トゥ・ザ・ワンダー(テレンス・マリック)

 一見、美しすぎて退屈な環境映像のようだ。だが、この映像作家の画面では、不思議と何かが立ち騒ぐ。自然や風景がのっぺりと表面的ではなく、質感と奥行きをもって迫ってくるからだ。だが理由はそれだけではない。

 映画は、パリに暮らす美しい女性「マリーナ」(オルガ・キュリレンコ)のモノローグで幕を開ける。「新生児のように、私は目を開く。そして溶ける」。

 夫と離れ傷ついた彼女が、娘の「タチアナ」ともども包み込んでくれるアメリカ人「ニール」(ベン・アフレック)に出会い、モン・サン=ミシェルの美しい自然の中、恋を謳歌する時間が、まずは、まるでスライドショーのように、細切れの映像を小刻みにつなぎながら映し出される。

 セリフは極端に少ない。ほとんどすべてが心のつぶやきだ。代わりに映像がある。例えば、この監督は、幸福のさなかにある二人を、水を含んで緩んだ泥の上に戯れさせる。このとき二人は、まだ足場の悪さを楽しむことができた。これからも、当たり前のように、干潮と満潮とが交互にやってくることを信じているからだ。だが、このぶよぶよの泥土は、二人がタチアナをともなって移り住む、アメリカでの不安定な生活そのものだった。

 オクラホマに場面が移り、ニールの仕事が水質汚濁の調査官であることが明かされるあたりから、本作の企みが見えてくる。環境保全のための調査官とはいえ、エネルギーのために自然を破壊する企業の一員であるニールは、地元の住民から見れば、ここら一帯の最近の異変を体現する、忌まわしきよそ者にほかならない。

 後からやってきては、不純なものをまき散らし、自分たちの場所を食い物にするよそ者。このニールの属性こそが、マリーナ(シェールガスの掘削が、地下水汚染の原因だとして禁止されているフランスの女性)との関係も、かつての幼馴染であるもう一人の女性「ジェーン」(彼女の農場の経営がたちゆかなくなったのは、おそらく汚染が関わっている)との関係も、ともに破綻に向かわせていく当のものなのだ。

 そこにさらに、マリーナの子宮=自然の中に埋め込まれた避妊器具の除去、いわば「掘削」(の失敗)や、自身が神の不在に思い悩む町の神父まで登場するとすれば、この作品の野心はさらに露わになるだろう。

 もう二度と、オクラホマの土地に、神の恩寵のごとき美しい大自然が戻ってくることはない、そしてそれは、後からやってきては、不純物をまき散らす人間の到来以降のことなのだということを、本作は沈黙の中に、あまりに、それにしても、あまりに美しく語ってみせる。

中島一夫