断食芸人(足立正生)

 パレスチナ革命に身を投じたこの監督の新作が、カフカの『断食芸人』を題材にしたものだと知って、やはり、と思った。私もまた、昨年の国会前のハンスト行動を見たとき、『断食芸人』を思い出していた。

 修行や健康のためではなく、芸=表現としての断食。
 何も食べないだけではない。同時に、何も言わないという点が重要である。それはあらゆる意味で「等価交換=コミュニケーション」を拒絶する行為なのだ。

 資本制においては、「食べる」ことは、単なる空腹を満たす行為を超えて、労働力再生産の意味を帯びる。「働かざる者、食うべからず」というイデオロギーが生じるゆえんである。ここでは「食べる」とは、労働力商品=aと、その再生産に必要な生活の資=bとの等価交換の成立を意味する。

 本来交換されるはずのない異質なaとbとが、等価であると見なされ交換される。この資本制の根本にある等価交換システムは、「食べる」という行為を媒介とする、労働力の商品化によって成立する。
 
 労働力の商品化は、元来「無理」(宇野弘藏)であるにもかかわらず、「働く=食べる」という等式によって「合理」と見なされていく。労働力商品化の「無理」は、食べる行為によって乗り越えられるわけだ。そして、いったん成立した等価交換システムは、まさに食物を内臓に飲み込むように、やがて社会全体に浸透していくだろう。

 言葉もそのシステムで駆動する。言葉が、交換=コミュニケーションの「ため」のものとなる。「コミュニケーションせざる者、言葉を使うべからず」というように。もし、誰も見ていない(交換されない)ならば、SNSでつぶやく者などいない。孤独な「つぶやき」もすでにコミュニケーションなのだ。むしろ、真の意味での「つぶやき」は無意味であり、あるいは怖がられ、気味悪がられて排除されるだろう。

 そして、本作の主人公の「断食」は、いわばこの真の意味におけるつぶやきである。監督はインタビューに言う。「3・11以後って「本当に言葉を発することができるか?」っていう悩みを、みんな持ってると思うんだけど、言葉を発しない、発することもできない「民の恨みのまなざし」をテーマにしたいというのがあったんだよ」。「この「恨めしさ」の中身を映画にしたいと思ったね」。

 小気味よくリズミカルな掛け合い=等価交換によって盛りあがるデモは、この「怨嗟」を軽やかに押し流し解毒する(ことによって拡大を目指す)。一方で、現在、怒りや復讐を表現しようとして、ドゥルーズが創造について言ったように、いったんコミュニケーションを切断する必要に直面する者が存在するのだ。

 映画では、30日を超えると、人は断食に関心を抱かなくなり、差し入れ(芸の対価=等価交換)もしなくなる。

 だが、むしろ真の断食はここからだ。その意味を、真に受けとることができたのは、最後まで「断食芸人」を見つめ続け、お互いの傷を舐め合う、あの若い男女だけだろう。今、傷を舐め合う以上の「恨めしさ」のやり取りが存在するだろうか。そのシーンが見られただけで十分だ。

中島一夫