関係は、倫理的否定語「姦通」をもって呼ばれ得るのであり、また呼ばれねばならぬのである。(「批評家諸先生の隠微な劣等感」一九五九年)

 

 要は、大西においては、「一夫一婦制=一穴一根主義」こそが自然的、倫理的なのである。したがって、それを「一夫一婦制を基調とする凡俗な家庭道徳」(平野謙)や「ブルジョア道徳」呼ばわりすることを、ことのほか嫌った。そうした連中の「性的放埓」や「畜生なみの性的「自由」」こそ「ブルジョア道徳」にすぎない。それは、資本主義的な「放埓」や「自由」を享楽しているだけだからである。

 

 こうしてみてくれば、大西の「同性愛は反自然的、反倫理的である」という大江批判の出所が、この「男女同権の正常な樹立」の前提たる一夫一婦制=一穴一根主義の「正当な確立の道は遥けし」であることは明らかだろう。未完成の一夫一婦制は永久革命なのであり、したがってこれに反する『われらの時代』は反革命でなければならない。言い換えれば、すなわち大西は、『われらの時代』の同性愛の提出を、いわゆる「俗情との結託」として批判したわけだ。そもそも、大西を一躍有名にした「俗情との結託」(一九五二年)は、一夫一婦制に関わる議論であった。

 

(続く)

 

革命の狂気を生き延びる道を教えよ その2

 その大江の狂気は、PCをこえたものとして見出される。

 

それがどのような意味で逸脱であり狂気であるかと言えば、今日のブルジョア道徳であるポリティカル・コレクトネスの水準に照らして大江作品を読んでみれば、明らかである。いちいち例をあげるまでもなく、人種差別や動物虐待(差別)、女性差別学歴差別、同性愛差別、階級差別、姦通、男根中心主義等々の表現を、そこに見いだすことは、今日ではたやすい。しかし問題は、大江が差別主義者だったと糾弾することでも、あるいは、それを――小説作品内においても――ヒューマニズム戦後民主主義!)によって克服したと主張することでもないだろう。そうではなく、差別主義や男根中心主義であるかのごとく表現されてしまう「狂気」だからこそ、大江は問題的な作家なのである。(すが秀実「小説家・大江健三郎」)

 

 『われらの時代』以降、大江が「男根中心主義」の「性的人間」を次々と描いていったことは言うまでもない。「性的人間」とは、「「勃起しない、爆発しない」男根が、政治的な意味でも恥辱であり停滞であることを含意」している(以降、特に言及のない「  」は、すが論による)。

 

 『われらの時代』の靖男は、その「停滞」が、天皇という「いかにも消耗や衰弱の象徴」をいただいている、この国の戦後天皇制に起因していると考える。一方には、コミュニストの純潔を保とうとする「民学同」(社学同(ブント)に改組される反戦学同がモデルといわれる)のコミュニスト八木沢がいる。八木沢は、戦後天皇制ではなく、第三世界の英雄ナセルを本来性として見出す「政治的人間」なのである。この靖男=戦後天皇制=性的人間が、八木沢=コミュニズム(党)=政治的人間と二項対立をなすとともに、両者の間のいかんともしがたいズレや断絶が、大江作品を駆動させてきた。

 

 すがも言うように、党のリンチに対する懐疑を共有するという意味において、初期の大江は、「正しく戦後派文学(「近代文学」派)の後継者の枠内にあ」り、ゆえに荒正人平野謙も大江を高く評価していた(平野にとって、党のリンチや粛清がいかに大きかったかということについては、以下の記事を参照)

 

 

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 だが、おそらく大江は、平野の「政治と文学」という文学史観においては、「文学」の側が、「政治」に対する劣等感に永遠に支配されるほかないことを看取し、そこに「性的人間」というファクターを導入することで、「政治と文学」からの突破をはかったのである。

 

 それは、どのような突破だったのか。前回述べたように、それが「性的人間」によって可能になる天皇制批判だったということだろう。「政治と文学」の「政治」とは共産党を意味するので、リンチや粛清とともに政治=共産党から離反して「文学」の側につくことは、共産党=講座派史観が可能にした天皇制批判も、同時に手放すことになるのだ。これまた前回述べたように、それはまた新左翼が陥った問題でもあった。

