持久戦は持続しているか その2

 『津村喬 精選評論集――《1968》年以後』(二〇一二年)を編集した際(あるいはそれ以前から)、すでにすがは津村の思考のジレンマを見ていた。それは、「六八年」を「六八年」たらしめた津村や華青闘告発が、だが同時に「「六八年」を衰弱させた張本人として忌避される傾向が今なお存在」し、それは「理由のないことではない」というものだ(『精選評論集』解説)。

 

 ここでは「「決断」なくして革命はないという、あたり前といえばあたり前の問題が、本質的に問われていた」と言ってよい。まさに、華青闘告発や津村のいう持久戦は、「「決断」を沈静させるものとして受け取られた」。華青闘告発によって顕在化されたマイノリティーによる反差別闘争は、それがいかに過激なものであれ、革命への「決断」を不断に繰り延べていく持久戦として展開されるほかないからである。

 

そもそも、見出されたマイノリティーの諸闘争は、基本的に日常生活に根ざしたものであり、そこにおいて「正義」が実現されているか否かを問うことなのである。少なくとも、自然成長的な過程としては、そうなる。「革命」が権力奪取と共産主義を展望するものであるのに対して、マイノリティーの諸闘争は、資本主義の枠内での日常的な改良に自足する傾向を持つほかはない。それは、労働者階級が「サラリーマン」化して、もはや革命の主体たりえなくなった以上に、そうであると言えるかも知れない。労働者は、少なくとも、資本主義と直接に深くかかわっていることを容易に自覚できるが、マイノリティーにとって、それは難しいからである。華青闘告発以降、マイノリティー運動にシフトした新左翼諸党派のディレンマは、一つには、ここにあった。マイノリティーを革命の主体として措定してみることは、「決断」をずるずると後退させ、日常に埋没してしまうことに帰結するように見えたのである。(『津村喬 精選評論集』「解説」)

 

 その「決断」の「後退」と「日常」への「埋没」は、現在「ポリコレ」と呼ばれている。

 

 津村にとっても、この批判は当初から認識されていた。例えば、津村が「戦略的理性」と呼んだものは、この種の批判に対するものだったろう。

 

しかしきみは最も重大な問題を、〈党〉の問題を避けて通っている。きみは構改派よろしく、現代資本主義の構造変化を強調するが、革命の主体というものをどうとらえているのか? 〈党〉形成ないしに主体が可能なのか? 戦争戦争とやたらにいうが、革命軍創出の展望をもっているのか?

――もし諸君のいうのが従来の意味合いでの、固定された組織としての〈党〉だとしたら、わたしのこたえは「もし〈党〉なしの革命があるとしたら、それは日本の革命であろう」ということになるだろう。〔…〕われわれの現在のような条件にあっては、〈党〉はさまざまなレベル、さまざまな場におけるイニシアティヴ・グループとして以外に存在しえない。それを反戦や評議会として分離すること、目に見えるかたちでの「分離=結合」をやることも誤りであるとわたしは考える。〈軍〉についても同様で、〈軍〉だの〈党〉だのとロクでもない実体が名乗りをあげるところに、こんにちの混乱と頽廃の根源があるのだ。必要なのは、そのような唯名論的体系の創出ではなく、実体としてはなお連絡もとれず、バラバラであっても、現代資本主義の構造そのものによって結びつけられている諸戦線であり、それに一貫した論理をあたえつつその内部で生きてうごく戦略的理性の形成なのである。(「戦略的理性のために」、『戦略とスタイル』)

  

 「軍」やら「党」やらといった「唯名論的体系の創出」が問題なのではない――。この津村の主張が、先に触れたすがの「国民皆兵論」への反論と通底しているのは言うまでもない。さらにこの対立は、「観念に名前をつけた時から観念の堕落が始まる」と言った東大全共闘に対して、「名前がつかなければ観念ではない」と返し、曲がりなりにも「文化概念としての天皇」という「名前」を「創出」した三島由紀夫をも想起させよう。千坂恭二も言うように、三島の「文化防衛」の軍隊構想と「楯の会」の実践は、「文化概念としての天皇」の「親衛隊」であった。いかにそれがしょぼいものに見えようとも、三島なりに無理すじを通した「唯名論的体系の創出」だったといえる。いずれにしても、ここでは、「観念」に名前を与えるか否かという「決断」が問われているのだ。

 

 津村が「唯名論的体系の創出」を批判し、「さまざまな場におけるイニシアティヴ・グループ=有機的知識人」をもって「もし〈党〉なしの革命があるとしたら、それは日本の革命であろう」と主張できたのは、まだかなりグラムシ主義のリアリティがあったからだろう。だが、二〇〇九年の民主党政権誕生によって、グラムシ主義が政権奪取した途端、まるで最後の輝きであったようにグラムシ主義の耐久年数はいよいよ切れたように見える。

