FAKE(森達也)

 タイトルが「FAKE」、しかも『ドキュメンタリーは嘘をつく』というTV番組を制作している人物の作品に、何が嘘で何が真実かと問うてもあまり意味がないだろう。

 この作品は、いったん見てしまえば、我々の知っている佐村河内守氏の「物語」をすべて覆すだろうが、かといって彼の真実が明らかになるわけではない。本作の後で、なお「作曲とは何か」、「聴こえないとはどういうことか」をめぐっては、さまざまに議論のあるところだろう。15年ぶりの新作というこの監督は、いわば佐村河内守についての新たな「物語」を提示したのである。間違いなく、これによって、旧来の「物語」は更新されるだろう。

 いわゆる、佐村河内騒動は、きわめて物語的なものだった(『週刊読書人』2014年4月4日号「論潮」の拙稿参照)。佐村河内氏と新垣隆氏の「共作」(と一応言っておく)においては、まさに佐村河内氏が楽曲と作家性の両面にわたる「物語」を、新垣氏が「技術」面を担当した。本作で佐村河内氏は、新垣氏の第一印象を「優秀な技術屋さん」と述べてもいる。そして、今作は、これまでの認識を覆すように、シンセサイザーという技術があることで、果たして本当に代替可能なのはどちらなのかと問うているわけだ。

 むろん、それ以前に、作曲は「物語」などではないという見方もあり得よう。だが、19世紀の「神の死」以降の音楽は、感動という物語によって(神の代わりに)人々を救済するとなったのであり、そもそも「作曲家」という概念自体、ロマン派的な産物ではなかったか。

 だから、本作は、それがFAKEであるか否かではなく、そうであろうとなかろうと、それを「信じる」か否かを問おうする作品だといえる。その意味において、本作は、やはりそれがFAKEであろうとなかろうと、グルを「信じる」か否かを問おうとした、前作『A』や『A2』の遠い残響が聴き取れるだろう。この監督にとって、佐村河内騒動とは、オウム事件の強度の低い反復に見えたのかもしれない。

 例えば、年末バラエティ番組のオファーに、フジテレビのスタッフ四人がやってくるシーンはどうか。佐村河内氏は、「騒動時のように、また自分がいじられて笑い者にされるのでは」と、どうしてもスタッフを信じ切ることができずに、結局出演を断ることになる。そして実際に放映された番組は、彼の代わりに何と新垣氏が出演し、しかもいじられまくるのである。何とも言えない表情でそれを眺める氏を、監督は「テレビの連中は信念というものがないから。出演者を使って、その場が面白くなればいいんです」となだめるのだ。

 だが、このとき監督は、テレビと違って映画は信じられると言っているのではないだろう。そうではなく、映画とは「信じあう」関係を作り上げること自体だ、と。監督は、佐村河内氏に、「もう自分に隠していることはない?」などと、まるで夫婦か恋人のように尋ねる。また、氏に、本作の「伝説」のラスト12分に関わる、とある決断を促すために、「映画の完成まで禁煙する」と宣言するのだ(その後の目を丸くする猫のシーンを挿入したのは、監督の照れ隠しか)。

 だが、「信じる」ということについて言えば、佐村河内氏の妻「かおり」さんをおいてほかにいない。新垣氏の存在もまったく知らされていなかったと言う夫人は、常に氏の傍らに居続ける。そして、どんなに氏に不都合だと思われる質問が飛んでも、顔色ひとつ変えずに淡々と手話通訳を続けるのだ。そういった彼女の姿を見ているうちに、最初は「彼女も共犯なのでは」という疑いの目で訝しく見ていた観客も、徐々にその何とも言えない不可思議な存在にひかれていくのである。

 「自分を信じているか」という監督の問いに、彼女はこれまた淡々と「ええ、同じ船に乗っているから」と応じる。彼女は、佐村河内氏を教祖のように崇め信じているわけではないだろう。ただ単に彼が好きで「同じ船に乗っている」のだ。もし「共犯か?」と聞かれれば、当たり前のように頷くのではないかとすら思う。

 監督は「今分かったけど、僕は二人のことが撮りたかったのだと思う」と言う。その言葉とともに、「FAKE」というタイトルは完全に宙に浮くことになる。「ともにいる」ことは、FAKEか否かとは別の位相にあるからだ。もちろん、ここには「ともにいる」ことの真実が映っているなどと言うべきでもない。通じ合っているのかどうかは分からないが、ただ単に「ともにいる」こと。猫のごとく。

中島一夫