 

大江の独自性は、まず、疎外論と労農派のアマルガムである新左翼的なもの(「民学同」→ブント)と磁場を共有しながら、そこに天皇制批判を可能にする「性的人間」というファクターを導入したところにある。

 

 それは具体的には、『万延元年』の鷹四が、天皇制を不問に付したブントではなく、それを保持し得た講座派史観=共産党系の活動家として描かれたところに見出される。すなわち鷹四は、『われらの時代』のラストで分離を余儀なくされた政治的人間(八木沢)と性的人間(靖男)とが、同一人格のもとに連帯した人物として設定されているのだ。「政治的人間と性的人間」の対照とは、大江が、自らの出発を規定していた「政治と文学」という対立を乗り越えるとともに、かといって政治=党と言って済ませるわけにはいかなくなった時代(=スターリン批判以降の「われらの時代」)に導入されたパースペクティヴであるということが、この『万延元年』において明確になるのである。

 

 では、なぜ天皇制批判は、「性的人間」によって可能になるのか。それは、戦後の天皇制―民主主義とは、端的に「性的」なものだからであろう。民主主義の平等を担保するインフラたる一夫一婦制という「性的」(ヘテロセクシャル)な規範は、戦後天皇制(戦後憲法下における天皇家)という模範的な家族によって体現されている。そして、一夫一婦制=民主主義とは、共同体内で女を独占していた「原父」を全員一致で殺すことで、近親相姦のタブーという法が導入され、それと引き換えにもたらされた共同体内(兄弟間)の平等と平和にほかならない、と。

 

 民主主義の平等とは、原父が独占していた性的享楽の分配によってもたらされる。戦後天皇制が王制ではなく民主制ならば、どこかの時点で王殺しが起こったはずだ。むろん、フレイザー金枝篇』――フロイト「トーテムとタブー」が論じる王(=原父)殺しの問題である。

 

 おそらく、これをほら話=フィクションとして退けるか否かで、大江の「性的人間」が作家の目論見として見えてくるか、あるいは単なる狂気にしか見えないかが分かれるのだろう。だが、すがが論じるように、戦後憲法=八月革命の成立自体にフロイトーケルゼンの「フィクション」が作動しているとしたらどうか。好むと好まないにかかわらず、われわれは、この歴史貫通的なフィクションを免れないことになる。このフィクションを「ごっこ」として終わらせようと苦闘したのが江藤淳だった。

 

 大江も、「セブンティーン」二部作などでこだわる、皇太子と正田美智子の結婚(一九五九年)は、「外婚制-近親相姦の禁止」の完成だった。すがの言う「戦後における法=「父の名」」である。なおかつ、民間の女性との結婚によって、戦後天皇制は「大衆天皇制」(松下圭一)へと、大衆社会化にアダプテーション=適者生存していった。現在、大衆天皇制の補完装置となっている芸能界(推し、燃ゆ!)における不倫へのバッシングも、天皇制―民主主義のバックボーンたる一夫一婦制を乱す者らに対する、平等共同体からの監視と処罰である。

 

 もちろん、『上級国民』(二〇一九年)の橘玲が言うように、先進国の「上級国民」は、財力にまかせて結婚と離婚を繰り返す「事実上の一夫多妻」である。今後、そうした「上級国民」と、一夫一婦制からはみ出す「下級国民=非モテ」との格差はますます拡大するだろう。そして、「性愛から排除され、女性から抑圧されていると考えている」非モテは、したがってフェミニズムと敵対し、ミソジニーを層として形成していくだろう。彼らを放置しておけば、アメリカの「インセル」のようにテロリズムを誘発しないとも限らない。したがって、今度はそれにアダプトしようと、大衆天皇制は、女性天皇女系天皇をも容認し拡張をはかることで、「下級国民」の受け皿=鏡像となるべく延命をはかっていくのではないか(女系天皇制が男女平等の顔をしながらネオリベ天皇制になっていく可能性については、すがの別稿「下流文学論序説」『天皇制の隠語』を参照)。