 

 もちろん、津村の思考は、大枠グラムシ主義でありながら、同時にグラムシ主義の廃墟を見つめ、それによって解消されないものを常に捉えようとしていた(3・11後の「脱原発」の文脈における津村の復権など)。だが、やはり中国自ら文化大革命を否定し、資本主義化してしまった以上、グラムシ主義や第三世界論のリアリティを支える基盤は徐々に掘り崩され、政権をとった時にはすでに完全に資本主義に「回収」されてしまっていたといえる。

 

(続く)

 

持久戦は持続しているか

 

 

生前退位ー天皇制廃止ー共和制日本へ

生前退位ー天皇制廃止ー共和制日本へ

  • 発売日: 2017/07/03
  • メディア: 単行本
 

 

 備忘録として(といっても、もうずいぶん前の話)。

 

 二〇一八年一二月一五日に京大人文研で行われた、シンポジウム『1968年と宗教』において、パネリストのすが秀実と聴衆の津村喬の間でちょっとした議論があった。先日、津村氏が亡くなって以来、津村を再読しながら、その時のやりとりを思い返している。おそらく、シンポの副題「全共闘以後の革命のゆくえ」について言えば、この日最も重要な議論が、その時生起しかけていた。だが、体調もあってか、その後津村が退場したため、残念ながら議論が深められることはなかった。以下は、その時あり得たかもしれない議論の一端を、「想像」してみたものである。

 

 私の記憶では、津村が最も鋭く反応を示したのは、すがが提示した「国民皆兵論」に対してであった。柳田批判、戦後天皇制―民主主義批判をベースにした口頭発表に続けて(「柳田国男戦後民主主義の神学――一九六八年の視点からの照射」「大失敗」Ⅰ―1所収)、共和制と国民皆兵についてコメントしたすがに対して、津村の反論は、それは「いつか来た道」で、その一帰結としての「南京虐殺」から考え始めた者としては同意できないという趣旨だったと記憶する。

 

 このレベルでは、津村がすがの「国民皆兵論」が、「義務」ではなく「権利」として、すなわち「全共闘以後」において見失われた「主権」の問題として主張されたことを理解しなかったといえる(あの短時間のやりとりでは致し方なかっただろう)。すがの発言は、概ね以下の内容だった。ほぼ同様な主張を展開している『生前退位天皇制廃止―共和制日本へ』(堀内哲編、二〇一七年)所収のインタビューから引いておく。

 

共和制というのは、もちろん君主をいただかないということであり、主権は国民がもっている。とすれば、われわれ「国民」は「国家」を「守る」義務と権利があるわけだよね。主権在民というのは、そういうことでしょう。選挙権があるのと同じような意味で、ですよ。我々は国軍兵士になる義務と権利があるわけだ。ところが、九条において軍隊は否定されているわけだ。われわれの権利が剥奪されているわけでしょう、九条は共和制に反するんです。〔…〕今や徴兵制なんか事実上ムリなわけでしょう。先進国においては金かかりすぎるし、軍事的にも意味がない。先進資本主義国では空軍主体ですから、そんなにたくさん兵士はいらないわけですね。それに、地上軍を導入するのはリスクがかかり過ぎる。しかし、そういう時にこそ、我々が兵士になる権利がある。「無理」なんだろうが、そう言うのが「道理」でしょう。主権を持っている国民だからそう主張するのは、日本においては一条と九条のセット状態を突破しうる可能性になるでしょう。〔…〕安倍ちゃんだって国会答弁で「国民に苦役を与えない」とか言って徴兵制の復活を否定している。これは文字通りに受け止めるべきで、もうそんな金ない、そんな金使えないから、国民皆兵、徴兵制ができないというだけでなく、現代国民国家の国民支配というのは、そういった形で国民の権利を剥奪しながら、苦役から解放していると言って飼い殺しにしている。今の国民国家は、そういう意味で、国民国家の理念を否定せざるをえない。こういうと講座派マルクス主義みたいだけど、その意味で、今の日本は近代国家じゃないでしょう。

 

 われわれは、このコロナ禍において、「今の日本は近代国家じゃない」ことや、「権利を剥奪」された自粛によって「飼い殺し」にされていることを嫌というほど思い知らされているが、今は措く。基本的に、すがの「共和制―国民皆兵論」は、「実際、軍隊がなければ革命も起きないですよ」という、三島以降、完全に消えてしまった認識がベースにある。

 

 一方津村は、近代の戦争を、質的変化に応じて三つのステージで捉えていた。近代戦、総力戦、持久戦である。

 

