鎌田哲哉に再反論する

 「週刊読書人」4月13日号の鎌田哲哉『「プロレタリア独裁まであと一歩」はどこに消えたか?――中島一夫への答え』を読んだ。あいかわらず言いたい放題に言っているが、ローザ主義の鎌田が、プロレタリア独裁だけはできれば遠ざけておきたいということはよく分かった。そして、プロレタリア独裁を考えないということは、「権力」の問題を避けて通ることを意味する。

 三文ミステリー小説のようなタイトルまで付けてもらって悪いが、「プロレタリア独裁まであと一歩」(またこれについての鎌田の発言)が「消えた」のは、単に紙幅の都合に過ぎない。いちいち断るまでもないことだが、当初私は鎌田の発言を全文引用していた。紙幅のことでは、かなり編集部に迷惑をかけてしまった。今回はこちらに投稿する。

 私は「選挙中心のものの見方」をしているのではない。選挙を通して出現し、また正当化される「権力」の問題を、いつまでも避けては通れないだろうと考えているだけだ。権力をただ批判していればよかった民主主義の季節は、どうやら終わりつつある。

 鎌田は、状況は何も変わっていないと思いたがっているようだが、私はそうは思わない。やはりグローバル資本主義の深化に伴って、大きく状況は変わりつつある。一言でいえば、今後は独裁が当たり前になるだろう。グローバルな競争を勝ち抜くために、民主的な経営ではなく、スピード感をもった独裁的な決定を至上命題とするグローバル企業の論理が、社会や都市において支配的になっていくだろう(最初の書評でも触れたが、このあたりの認識は池田信夫氏に近い(ブログ参照 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51784457.html

 『生政治の誕生』のフーコーもいうように、ネオリベとは、すべての者を資本(家)と見なす統治システムである。今回、「独裁」を公言して憚らない者が圧勝したのも、単なる「閉塞感」からではない。いつのまにか、われわれは、一日メールが返ってこないことに耐えられないほど、スピードある意志表示、決定を相互に求めあうようになっている。こうした人々のメンタリティーの変化も、圧勝の背景にあっただろう。このスピード感のなか、脱原発原発再稼働を争点に選挙をたたかい、「維新の会」が「権力」(私は「政権」などとは呼ばない)を握る事態が、徐々にリアルになってきている。

 であれば、どんなに嫌でも、権力を取ることを真剣に考えざるを得なくなるだろう。そのために「党」が必要だと言った。「独裁」の時代に、「権力を取らずに世界を変える」ことはできない。そのために、「プロレタリア独裁」と言った。プロレタリアートとは、階級を廃棄するために階級を組織し、権力を廃棄するために(のみ)権力を取る、歴史上唯一の階級だったはずだ。「プロレタリア独裁」とは、(ブルジョア)「独裁」を廃棄するためにのみ必要とされるものだったはずだ。

 繰り返す。いまだかつて、「独裁」を公言して憚らない者が、これほど支持されたことはなかった(「決定できる民主主義」と言い換えても同じことだ。最終的な(=例外状況下の)主権者は我なり、これすなわち「独裁」ということだから)。われわれは、この事態にもっと驚くべきである。

 言うまでもなく、「独裁」とは、民主主義がその反対物に転化したものではない。マルクスが『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』で分析したように、「独裁」は代表制=民主主義に潜在する形式であり、むしろ民主制からしか出てこないものだ。民主主義とは独裁の、そして独裁は民主主義の一形態なのだ。今回リアルになったのは、このことだ。

 今まで、(戦後)民主主義は無条件に是とされ、「独裁」が出てこられる余地などなかった。だが、今回「独裁」が受け入れられたことは、同時に「プロレタリア独裁」をも可能にしてしまったということではないのか。「独裁」も「プロレタリア独裁」も、代表制=民主主義の機能停止に基づいているからだ。スラヴォイ・ジジェクはいう。

 したがって、「プロレタリア独裁」というこけおどしを徹底的に脱神秘化すべきなのだ。「プロレタリア独裁」は、そのもっとも基本的な意味としては、政治の領野に普遍が直接侵入してくることによって表象=代議制の複雑な網の目の機能が停止してしまう、おののくような瞬間を表している(『大義を忘れるな』)。


 私のいう「プロレタリア独裁」にも「あと一歩」にも、「神秘」的、予言的な意味はない。そもそも、私は「あと一歩」を、「間近」という意味で使ったことなど一度もない。きちんと読めば誤解の余地はないはずだが、「あと一歩」は可能性の胚胎や出現をしか意味しない。

 「プロレタリア独裁まであと一歩」という言葉に過敏に反応する者は、むしろその者が「プロレタリア独裁」を神秘化している証拠である。おそらくその神秘化は、あたかも「プロレタリア独裁」を思考することが禁じられているかのように、誰も口にしなかったことによって生じた。したがって、いざそれが口にされると驚いて、それは「幻想だ」「妄想だ」と騒ぎだすことになる。その実、「幻想だ」ということによって、「幻想」にとどめておきたいだけだ。

 資本主義が金融資本主義段階に達して、一つだけ良かった点がある。それは、今まで分断されてきた「労働力を売る立場」に立たされた者たちが、ウォール街のデモのスローガンのように「われわれは99%だ」と堂々と言えるようになったことだ。あるいは、2002年に80%いたという、資本主義を最も望ましい経済システムだと考えるアメリカ人が、リーマンショック後には59%(フランスにいたっては約30%)にまで落ち込んでいるという(カナダ「グローブスキャン」社の調査による)。

 労働力が売れない者や、売れても所得の低い者はもちろん、所得の高い者ですら給料を使う暇もなく過労死か、それに近いぎりぎりのところまで追い込まれている毎日だ。「99%」が幸せになれないシステム。「資本主義はもうたくさんだ」と考える者が急増している。労働力を売る者たちによる「プロレタリア独裁」について、考えることすらタブーにしておく状況ではもはやない。

 鎌田は、「99%」などまさに「モッブ」だというだろう。それに対して、「歌=運動」の「再生」が不可欠なのだと。私は別にそれを否定しない。だが、人は「真実」のみで動くのではない。そこに可能性や希望があるからこそ動き、そこへ向かい、飛ぶことができる。そのために、私は「あと一歩」「あと一歩」と言い続ける必要があるとすら考える。大半は、自らに言い聞かせているのだ。

中島一夫