 

 だがその時も、いやその時はなおさら一層、一夫一婦制という「性的」な規範は維持されなければならないのである。繰り返せば、それこそが民主主義の男女平等のインフラだからだ。「インセル」が、一夫多妻につながりかねない自由恋愛を否定し、「道徳」的に一夫一婦制を強く求めるゆえんである。民主主義は、かくも性的なルサンチマンに覆われている。

 

 このように見てくれば、姦通、レイプ、近親相姦、肛門性交、痴漢、自慰、アルコール中毒、スカトロジー等々、すがの言う「「父の名」の排除」(ラカン)を思わせる狂気をもって、何度も回帰するように性的な倒錯が描かれる大江作品が、一夫一婦制の大衆天皇制において容認されないだろうことは容易に想像がつく。おそらく、大衆天皇制は、もう大江を読めないのではないか。もはやそれは、PCに支配された「教室」では忌避されるほかはない。そこでは、逆立ちしても「政治的人間」にはなり得ない谷崎の美的な性やフェティシズムはいくらでも受容されるものの、ともすると「政治的人間」に転化するかもしれぬ大江の「性的人間」は無理なのである。

 

 大江は、『われらの時代』の時点で、すでにそのこと――性的な次元で揺さぶりをかけられることが、大衆天皇制にとって最も嫌なこと――に自覚的だった。有名な一節だが引用しておこう。

 

ぼくはこの小説を書きはじめるまえまで、いわば牧歌的な少年たちの作家だった。ところがぼくはこの小説から、反・牧歌的な現実生活の作家になることを望んだのだった。また、ぼくはぼく自身のもっとも主要な方法として、性的なるものを採用することに、この小説をつうじて、はっきり決定したのだった。(『われらの時代』文庫版あとがき)

 

 そして、大江は、性を美的に表現する作家たちを「老人文学」と批判し、自らの方法を「その逆方向にむかって」いるとして、次のように主張する。

 

A ぼく自身は、性的なるものを表現するにあたって、直接的、具体的な性用語を頻発する、むしろ濫用するくらいだ。ぼくは性的なるものを暗示するかわりにそれを暴露し、読者に性的なものへの反撥心を喚起しようとさえする。

B ぼく自身にとって性的なるものは、外にむかってひらき、外の段階へ発展する、ひとつの突破口であって、それはそれ自体としては美的価値をもつ《存在》ではない。別の《存在》へいたるためのパイプとしての《反・存在》として小説の要素となっているものであって、ぼくはぼく自身の目的へ到るためにそれをつうじて出発する。

 

ぼくは読者を荒あらしく刺激し、憤らせ、眼ざめさせ、揺さぶりたてたいのである。そしてこの平穏な日常生活のなかで生きる人間の奥底の異常へとみちびきたいと思う。〔…〕そして、現実生活の二十世紀後半タイプの平穏なうわずみをかきたて、なめらかな表層をうちくずすために、性的なるものがもっとも有効な攪拌機あるいはドリルだと信じるからである。

 

 「性的人間」を描き続けることで、一夫一婦制=天皇制―民主主義という「平穏な日常生活のなかで生きる」「読者に性的なものへの反撥心を喚起しよう」とすること。「性的なるものがもっとも有効な撹拌機あるいはドリルだと信じる」こと。

 

 大江の狂気に満ちた「性的人間」とは、「別の《存在》へといたる」革命のための「パイプ」だった。「性的人間」に対する「反撥心」が、その不快や不穏や危険に耐えきれずPC的に排除されるとき、われわれは、平等で平和な天皇制―民主主義に、より一層包摂されるだろう。

 

(続く)

 

革命の狂気を生き延びる道を教えよ

 今さらだが、すが秀実「小説家・大江健三郎 その天皇制と戦後民主主義」(「群像」2020年3月)は、この批評家の68年論を考えるうえで不可欠な論考になろう。だが、そこから何かを学ぼうとする者は、いつにもまして突き放される。ここで、すがは、「今ここにおける革命の現実性」の可能性を、ほとんど大江の「狂気」が「生き延びる道」にしか見出すことができないと言ってしまっているからだ。果たして、狂気を学ぶことなど可能なのか――。