戦争の歴史にとって、二つの根本的な飛躍が存在した。フランス革命は、近代戦の誕生を告げた。一七九三年八月二三日の革命議会の布告は、史上最初の国民皆兵を命じた。「いまより敵を共和国の領土外に駆逐するまで、すべてのフランス人は軍務の要求に応じなければならない」。国家理由(レゾン・デタ)となった戦争は、自身のうちの、以前のような儀礼的な要素を一掃する。カルノの簡潔な布告は命ずる。「一般布告――集団的にかつ攻撃的に行動せよ。常に銃剣を帯びて戦闘に参加せよ。大会戦に従って、敵を全滅させるまで追討すべし」。死闘の原理が、このようにして姿をあらわす。中国革命は、近代戦にたいする戦争、超―戦争(ないし間―戦争)、つまり持久戦を生みだす。持久戦を予感しつつ、国家理由としての近代戦は総力戦に転化する。あるいは、また総力戦が持久戦の条件となる。(「戦争の言説(ディスクール)と言説(ディスクール)の戦争」一九七一年、『戦略とスタイル』)

 

 津村の考えている「戦争」が、三つ目の「持久戦」のステージにあることは言うまでもない。それは、第二ステージ「総力戦」が、同時にそれに対する戦争(超―戦争)を生み出したものにほかならず、津村はこれを日本帝国主義(総力戦)に対する中国人民の革命戦争(持久戦)に見出した。

 

もはや軍が、軍団や官僚制的戦闘組織が人民を動員するのではなく、武装した民衆が真の正規軍となるだろう。反省され、歯止めをかけられた戦争の相互性は、いまや超―戦争として、間―戦争(空間の獲得)として、さらに持久戦(時間の獲得)としてあらわれるだろう。それは、人民の戦争とよばれるだろう。

総力戦が持久戦を生みだしたこと、それによる総力戦の変化は、深くわれわれの現在に関わる。その転移がまずアジアにおいて、日中戦争の中でおこったということによって、この相互性がなおわれわれを決定しており、〔…〕。

  

 このような戦争論を思考していた津村にとって、すがの共和制―国民皆兵論は、第一ステージの「近代戦」への逆戻りであり、確かに「いつか来た道」にしか見えなかっただろう。

 

 だが、一方すがにとっては、おそらく一九六八年以降の「持久戦」が、果たしていまだなお有効に機能しているかどうかが問題だったのである。

 

(続く)

 

「関係」は存在しない、「敵対性」が存在する

 いまや、ほとんど参照されることもなくなっているらしいジジェクは、次のように言っている。

 

したがって、敵対とは、異性愛LGBTとの敵対ではない。敵対は(再びラカンのことばで言い換えれば、「性関係はない」という事実は)、規範的異性愛の核心に存在している。敵対は、ジェンダーという規範を暴力的に押しつけることによって抑制され曖昧にされる。(『絶望する勇気』)

 

 ここでジジェクが言っているのは、「セックス」が「ジェンダー」へと「革命的」に読み替えられていった時、セックスにおける「性関係はない」という敵対性のリアルが隠蔽されたということである。だが、その敵対性は消え去ることはない「普遍的」なものだ。ゆえに不断に回帰してくる。

 

 ジジェクが、われわれは皆トランスジェンダーだと「強弁」するのも、「トランスジェンダーはあらゆる性的同一性に潜む不安を浮き彫りにし、性的アイデンティティが構築された/不安定なものであることを暴く」ものであるからだ。「トランスジェンダー」は、資本主義の不安や敵対性が周期的に露呈する「恐慌」のような存在なのである、と。当たり前だが、セックスではなく、ジェンダーという概念が、トランス「ジェンダー」を生み出したのだ。

 

 ラカン松本卓也が言うように、「ファルス享楽とは総じて男性と女性がそれぞれみせかけを相手にして享楽するものであり、そこには両者のあいだで共有しうる享楽が存在しない。性関係が存在しないのはそのためである」(『人はみな妄想する』)。すなわち、松本が身も蓋もなく明言するように、要はセックスという行為は、男性、女性「そのものを相手にするのではなく自分の身体器官(ファルス)をつかって自慰を行うようなものなのである」(セックス経験者なら誰でも身に覚えがあろう。「一緒に=同時に」エクスタシーに達しようとするのもその「やましさ」からではないか)。ラカンが「白痴の享楽」と呼んだものにほかならない。われわれは、「性関係はない」というセックスの敵対性を、それが「リアル」であるがゆえに、ロジックではなく(白痴の)「享楽」で塞ぐほかないのだ。

 

 したがって、法や公権力といった「制度」を背景としたセクハラやパラハラといったPCによって、この敵対性のリアルを乗り越えることはできない。あいまいに弥縫することができるだけだ。なぜなら、女性/男性の差異は、それが差異化する項よりも先に、その敵対性において存在してしまっているからだ。「女性は非男性であるだけではなく、男性が完全に男性になることを妨げる者――男性は非女性であるだけではなく、女性が完全に女性になることを妨げる者」(ジジェク前掲書)である以上、たとえお互いが全滅するまで駆逐しあったとしても、敵対性としての差異は残存する。したがって、「性的差異という敵対的な緊張関係のない平和な世界、それは男女が序列をともなってはっきりと区別され安定している世界か、性が流動化して脱性化された幸せな世界のどちらかである」。

