ハッピーアワー(濱口竜介)

 この5時間17分という「大作」(という表現は実は適当ではないが)が、神戸、東京とも連日満員だという。

 名の知れた俳優ではなく、演技経験に乏しいワークショップ受講者を起用するというこの監督の手法が、観客のリアリティに訴えかけているのかもしれない。

 といっても、決して等身大の人間のリアルが、だらしなく「だだ漏れ」ているわけではない。そこでは、緻密で周到な脚本=書き言葉が、個々の演じ手の身体になじむまでにパロール化され、フィクションをフィクションと感じさせないまでに「自然」になっているのだ。だから、5時間超、飽きることも長く感じることもない。むしろ観客は、途中から、いつかこの映画が「終わる」という事態が想像できなくなる。登場人物たちの人生に終わりはないからだ。

 タイトルが卓抜だ。高度経済成長期をとうに過ぎ、それをジリ貧と呼ぶか成熟と呼ぶか別にして、もはやこの国において、幸せとは、居酒屋で酒が安くなる時間帯=「ハッピーアワー」のようなものだ。

 実際、主人公の37歳の女性四人にとってのハッピーアワーは、ケーブルカーで四人そろって、わくわくしながら上昇=成長していった、あの冒頭の「一瞬」だけだったのかもしれない。いざ大人=頂上にたどり着いて、さあどんな素晴らしい景色が見られるのかと思いきや、そこは雨が降っていて雲が空を覆い何も見えないのだ。「とんだピクニックね」、「私たちの未来みたい」。どこまで「上」に行っても未来が見通せないこの感覚は、だが何もアラフォー女性に限らない、観客全員に薄く共有されているものだろう。

 それにしても、この監督の作品の面白さとは、いったい何なのだろうか。作中、日常とは異なるコミュニケーションが導入されることで、ふいに登場人物たちが裸になる瞬間が訪れることはその一つだ。『PASSION』(08年)での「暴力とは何かを考えるホームルーム」や「本音しか言わないゲーム」、『親密さ』(12年)での「質問すること」や後半の舞台本編という、日常とは異なる演劇的なコミュニケーション空間。その中に放り込まれると、きまって登場人物たちは変容を迫られ、彼らの中の何かがほとばしる。そしてそれは、周囲の人間との関係に必ずや決定的な影響を与える。

 今作では、ワークショップや離婚裁判、また朗読会のシーンがそれに当たるだろう。「重心に聞く」という題された怪しげなワークショップの講師「鵜飼」は、参加した「あかり」、「純」、「桜子」の三人の「はらわた=内面」を露呈させようと巧みに誘導する。四人のうち「芙美」だけは主催者側でワークには参加しない。したがって、彼女の「はらわた=内面」はなかなか露わにならないので、あとの三人が何かとそれを暴こうとするだろう。だが、実は芙美もまた、ワークから帰宅するやいなや、パートナーの「はらわた」を知ろうとせずにはいられないのだ。

 また若手作家の朗読会では、たとえ読まれる小説がフィクションだと分かってはいても、実際それが彼女の声=身体を通して読まれるとき、聞き手にはそれが書き言葉ではなく、私小説的な「内面」の声のように聴こえてしまう。ましてや、自分にとって大切な人間が思い浮かんでしまうような内容ならなおさらだ。朗読会に居合わせた芙美や桜子は激しく揺さぶられ、もうそれ以前の日常にふみとどまることができない。

 ここでは、(日常とは違う)フィクションこそが、日常=現実に決定的な影響を及ぼす。個としての「重心=主体」を失っている彼女らは、ワークショップの課題さながら、お互いの中心に影響を及ぼしあい、また互いにもたれ合うことでやっと立ち上がる(クラブでのあかりの「浮遊」は、その究極形態だろう)。何とPASSIVE=受動的な人間たちだろう(『PASSION』以来のこの監督の持続的なテーマだ)。だが、重心=主体を喪失しているのも、また彼女らだけの問題ではない。

 この監督は、こうした天才でも有名でもない「凡庸」(蓮實重彦)な『何食わぬ顔』(03年)の人間たちが、したがって誰一人超越的なポジションに立てずに互いにもたれ合うなか、それでも幸せを求めてもがく姿を丹念に描こうとする(この作品の人物たちは、実によくもがいて「落下」する)。

 だからこそ、観客は、「この世界」は信じられると思い始めているのだろう。「この世界」を見ている5時間17分こそが、「ハッピーアワー」だと言うのは、さすがに綺麗すぎるだろうか。

 幸せを求めていない人間はいない。だが、すでにわれわれは、それが酒場の「ハッピーアワー」のような形でしか訪れないことを知っている。しかも、それさえいつのまにか過ぎ去ってしまったかも知れない。彼女らが、「うみ⤴?」「うみ⤵?」とイントネーションを確かめ合いながら、ケーブルの頂上から眺められる「はず」の海を夢見ていた、あのわくわくした時間のように。それでもなお、誰もが皆、ラストのあかりのように「海」を追い求めずにいられないのだ。

中島一夫