 

 時折、妙に足早になるこの論は、ひょっとしたら別に完全版があるのではないかと想像されるが、それも含めて、その内容をいまだとても咀嚼できたとはいえない。ここに雑然と書きつけられるのは、ほんのごく一部についてのノートにすぎない。

 

すが「自分自身のことを省みても、オレだって高校時代は吉本主義者で、〝何が学生運動だ、フン!〟とか思ってたんですよ。革マル主義者にはならなかったけどさ。ところが大学に入ってみると、吉本主義者だったはずの自分も、学生運動をやっちゃうわけだ。〔…〕その時に何が糧になったかと云えば、黒田というか埴谷雄高ではなく……クロカンと埴谷雄高は同じだからね。埴谷ではなくやっぱり大江健三郎なんです。大江健三郎の小説を読んでた。キチガイじゃないですか、大江健三郎も。小説を読めば、不倫は平気でやるわ……大江の小説って要は〝反民主主義〟なんですよ。大江健三郎を読んでたおかげで、オレは〝68年〟に乗れたんだと思う。」(外山恒一との対談「人民の敵」45号、2018)

 

 民主主義を問うことは誰にでもできる。だが、今や天皇制を、いや王殺しを問うことは「狂気」にしかできない。だが、この国は、王がいるのに民主主義を強弁し続ける。なるほど、天皇は王ではないといわれる。では、いつどのようにして王殺しは行われたのか。民主主義が強弁されるなか、このことは不問に付され続け、いまや狂気をもってしかアクセスできない。もう、このようなテーマで小説が書かれることもない。

 

 フーコーが狂気の終焉を宣告してからというもの、狂気を持続することほど困難なこともない(「狂気とはいったい何であったのか、ひとにはもうよく分かりはしない、という日がやがてくるだろう」(「狂気、作品の不在」一九六四年))。狂気は後景に退いてしまい、ポテンツを下げつつ薄く広く浸透し、今や「人はみな妄想する」(ラカン松本卓也)と言われる。王殺しの狂気は不可能になったのと引き換えに、王と民主主義とが矛盾なく両立する――これもまた資本主義が可能にした「できちゃった結婚」(シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』)か――ことを受容できる「妄想」が広く共有されたということだろう。

 

 これまでもすがは、たびたび天皇制と王殺しを口にしてきたが、左翼知識人からは、実は天皇好きなのではないかと揶揄もされてきた。だが、この批評家が、いったい何にこだわってきたのかが、近年明らかになりつつある(『天皇制の隠語』(二〇一四年)あたりから前景化してきた)。それは、講座派マルクス主義から労農派へと転回した新左翼が、それゆえその世界(革命)性と引き換えに、天皇制を不問に付してきたことにほかならない。そして、天皇制が「半封建的な遺制」とは言えなくなった(リアリティを失った)時代に、なお王殺しを問い続けるために、このたび大江の「生き延びる」狂気が要請されたのである。

 

しかし、大江のめざましさは、天皇制を不問に付す時代の到来のなかで、逆に、「王殺し」という「志」を持続してきたところにある。たとえ、それが最終的に挫折しようとしまいと、持続は二〇〇〇年代の『水死』まで続く。

 

鷹四は戦後天皇制民主主義の体制に行き詰まっているのであり、それを「狂気」によってのりこえようとしたと言える。それが、今ここにおける「革命の現実性」(注-ブント内「革命の通達派」による)である。

 

 『革命的な、あまりに革命的な』(二〇〇三年)の段階では、大江の革命性は、相対的に『万延元年』の「鷹四」よりも「蜜三郎」に見出されていた。それは、『われらの時代』(一九五九年)の系譜が示す「神経症的/パラノイア的磁場」から「外」(ブランショフーコー)へと「逃走」する、その言説の「無責任=いいかげんさ」においてしかない、と。鷹四は「本当の事を言おうか」と言って死ぬが、蜜三郎にいたっては「何が「本当の事」やら知らぬ」のであり、蜜三郎の向かうアフリカは、もはや『われらの時代』のアルジェリアのような第三世界でも本来性でもない、と。そして、この大江の「無責任」に拮抗し得るのは、大江作品の「数」のテマティックを「荒唐無稽」な「数の祝祭」として肯定してみせた蓮實重彦の『大江健三郎論』(一九八〇年)の「無責任」さをおいてない、と。