 

 そして問題なのは、「こうした平和な世界という幻想のなかに、社会的敵対のない社会、ようするに階級闘争のない社会という幻想を見いだすのは難しいことではない」ということだ。階級闘争も、セックスと「同様」(「同質」ではない)な論理、すなわち商品(所有者)a/bの敵対性に根差しているからだ(※)

 

 資本制社会においては、その根源的な敵対性が、「貨幣」という、「トランスジェンダー」ならぬ商品(所有者)の位相を「トランス」した「モノ」の次元へとスライドさせられ、その結果、貨幣を多く持つ者と少なく者という量的な差異へと還元させられてしまっている。資本主義とは、a/bという差別を、しれっと差異へと読み替えてしまうシステムにほかならない。

 

 「性関係は存在しない」ように「商品関係は存在しない」のである。資本主義は、法や公権力という「制度」(沖公祐)のもとに、aとbの両者が「関係」できるという「幻想」によって成り立っている。そして、あたかも「関係」が存在するかのような「幻想」をもたらしているのが、「労働力」の無理やりの商品化にほかならない。本当はそこに暴力があり、差別がある。

  

(※)津村喬は、それを「関係の敵対性」と呼んだはずである。「戦中派はせいぜい〈関係の絶対性〉を問題にすることで満足した。だが〈われわれ〉は、はじめから〈関係の敵対性〉の中に置かれていた。しかもこの敵対性は極端に隠蔽されており、不確定性にしか顕在化しない」(『戦略とスタイル』)一九七一年)。

 

中島一夫

 

感染予防行動と経済

 経済を回しつつ、感染予防行動を徹底せよ。そんなことが容易にできるのだろうか。

 

 誰もが気づいているとおり、それは「動け、かつ動くな」というダブルバインドの命令であり、端的に「矛盾」だからだ。

 

 もちろん、資本制国家は、「ならば」とばかりに、前者と後者とを分断し、役割分担させるだろう。中央と地方、経済界と医療従事者、…。それはいつのまにか、労働者をも分断するロジックとして機能している。職場に赴かざるを得ない職種とテレワーク可能な職種。前者は後者を「テレワークできるご身分」として「蔑視」し、後者はその「やましさ」を抱えながら、ほぼ24時間と化した労働に甘んじる。

 

 だが、「動け、かつ動くな」は、コロナ禍において出てきた新しい「命令」ではなく、当初から労働力の商品化に不可避的な「矛盾」ではないのか。いわゆる「労働力商品の無理」(宇野弘蔵)である。「動け、かつ動くな」は、「商品であれ、かつ人間であれ」、あるいはゾンビのごとく「死んでいる、かつ死んでいない」(ジャームッシュの新作『デッド・ドント・ダイ』のテーマ!)という意味にほかならないからだ。それは、最初から「無理」なのである。

 

 では、どうしたらよいのか。対案はない。ただ、今後も前者と後者との役割分担を促進し、前者と後者のさらなる「バランス」を求めてくるだろう「命令」に対して、それははなから「無理」だった、これからもずっと「無理」であるという、ごく当たり前のことは主張し続けるべきではないか。

 

 たまたま最近読んでいた本から引いておく。

 

むしろ重視すべきは、中井がプロレタリアート及びその予備軍としての浮浪者を悪魔と呼ぶとおり、市民社会の等質化にあたっての見えざる自然の調和的な成長において、労働力商品とその予備軍は資本の自己増殖の只中に巣喰う掛け金にして、かつそのアンチフィジスであることだ。それは等質化された市民社会のリアリズムを支える自然すなわち貨幣―資本関係の半ば外部にあって、豊かな個性の発露の陰で摩耗や疲労、身体の変調のほか偶発的な事故など、したがって資本の自然成長すらも否応なく内包せざるを得ない反―自然もしくは反―自己増殖、つまりは反―資本として、にもかかわらず市民社会における自然成長に際して排除不可能な鬼子として摂り込まれつつも、棄てられる。(長濱一眞『近代のはずみ、ひずみ』)

 

 「動け、かつ動くな」という「命令」にしたがえば、「摂り込まれつつも、棄てられる」のがオチである。「摩耗や疲労、身体の変調のほか偶発的な事故など」に見舞われた挙句に。

 

 「リアリズム」。現在それは、「動け、かつ動くな」を自明視するイデオロギーとして表れている。

 

中島一夫

 

近代のはずみ、ひずみ 深田康算と中井正一(長濱一眞)

 

近代のはずみ、ひずみ

近代のはずみ、ひずみ

 

