最愛の子(ピーター・チャン)

 深圳の下町の一角でインターネットカフェ(といっても駄菓子屋のような佇まい)を営んでいるティエン。家の電気の接触が悪いので、もつれにもつれて錯綜した送電線の束から、我が家につながる一本を探し出そうとするが、なかなか見つからない。挙句、別の家の電線を引っ張ってしまい、文句を言われてしまう。

 深圳は、急激に発展し都市化したものの、その矛盾が寄せ集まる下町はまったく雑然としたままだ。もちろん、無数の電線から、我が家につながった一本を探し出そうとするこの冒頭は、やがて無数の子供から、自分と血のつながったわが子を探し出す旅に出ることになるティエンの今後を、示唆していよう。

 妻のジュアンは、より裕福な男と再婚し家を出て行ったが、週に一度、息子のポンポンに会いに来る。もともとティアンとジュアンも、豊かさを求めて深圳にやってきた。だが、皮肉にも、豊かになったことで、結婚生活にすきま風が吹き、親としても隙が出来てしまった。そこに児童誘拐の手が伸びたのだ。

 一人っ子政策(1979年〜)は、農村の深刻な人手不足を生んだ。女の子はやがて嫁いでしまうが、男の子は嫁をもらい、さらに子を産めば、そのぶん労働力が増えていく。よって、一万元(約18万円)で男の子が買われているという(中国では、年間20万人もの子供が行方不明になっているという)。買えない農家は、捨て子を拾ってくるか、自ら児童誘拐に手を染めるしかない。ポンポンをさらってきた、本作のホンチン夫婦のように。

 ティエンとジュアンが、ついに安徽省の農村でポンポンを見つけ出し、かついで強奪しようとしたときに、村は総出で彼らを必死に追いかけ取り押さえようとする。カメラは、この奪還劇の一部始終を追っていく。この長いシークエンスは、ティエンとジュアンのみならず、「育ての母」であるホンチンらにとっても、ポンポンを奪われるのがいかに痛手かを物語っていよう。

 それまで観客は、子を盗まれ悲嘆に暮れるティエンとジュアン、そして同じ境遇でお互いに励ましあう家族会の集団に同情を誘われてきたが、このあたりを境に、誘拐したホンチンらにも切実な事情があったことを知る。実際、作品後半は、一転してホンチン視点で事態が語られていく。

 現在の春節における故郷への大移動を眺めるにつけても、農村は都市の労働力の供給源であり、産業予備軍がプールされる場所である。一人っ子政策は、農村における過剰人口を、資本主義の発展に伴う農村解体を先取りするように、政策的(人工的)に枯渇させることとなった。都市からの児童誘拐は、構造的にその反動で起こっていることであり、農村から都市への労働力流入に対するバックラッシュなのだ。

 ホンチン視点で語られる後半の展開については追わないが、その視線は、概ねホンチンに同情的である。その最たるは、ポンポンが「母さん」と呼ぶのが、この育ての親のホンチンの方だということだろう。もちろん、その理由は、直接的にはポンポンの幼さなのだが、本作はそれだけでなく、親密な「親子」関係(本作の原題は「dearest」)が、インターネットや錯綜する電線に象徴される浮遊する都市ブルジョアジーではなく、「農村=共同体」の生活が基盤となって培われていくものだと語っているように見えた。

 育ての母ホンチンが、子供を取り返したティエンに、「この子は桃アレルギーだから、食べさせないで」と懇願するシーン。その情報は、かつてティエンが、誘拐した親に向けてメディアを通じて懇願した、わが子を思う切実なメッセージと同じだった。ティエンとすれば、父でありながら「父さん」と呼ばれず、今となってはまるで自分の方が「誘拐犯」となってしまった自らに、その言葉がブーメランとして返ってきたような悲痛さだったろう。

 ホンチンは、死んだ夫(誘拐した張本人)から、その情報を聞いたのかもしれないし、子育ての過程で、実際ポンポンにアレルギーが生じたのかもしれない。いずれにしても、今ホンチンは、心から「息子」を思ってその言葉を口にしている。ティエンにすれば、聞いていて二重に悲痛な言葉だったに違いない。この「親子」関係を、単なる農村の「労働力」として見ること自体が、都市の論理でしかないのだ。

中島一夫