 

 だが、今回、明らかに重心は移動している。ドゥルーズガタリの「n-1」をふまえたとおぼしきその「数の祝祭」の肯定は、「いささかオプティミスティックだったのではないだろうか」と批判されるのだ。「本稿は、そういう言い方をすれば、大江において「-1」の作業が難渋をきわめているところに、むしろ論点を置いている」と。

 

 蓮實の論じる、大江の「無責任」な「祝祭」とは次のようなものだった。

 

そのときはじめて、空位として残された定員一の正統的な後継者あらそいとは無縁のありとあらゆる細部が、《全体》の再現に不可欠な部分としてではなく、全体をも再現をも嘲笑する無責任な断片として、同じ一つの方位などを確信する律義さなど笑いとばす勢いで、「作品」という名の世界の表層に向けていっせいにせりあがってくる。そこでは、すべてが周縁的な少数者である。そして、全体に奉仕することのない断片たちは、荒唐無稽に設置される等号でとりあえずの関係を結ぶが、そこにみられる等号の無限連鎖は、中心など見たことも聞いたこともないといったようにひたすら偏心化する。〔…〕祝祭はすでにはじまっている。急がねばならない。(『大江健三郎論』)

 

 「空位として残された定員一の正統的な後継者あらそい」とは、王殺しの後の「空位」をめぐる「あらそい」を容易に想起させる。だが、大江の「数の祝祭」においては、その「あらそい」は「全体」も「再現」も目指されず、したがってそこは「中心など見たことも聞いたこともない」ような「すべてが周縁的な少数者である」世界である。少数者=マイノリティたちが、中心なき周縁において、おしなべて匿名の数=記号として無限に連なっている空間――。

 

 むろん、蓮實は、この王殺し後の共和制的といってもいい「祝祭」に対しても、「荒唐無稽、荒唐無稽」と半ば戯れてみせる。だが、一方、今回すがは、その「荒唐無稽」な「無責任」に対して、「いささかオプティミスティックだった」と懐疑するのだ。おそらくそれは、華青闘告発以降の世界ともいえる、このマイノリティたちが連鎖する「数の祝祭」が、PCという資本主義の「数の祝祭」?に簒奪=再領土化されてしまった帰結を目の当たりにしたからではなかったか。もはや、n-1の「数の祝祭」が批評的に機能し得なくなったということだろう。それは、自らの68年についても再考を促されたということでもある。「すべてが周縁的な少数者である」「数の祝祭」とは、新左翼天皇制からの「逃走」の帰結でもあるからだ。

 

 なぜ、「数の祝祭」は無効化したのか。おそらく、「数の祝祭」として見出される共和制の空間が、ジジェク的に言って、王殺し「抜き」のそれにほかならないからだろう。すがは、そのことを、端的に「天皇は単に「1」とは言えない」のだと言う。それは「「n」個である国民の「1」ではないのだから、「-1」を敢行しえない」、天皇は「万」世「一」系の「1」という「数」のテマティックとして戯れることはできない、と。

 

 これは、江藤淳天皇を「プラスワン」と捉えたことともかかわってくる問題である(拙稿「江藤淳の共和制プラスワン」(「子午線」6、二〇一八年)参照)。繰り返せば、近年のすがには、この「無責任」が、天皇制を不問に付してきた新左翼の「オプティミスティック」な「無責任」として見えてきたということだろう。むろん、それに対しては、「無責任の体系」の丸山眞男のように、単純に「責任」というだけでは済まない。その(市民の)責任とは、すでに王殺しが起こったことにする無責任と同じものだからだ。そのような責任=主体=主権が容易ではないからこそ、今回、生き延びる「狂気」が主題化されたのである。

 

(続く)