  何度か書いてきたことだが、ISの登場以降、再び三度「非西洋」が「もの」(フェティッシュ)としてリアリティを帯びてきている。それは、このコロナ禍においても、持続、拡大している。そして、ISのロジックが、保田與重郎や日本浪漫派の論理ときわめて似ていることも、指摘してきたことだ。

 

knakajii.hatenablog.com 

 橋川文三『日本浪漫派批判序説』を筆頭に、六〇年安保の後、桶谷秀昭磯田光一村上一郎など、保田や日本浪漫派を論じるのがブームだった一時期があったといわれる。そうした状況は、現在もまた、ポテンツを下げたまま薄く広く浸透しているように思える。われわれは、そうと意識しないまま、保田の言葉の上にいる。

 

 新木正人『天使の誘惑』に震撼させられ、つい書評めいた記事を書いてしまったことがある。新木の言葉は、妙に生々しいリアリティがあった。それは、橋川文三村上一郎などとは全く異質の言葉として、であった。

  

knakajii.hatenablog.com 

 本書における長濱の言葉は、新木のそれとはまったく異質なものだが、どこか触れ合うものを感じる。長濱の文体もまた、述べられている内容はきわめて明晰でありながら、どこか読む者を「遠くまで」(行くんだ!)連れ去っていくところがあるからだ。そして、困ったことに、本書が根底では保田に批判的であるにもかかわらず、下手をすると、メインの深田康算や中井正一「以上に」保田の像が魅力的に見えてきてしまう部分があるということも、どこか新木の書と似ているように思う。

 

 本書は、いまだなお、いや述べてきたように、より一層われわれを吸引してやまない保田の言葉から、いかにぎりぎりのところで、身を「はず」ませては引きはがすか。それを、保田とともに「ドレフェス革命から生まれたふたりの嬰児」だったと著書が評する、(深田康算―)中井正一の思考と実践に見出そうとする試みである。

 

 それにしても、先日の記事で述べたように、「決定不能」な「嘘」とたたかい続けた大西巨人が、もし本書を読んでいたら、どのように考えただろうかという思いを禁じ得ない。大西が苦しんでいたのも、次のような事態に違いないからだ。

 

knakajii.hatenablog.com

 だが仮に「主張」されたことは虚偽か否かを決定するためのその前提が相手との共有に至らないどころか言表者においてすら決定不能に陥る場合、だから言表者の意図に反して反語(アイロニー)が通じず、あるいは意図せず反語(アイロニー)として受容された等々の水準をも超えて、浪漫派的イロニーへの変貌が始まる。言い換えるなら「主張」だけが表層的に露呈するばかりで、「確信」、したがって反語(アイロニー)においては言表者とその相手がその共有を確認しあうべきメタレベルに蔵されている真の意味ないし規則が、もはや確定できず消失したものも同然に至るとき、けれどもその「主張」と「確信」とが等号で結ばれている保証もなく、反する「確信」がどこにもなく、ひたすらに「主張」だけがその裏付けを欠き決定不能のままたゆたうとき、それは起こる。ここにあって「主張」は嘘か真か断定しえず、透明な言語の流通と消費にひとかたならぬ支障を来すこととなるだろう。〔…〕もとより保田はその日本浪漫派的言辞が「嘘」であると明言している。だが、その明言された「嘘」が延々と執拗に繰り返し言表され続けていき、保田自身もその「嘘」を信じていると判断せざるを得ない態度に終始することで、「嘘」の表明にもかかわらず、やはりその「確信」における真偽は決定不能のままに措かれる、否、のみならずもはや最終的にことの真偽を決する審級としての「確信」は確信犯的に消失へ追いやられているのだ。(「第七章「ある」の投擲」)

 

 大西が、保田や日本浪漫派、あるいは村上一郎に抱いていたシンパシーも、こうした「嘘」の構造から捉え直すことができるのではないか。

 

 いずれにせよ、リアリズムの問題といい、嘘(言)の構造の問題といい、私にとってはテーマや関心が近すぎるほどで、避けては通れない一冊である。現在も再読三読の最中。本書については、また触れることがあろう。

 

中島一夫

 

嘘と転向――冷戦終焉期の大西巨人 その2

 大西は、その代名詞ともいえるエッセイ「俗情との結託」を一九五二年に、「再説 俗情との結託」を五六年に発表する。そして、九二年に「三説 俗情との結託」を、九五年に「「俗情」のこと」を発表した。大西は、前の二つのエッセイから後の二つに至る「三十数年間にも、「俗情との結託」現象が存在しなかったのではない。いや、それどころか、そういう類は、多々あった。その間に私が発表した批評文の大部分に、私は、「俗情との結託」と題することもできた」と述べている(「三説 俗情との結託」)。

 

