レッド・ファミリー(イ・ジュヒョン)

 サラ・ポーリー『物語る私たち』が、家族とは物語であり演じられるものだということを露呈させる作品だったとしたら、はじめから演じられた家族が主役である本作は、疑似家族は本当の家族となり得るか、という話になるはずだ。もし、彼らが、北朝鮮から韓国に派遣された工作員たちでなかったら。

 だがこの作品は、韓国に派遣された北朝鮮工作員たちが、その資本主義の堕落に染まらずに、「党」の鉄の規律に従いきれるかという、政治的に生々しい作品なのだ。

 例えば、当たり前のように親や兄弟よりも「正義」を重んじる、『北朝鮮強制収容所に生まれて』の主人公を見てみればよい。

http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20140406

 そもそも本作がタイトルに掲げる「レッド」と「ファミリー」の結びつき自体が、さまざまな矛盾に満ちたものとしてあるのだ。

 本作への批判として、隣の韓国一家が言い争う声は筒抜けなのに、北朝鮮工作員たちの疑似家族=レッドファミリーの声は、どうして向こうに聞こえないのかという指摘が散見されるが、それは見当違いだ。

 本作は、韓国家族のあり様が彼らにいかに伝染するかというところに主眼があるからだ。ここでは、たとえレッドファミリーの声が韓国家族に聞こえていたとしても、堕落した傍若無人の彼らには届かないはずである(だから、本作では北朝鮮だけではなく韓国も揶揄されている)。韓国一家のゴミや鳥の死骸が、レッドファミリーの庭先に一方的に持ち込まれるのも、その資本主義的な堕落という害毒が、前者から後者へと一方的に流れてくるものだということを示している。

 工作員たちは、したがってその伝染と浸透を、鉄の意志で防がねばならない。彼らに党の意志を伝える上司工作員が、鉄を加工する板金工場の工員として潜伏していることも、そのテーマを示唆していよう。

 本作において「家族」とは、極めて両義的な存在である。それは伝染する資本主義の害毒であるとともに、工作員たちに任務を遂行させるための、鉄の意志の担保にもなっているからだ。レッドファミリーたちは、本国に残してきたそれぞれの家族を、党に人質にとられているに等しい。本国の家族が、安全に暮らせるよう、彼らはどんなに非情で過酷な任務をもこなしていかなければならないのだ。「最後に残るのは家族だ」。

 本国の家族を思いながら、疑似家族を演じること。ここに彼らの困難がある。家族が物語であり演じられるものでもある以上、疑似家族というフィクションは、容易に現実の家族の装いをまとってくるからだ(脚本キム・ギドクのおなじみのテーマである「現実とフィクション」だ)。妻役の班長ベクが、夫役のジェホンに同情し、取り返しのつかない失態を演じてしまうのも、いつのまにか彼らが本当の家族の様相を帯びているからである。

 しかも「家族」は、資本主義のごとく、寄生するだけでなく増殖もする。当初いがみあっていた隣の韓国一家とも、やがてそれぞれの誕生日を祝ったり、アリランをともに合唱する仲になり、南北の二つの家族は、一つの「家族」のような関係になっていく。工作員たちは、家族らしくなればなるほど、ますます党からの指令に疑いをもち、不条理を感じていくことになる。

 だからこそ、彼らは最後に、汚染の元である韓国一家を始末せよという任務を受けることになる。その後の展開には触れずにおこう。ラスト近くの、彼らの「演技」とそこで交わされる「セリフ」が、その帰結のすべてを語っている。

中島一夫