もうひとつの世界(ジュゼッペ・ピッチョーニ)

 「もうひとつの世界」といっても、可能世界の話ではない。

 「カテリーナ」は、終身誓願を控えた見習い修道女。ある日ミラノの公園を歩いていると、ジョギング中の男に、捨て子の赤ん坊を押し付けられてしまう。結婚も子育てもあり得ない「修道院=もうひとつの世界」に入ろうと心を決めていた彼女に、また別なる「もうひとつの世界」が突きつけられる。赤ん坊がくるまれていたセーターのタグを手掛かりに、カテリーナは母親を探し出そうと、まずはクリーニング屋へと向かうことに。

 このクリーニング屋という場所の使い方がうまい。そこには、毎日さまざまな人々の、さまざまな服が預けられ、なかには、多種多様な職業の制服もある。クリーニング屋にかかっている服の数だけ、人々の人生と生活がある。いわば、そこは、あり得たかもしれない他なる人生の交差点なのだ。この作品においても、登場人物たちを結びつける蝶番のような場所としてある。

 すると、クリーニングのタグとは、他でもあり得たかもしれない人生を、他ならぬ「この」人生に留めつけるもののように見えてこよう。当初、カテリーナは、タグに示された「この」子の人生に、捨て子を戻そうとする。だが、クリーニング屋の店主「エルネスト」とともに、母親だと思われる「テレーザ」を探し始めるところから気持ちが揺らぎ始める。

 そもそも生まれたての赤ん坊は、親の顔を覚えているはずもなく、彼から見れば、親とは、事後的に「この」人が親だと一方的に告げられてしまうにすぎない。すなわち、生まれたての赤ん坊の目に見えるのは、まさに作品がピンボケ映像で表現したような、まだ親の顔もそれと認識できない茫洋とした世界である。

 その曖昧模糊とした世界から、「もうひとつの世界」(象徴界?)に参入してくることで、「この」親を認識し、タグを付けられた「この」人生を開始するのだ。

 カテリーナが、魔がさしたように病院から連れ去ろうとしてしまうのは、単に赤ん坊に情が移ったからではない。「この」世界に参入する前の赤ん坊にとって、親は自分でもいいのではないか。逆にいえば、自分が、「この」子の親になってどうしていけないのかと思い始めたのだ。

 一方エルネストも、一度だけテレーザと関係を持った自分こそが父親だと思い込む。職場の女従業員たちの名前を覚えないほど、周囲に無関心な彼にとって、突然己の人生に迷い込んできた赤ん坊とはまさに「この」命であり、赤ん坊の母親探しを通じて、これまでの生き方を見つめ直さざるを得なくなっていくのだ。

 この意味で、赤ん坊をくるんでいたセーターが実はエルネストのものだったことは重要である。まさに、「この」彼と赤ん坊の人生が、クリーニング屋で交差したのだ。

 だが、「この」は、出会いと人生とを「運命」化する麻薬のようなものでもあろう(赤ん坊は「ファウスト」と名付けられる!)。エルネストは、赤ん坊のみならず、赤ん坊を介してカテリーナと出会ったことをも、まるで運命のように感じていく。カテリーナが、神に捧げようとした愛を、赤ん坊に振り向けようとするのも、この運命のなせる技だったかもしれない。

 やがて二人は、それが思い込みだったことを知る。それがまた、ある結婚式の場だったことは、何と皮肉で残酷なことか。

 だが、「もうひとつの世界」を垣間見たことの意味が消え去ってしまうわけではない。別れ際に二人が抱いたその確信を、束の間の抱擁の余韻で伝えるところは、ため息が出るほど素晴らしい。

中島一夫