 だが、結果的にそうしなかった理由は明白だろう。前二つはスターリン批判前後の、後二つは冷戦終焉期の言説空間において書かれているのである。大西のいう「俗情」が、いかに共産主義の危機における「転向イデオロギー」とのたたかいだったかが分かる。

 

 大西は、最初の「俗情との結託」で、「俗情」を「いまなお労農市民・国民大衆――特にそのおくれた層――のなかに広汎に存在する封建的・後退的な要素」と定義した。いわゆる、講座派マルクス主義の「半封建的」そのままである。軍隊を「特殊ノ境涯」(『軍隊内務書』)と認めて疑わない野間宏の『真空地帯』を、「半封建的」なものとの「結託」として批判したわけだ。そして、そのような「転向」に対する抵抗として「半封建的」な軍隊の、そしてそれが反映する天皇制の構造やあり方とたたかおうとするのが、かの『神聖喜劇』であった。

 

 だが、「俗情との結託」という批判が真に有効であるためには、まずもって「俗情=半封建的」という概念にリアリティがなければならない。そして、一九六〇年代の高度経済成長にともなって、それ以降そのリアリティは徐々に喪失されていったのである。大西が、冷戦終焉期に「バスに乗り遅れまいとした」「変節転向者」たちを、今一度「俗情」という言葉で糾弾しようとした時には、もはやその有効性は相当薄れていたのではなかったか。前回述べたように、大西が「俗情」を「嘘」と言い換えねばならなかったゆえんである。

 

 だが言うまでもなく、「嘘」という通俗的な言葉自体、「俗情=半封建的」よりもいわば「俗情」性にまみれている。そこで大西は、さらに「嘘」を、「方便としての嘘」と「本当の嘘(つき)」とに峻別し、後者をしっぽ切りしていくことになったのだろう。「嘘」という言葉自体の「俗情との結託」を切断しようとしたのである。

 

「小説は、『フィクション』、『ワーク・オブ・フィクション』である。」という命題の「仮構(フィクション)」とは、「方便としての嘘」のことであり、「本当の嘘」ではなく、したがって小説家は、断じて「本当の嘘つき」ではない。「仮構の真実」を作り上げるのが、小説家である。終世、井上光晴は、その間の消息を理解することができなかった(井上のほかにも、その手の似非小説家・批評家が、少なくない)。(「一路」一九九四年)

 

 だが、「俗情」という言葉が「半封建的」のリアリティに支えられていた以上、それが喪失された今、これは苦しいロジックと言わざるを得ない。「嘘」という言葉に「俗情=半封建的」の代わりはあまりに荷が重いし、「方便としての嘘」と「本当の嘘」とを明確に分かつものももはやないからだ。「俗情=半封建的」のリアリティが喪失されていくとともに、大西が「革命の人」というよりは、PC的「正義の人」や「民主主義の人」(すが秀実大西巨人の「転向」」)に見えていってしまったというのもわからないではない。天皇制批判が後景に退いていったというのも同断である。講座派において「俗情=半封建的」とは、まずもって天皇制を意味していたからだ。それは、大西個人の問題というよりも、講座派イデオロギーの耐用年数の問題だろう(※注)。

 

 大西はとうとう「嘘」を批判するのに、四百年以上前のモンテーニュ『エセー』にさかのぼるところまで追い込まれる。「実に、嘘は呪われた悪徳である。われわれはただ言葉だけによって、人間なのだし、また、たがいにつながっているのである。この嘘の恐ろしさと重大さを認めるならば、他のいろいろの罪悪以上に、これを火刑をもって追求して然るべきであろう」。そのうえで大西は、現実上の「嘘」と「フィクション(仮構)」とを同一視することはできない、そうすることは「似非芸術家における特権意識の思い上がりであるという(「〈嘘〉あるいは〈嘘つき〉のこと」一九九五年)。「似非」ではない本物の作家による「フィクション(仮構)」を、「嘘」から守ろうとしたのだ。

 

 だが、ここでも事態は、「フィクション(仮構)」と「現実上の「嘘」」とは、「同一視」以前にもはや峻別できないということではなかったか。それが、68年を席巻したいわゆる「言語論的転回」の問題だろう。あまりにも高名な例を引こう。

 

ギリシア的真理は、かつて、「私は嘘つきだ」という、このただ一つの明言のうちに震撼された。私は話すという明言は、現代のあらゆる虚構作品(フイクシオン)に試練を課す。(フーコー「外の思考」一九六六年)

 

 「私は嘘つきだ」という「ただ一つの明言」自体の真偽が、もはや決定不能である。いわゆる「嘘つきのパラドックス」というやつだ。「ギリシャ的真理」もモンテーニュの「真実」も、この事態に「震撼され」るほかはない。この中で「虚構作品(フイクシオン)」はあり得るのか。フィクション(仮構)は「嘘つきのパラドックス」に包摂され、おしなべて存在理由の「試練」を「課」されている。

