バンコクナイツ(富田克也) その1

 君がいなくなってから二年が過ぎた 君の両親が身売りに連れていったという話 心が痛み傷ついたけど我慢しないと 貧しさが強いたことなのだから チェンマイからスンガイコーロクへ体を売りに行く
 世界が輝く喜びの人生はたったの15年だけで あとは暗闇の人生 百や千の男の手に抱かれても 涙など流さずに我慢しないと 金を貯めて家にお金を送って 君を買い戻してもらうんだ。

 娼婦である主人公「ラック」の故郷、タイのイサーン地方ノンカーイのライブハウスで歌われる「君を買い戻す」が、胸を打つ。本作のモチーフは、この歌に凝縮されている。

 それは、監督が映像集団「空族」でコンビを組む相澤虎之助(本作でも脚本を共作)の作品『バビロン2―THE OZAWA―』にすでに表れていた。そこでは、新宿でキャッチをしていた主人公「オザワ」が、東京都の規制が厳しくなって日本人が集められなくなったために、ベトナムカンボジアにまで行って女性を新規調達してくるよう命じられる。だが、インドシナを旅しているうちに、オワザはそこに血なまぐさい戦争と植民地支配の歴史を嗅ぎ取っていくのだ。

 そして自分の「仕事」が、その繰り返されてきた植民地支配の歴史(というか、つまるところ歴史とは、列強による植民地支配の歴史にほかならない)に加担することでしかないことを思い知り、ラスト「今こそバビロンの銃を手にする」ことを決意するのである。

 今作は、ひとまずそのタイ、ラオス版といえよう。だが、単にカメラがタイやラオスに移動したのではない。バンコクの日本人専門の歓楽街タニヤ通りを舞台とすることで、『バビロン2』に見られた構造的な認識が、より先鋭化されている。

 1970年代の日本企業進出にともなって形成されたこの歓楽街は、いわばタイに輸出された「新宿」である。企業戦士がいるところに「新宿」は形成されるのだ(現地では、立ち並ぶ店は「カラオケ」と呼ばれる)。

 娼婦たちが、目が眩むほど煌々と輝く白いライトのもと、ひな壇にずらりと並んで愛想を振りまいている。入店してきた客たちはその前に仁王立ちで彼女らを物色する。『バビロン2』同様、本作にも日本人オザワが登場することで、こうして日本とタイとが「売春」を介して構造的につながっていることが示されていくのだ。

 後半、「オタク」が来店した際、ひな壇のラックたちは口々に呟く。「あいつ、いかにも金持ってないよ」。かつては富裕層ばかりだった客層も、「エコノミーダウン、メルトダウン、エブリシングダウン」とばかりにジリ貧になっていく日本をそのまま反映するように、見るからに貧相になっていく。タイの娼婦たちが「あんなのをつなぎとめておくために、いつまでも愛想を振りまいていられない」と、日本人に見向きもしなくなる日も近いのかもしれない。

 稲川方人は、本作にみなぎる「「物語」に帰結することのない躍動」を指摘していたが(『子午線通信』4号)、確かに表面的な物語を見ても本作を見たことにはならないだろう。ここにあるのは、世界資本主義の構造的な認識なのだ。その意味で、本作(のみならず空族の作品群)は、ウォーラーステイン世界システム論や、岩田弘の世界資本主義論に連なると言ってよい。ようやく、こうした認識や視野をもった「日本」映画が出てきたといえるのではないか。

 同様な認識を持っていた津村喬は言う。

資本は労働予備軍を必要とするが、この労働予備軍の持続を保証する労働後備群が資本の論理の現存性において社会的に必要となる(例えば釜ヶ崎、山谷、或いは極貧の農村で、朝鮮人、未開放部落への差別意識が最も著しい)。これがユダヤ人、すなわち資本にとっての他者ということであり、これこそが世界性を持った資本が一国的に展開する構造の秘密であると考えられるのだが、こうしてみると、日本資本主義の内部にいるわれわれにとって、ユダヤ人とは、部落、沖縄、朝鮮そして台湾を含む中国だということは断るまでもないだろう。(「《帝大解体》と部落・沖縄・朝鮮の視点」)

 本作に即せば、ここで言われる「労働後備軍」を、日本企業に吸収された「労働予備軍」たる労働者たちの「持続を保証する」タイの娼婦たちと読み替えることもできよう。あるいはさらに、彼女らを(未来の調達先として)「保証する」、作品後半に描かれるタイの田舎やラオスといった「後・後備軍」の存在にまで、本作の射程は伸びていく。

 本来「世界性を持った資本が」、だが現実に運動するには「一国的に展開する」必要があるという「構造の秘密」。そのために、「日本人はタイ人を人とも思ってない。タイ人は日本人をカモとしか見ていない」という差別を招き寄せてしまう。差別とは、関係を切断し「壁」を築くことではない。むしろ、それは相互依存的に切り離せなくなるからこそやっかいなのだ。

(続く)