リップヴァンウィンクルの花嫁(岩井俊二)

 さまざまなところに、「3・11以降」が刻印されている。
 主人公の「七海」(黒木華)は、宮澤賢治の故郷、岩手の花巻出身(SNSのアカウントも、「クラムボン」に「カムパネルラ」)で、現在は東京の高校で派遣の非常勤講師をしている。

 監督はインタビューに言う。「市民レベルで見れば、一回は「きずな」とか言ってみんなでまとまってみたりはしたものの、その後は権力のある人たちが適当にやっている姿や長いものに巻かれていく様を見て、多くの人たちが残念な気持ちになっている」。

 七海の友人?「真白」(Cocco)のセリフで言いかえれば、「この世界は本当は幸せだらけ」、「優しい人たちだらけ」、「私にはその幸せが耐えられない。だからお金を払う。お金ってそのためにあると思うの」。これは、震災以後の「絆」の鼓舞に対する違和感だろう。本作はまずもって、直接的で感情的な共同性に対して、何とか間接的で媒介的な関係性を肯定していこうとする物語だと言えよう。

 七海は二度「結婚」(かぎかっこの理由も映画で見てほしい)する。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。だが、一見そう見えるものの、最初の結婚が「嘘」に満ちた失敗で、二度目が「真実」に満たされた成功というわけではない。この作品には、嘘、詐欺、ヤラセ、偽装、虚業、…などが次から次へと出てくるが(ほとんどそれらによって作品が構成されていると言ってよい)、かといってもう一方に「真実」があるわけではない。いや、この世界には、「嘘/真実」という見やすい境界や二項対立などもはや存在しないというのが、三時間にわたって展開される本作の「世界」なのだ。

 貨幣やネットによって、あらゆる関係=コミュニケーションは媒介され、かつてあった真実の関係性が毀損されているなどと言っても始まらない。むしろ、安易にそう捉えてしまうことで、時に人は、極端に真実=本来性へと振れてしまうのではないか。あくまで本作は、「故郷喪失」を前提にしようとするのである(一度目の結婚に失敗した七海は、夫の母(原日出子)にタクシーで故郷・岩手に追い戻されそうになるが、東京に踏みとどまる)。

 一見、純粋で世間知らずであるゆえに、何事にも受動的な七海が、綾野剛演じる、人たらしで詐欺師の「安室行桝」(「アムロ行きまーす」)に翻弄されまくる物語に見える。だが、七海の純粋性に騙されてはならない。ラストの七海と安室の握手(パートナーとして大きな「仕事」を終えた後のような)や、タンスに無造作に置かれた報酬、あるいはエンドロールの「ねこかんむり」(狐の嫁入り?)は、明らかに七海の「演技」性を告げていよう。

 安室のクライアントで、末期がんに侵されていた真白は、最後に「一緒に死んでくれる」真実の友を求めていた。七海と真白の「結婚」は、そのための契約=儀式だ。真白は安室に、まさに莫大な金を払って(AV出演はそのためだろう)、七海という永遠=死の友を手に入れた。

 だが、その「依頼」に逆らって、七海は生き残ってしまう。これは、それまで七海をコントロールし続けてきた安室にとって、唯一の誤算だっただろう(このとき、初めて安室は「驚き」の表情を見せる)。

 だから、この後安室は、真白の母(りりぃ)との「宴」で、それまでの虚飾をかなぐり捨てるように素っ裸にならなければならなかったのだ。一方、七海は、安室に裸になるよう促されるものの、せいぜい肩をはだけさせる程度で、あくまで半身は演技性を保とうとするのである。

 転々と移り住んできた七海が、最後に(?)たどり着いたアパートの部屋は、何と風通しが良さそうなことか。この風通しの良さこそ、本作が求めてきたものであり、本来性=裸に回帰することのない関係性そのものを表しているのではないだろうか。

中島一夫