 

 ここにおいては、大西の試みた「フィクション(仮構)」と「現実上の「嘘」」とか、「本当の嘘」と「方便としての嘘」とかいった区別は何の意味をもたない。もはやここでは、言葉は、「現実」やら「仮構の真実」やらの「表現ではない」(入沢康夫)のである。

 

 大西が言うように、確かに井上光晴は、「「仮構の真実」を作り上げるのが、小説家である」ことを「理解することがなかった」。前回述べたように、それは疑いの余地がない。だが一方、大西は、おそらく「言葉は表現ではない」ことを「理解することがなかった」のだ。このあたりに、大西が(あるいは武井昭夫が)68年に無理解だった理由があろう。

 

 では、言葉が、「現実」や「仮構の真実」を「表現」するという「リアリズム」はのり越えられたか。むろん、いまだそのような「アフター・リアリズム」を提示し得た者は誰もいない。68年が革命だったか反革命だったかという議論に、もはやリアリティがあるとは思えない。それこそ革命か反革命かが決定不能であることが、現在を規定するパラドックスではないのか。だがそれ以降、「嘘」や「フィクション」に課された「試練」から、誰ひとり逃れられないこと。その意味において、68年があるリミットを示していることは間違いないだろう。われわれは、依然として、大西が苦しんだそのリミットから何事かを学びとっていくほかはない。

 

 

(※注)

 「俗情=半封建的」がリアリティを失っていく過程で、講座派はいわゆる「構造改革派」へと転回していった。政治的にはグラムシ主義と陣地戦の導入である。日本における二〇〇九年の旧民主党の政権奪取は、その帰結であった。旧民主党政権最後の首相となった野田佳彦は、自民党安倍晋三に国会で「嘘つき」呼ばわりされ逆上し、「自爆テロ解散」(田中真紀子)に踏み切って大敗。その結果、政権を失ったのは、この文脈において象徴的であった。旧民主党構造改革派において、「俗情=半封建的」のリアリティは喪失されていたものの、かろうじて「嘘(つき)」はリアリティの残滓をとどめていたということか。野田は、「嘘つき」と言われることにプライドが許さない最後の政治家であろう。以降は、平然と嘘をつき、またそれを周囲の忖度によってなかったことにする、あるいはその発言がフェイクか否かがもはや決定不能な政治家が、世界の指導者として君臨することになる。

 

中島一夫

 

 

嘘と転向――冷戦終焉期の大西巨人

 『大西巨人 文選2 途上』の「月報」の一文を、大西は「年ごろ私は、〈嘘(非事実ないし非真実)〉に関して幾度も書いた」と書き出している(「〈嘘(非事実ないし非真実)〉をめぐって」)。この一文が書かれたのは「一九九六年九月中旬」だから、「年ごろ」はほぼ冷戦終焉期前後と考えて差し支えないだろう。実際、そのあたりから大西は、「嘘」や「虚言」(あるいは逆に「正直」)にさかんに言及するようになる。

 

 もちろん、「俗情」や「変節」、「裏切り」なども含めて広義の「嘘」と捉えれば、これは大西年来のテーマであると言える。だが、「年ごろ」の状況が、「俗情」、「変節」、「裏切り」といった言葉ではもはや捕捉できず、それらが端的に「嘘」や「嘘つき」と呼ばれなければならなくなったことの方が重要だろう。それは「転向」の問題が、ほとんど無化されてしまったということにほかならないからだ。

 

 大西は、次のように状況を指摘している。

政治的ないし思想的な用語としての「転向」および「変節」を、私は、否定的価値判断の表現と長らく理解してきたのであり、そのように現在も理解しているのである。〔…〕ところが、近年だんだん「転向」、「変節」が、「豹変」の場合とは逆方向へ転義してきて(旧悪から善に遷ることを意味するようになってきて)、この分ではやがてそれらは、「変化」とか「異同」とかいう類の(没価値判断的な)言葉によって全面的に取って替わられて死語になり果てかねない。(「居直り克服」一九八六年)

 

 もちろん、このような「転向・変節合理化」は、この時に始まったことではない。屈伏し、転向・変節することこそ「人間的」であり、そうしないことを「非人間的」であるという「哲学」は、ことあるごとにはびこってきた(*注)。だが、「転向」や「変節」といったタームが、もはや「否定的価値判断の表現」を担いきれなくなった時、大西は「嘘」や「嘘つき」といった直截に否定的な言葉でもって、事態を言い直さざるを得なくなったのだろう。

 

 例えば、「一路」(一九九四年)において、大西は「本当の嘘つき」と言う。「朝日新聞」の記事の、「どうかすると、世の中には自分のしゃべっていることが、どこまで本当で、どこから嘘なのかまるで責任のない人がいる。こういう人を、本当の嘘つきというのだ」という一文を受けてである。そして、その「本当の嘘つき」に井上光晴を名指した。

