利己的個人主義を超えるには

 自民党の武藤貴也議員が、安保法案に反対する学生集団SEALDsについて、「だって戦争に行きたくないじゃん」という「利己的個人主義」だと批判して物議を醸した。そうした風潮が「戦後教育」によって「蔓延した」と言うのである。その後も発言を撤回せず、自らのブログで砂川判決などを持ちだして、自説をさらに補強しているところを見ると、自らの発言は正しいと考えているのだろう。

 だが、問題はそれが、ほかならぬ自民党政権が中心にもたらしてきた、ブルジョア「教育」による成果ではないかということだ。もちろん、その成果には、文学も一役買っている。

人類史上に於けるブルジョアジーの使命は「個人の解放」にあった。そしてブルジョアジーをしてこの歴史的使命を遂行し得しめたものは、いうまでもなく、その社会的地位及びその生活原則であったのであるが、その同じ社会的地位、その同じ生活原則がまたブルジョアジー個人主義を生み出した。実に個人主義こそはブルジョアジーの物質的、精神的生活を通じての決定的原則であったのである。
 自然主義文学もまたその出発点をこの個人の中に有している。しかも社会から切離された個別的個人の中に有していた。彼らは個人の中に永遠にして絶対的なるものを求めて、「人間の生物的本性」――を得た。(中略)

 そこではあらゆる人間の生活が人間の生物的本性、人間の性格、遺伝等に還元されている。いい換えれば、彼らの生活――現実に対する認識の態度があくまでも非社会的、個人的である。そこには社会生活の個人に対する支配もなければ、社会組織の個人に対する圧迫も見られない。そこではすべての力点が個人に置かれている。それと同時に彼らの題材もまた人間の個人的生活に限定されている。――ここにブルジョア・レアリズムの超ゆべからざる限界があったのである。(蔵原惟人「プロレタリア・レアリズムへの道」1928年)

 古い文章だが、現在でも基本的に事態が変わっていないことにむしろ驚く。蔵原は、そうしたブルジョア・レアリズムに比べて、ゾラやドストエフスキーといった「小ブルジョア・レアリズム」は個人主義に終始せず、「社会的立場を扱っている」ものの、まだ「階級協調的」だと不満を述べている。彼らは、「生活の問題の解決を抽象的なる正義、人道に求めている」と。

 武藤議員の不満も、この蔵原の不満に近いのではないか。そこから蔵原は、ブルジョア、小ブルジョアのリアリズムを超えて、世界的な階級闘争を生きかつ描く、「プロレタリア・レアリズムへの道」を説いた。

 もし議員も、「抽象的なる正義、人道」を掲げて戦争=闘争回避しようとする、若者の小ブルジョア的な個人主義を何とかしたいというのなら、いっそ蔵原のごとく、世界的な階級闘争を思考=志向してみるというのはどうだろうか。その方が、階級的、世代間格差に、うんざりを通り越して怒りを覚えつつある若者の、アンチ「利己的個人主義」的な戦争=闘争への意識にも訴えるものがあるかもしれない。そして、自身「若者」である議員が、まさに議員として若者の利害を代表することにもなるのではないだろうか。

中島一夫