 

 井上が、「一九五五年春、日共に復党を要請されたが、レーニンの思想を私はすでに、むなしい騒音だと感じはじめていた」(「秋のマフラー」一九九一年)と書いたのに対して、大西は次のように述べる。

 

舌でも筆でも「本当の嘘」をならべ立てるのが常であった井上のこと、『秋のマフラー』が、「本当の嘘」に満ち満ちているのは、別に不思議ではなかったが、右エッセイの執筆・発表時がいわゆる「ベルリンの壁・東欧共産圏の崩壊」後における一時期であっただけに、私は、甚だ不愉快・腹立ちを覚えた。

 井上光晴が「一九五五年春」「レーニンの思想を」「すでに、むなしい騒音だと感じはじめていた」とは、私は、彼から聞いたことも彼の書いたもので読んだこともなかった。もっとも、一九九一年は、私が井上と絶交してから十七年目であったから、その間は「彼から聞いたこともなかった」のは、当然である。

 井上は、「日本共産党代々木組」ないし「スターリン主義」を一九五〇年代から「すでに」いちおう批判してはいたが、「レーニンの思想を」「むなしい騒音と感じはじめていた」事実は、彼の舌および筆の活動のどちらからも毛頭認められなかった。〔…〕「ベルリンの壁・東欧社会主義圏の崩壊」後における一九九〇年代に、「バスに乗り遅れまいとした」「変節転向者」が「一九五五年春」ころ「すでに」「レーニンの思想を」「むなしい騒音だと感じはじめていた。」と書いた、とは、私は、たやすく信ずることができる。(「一路」一九九四年)

 

 井上の嘘つきぶりについては、大西はかなり前からことあるごとに言及してきた(「巌流井上光晴」一九六四年、など)。だが、いまや明確に、その「嘘」が「変節転向者」のそれとして、「本当の」嘘であり、また井上は「本当の」嘘つきとされるのだ。また、この前年には、これも井上との因縁といえる「作家のindex事件」をたたかっている。大西が、「作家のindex事件」を、単なる『すばる』編集部との行き違いなどではなく、これを「現代転向の一事例」(一九九三年)として捉え、その過程における「嘘=俗情」とたたかっていたことは明らかだ(「小田切秀雄の虚言症」一九九四年、など)。

 

 さらに、時あたかも、セクハラ映画として悪名高き『全身小説家』(原一男、一九九四年)で、井上の「虚構的存在」ぶりが積極的に主題化されていた。「全身小説家」とは、「全身」「嘘つき」の謂いにほかならない。だが、この映画では、「小説家」なのだから「嘘」をつくのが商売とばかりに、そのことが「全身」で肯定されるのである。

 

 大西が「本当の嘘つき」と言うとき、まずもってこの種の「小説家=嘘つき」というイデオロギーが切断されている。大西に言わせれば、『全身小説家』は、冷戦終焉期=社会主義圏崩壊に、「バスに乗り遅れまいとした」「変節転向者=本当の嘘つき」たる井上光晴を、「全身」で肯定する作品ということになろう(そして、「子供のころの「うそつきみっちゃん」が大人になって「小説家」になったのだから最高だ」、「井上は天才だ」、「小説家は言ったもん勝ち」と、井上の「嘘つき」ぶりを肯定するのが、花田―吉本論争で吉本勝利をジャッジした埴谷雄高であり、それが本作の井上評価の最終的な担保になっている)。

 

 これらは、大西がこの時期さかんに繰り返す表現でいえば、「〝「革命」、「マルクス(共産)主義」、「左翼」、「階級闘争」などを否定的または嘲弄的にあげつらえば、それで「オピニオン・リーダー」分子としての株が上がる〟というような情況の通俗的出現」にほかならない。大西は、この「小説家=嘘つき(虚構的存在)」が、「俗情」と「結託」したイデオロギーにほかならないことを「全身」で示すために、徹底的に「小説(家)」の問題として、これと戦おうとしたのだ。

 

 その時に、「仮構の真実」や「仮構の独立小宇宙」といったテーマが、再び三度浮上してくるのである。

  

(*注)これについて、大西は、「十五年戦争中」の島木健作や、「敗戦後初期」の福田恒存らを例に挙げている。だが、人間的/非人間的の序列を転倒して「転向」の合理化をはかった筆頭は、何と言っても「転向論」(一九五八年)の吉本隆明ではなかったか。だが、野間宏『真空地帯』問題や、共産党分裂とそれを背景に勃発した『新日本文学』の花田清輝編集長更迭事件における宮本顕治との関係もあってか、なぜか大西は、吉本の「転向・変節合理化」を指摘することはなかった。このあたりの大西と吉本の関係は、いろいろ考えさせられるが、今は措く。

 

(続く)