クリスマス・ストーリー(アルノー・デプレシャン)

 映画館を出てきた観客が、抑えていたものを放つかのように口々にいう。タイトルが「クリスマス・ストーリー」で家族もの、という当初の期待からだろう、「もっと感動的な「ストーリー」なのかと思った」。だが、しばらく批評を述べあったあと、どうやら結論に達したようだ。「でも、現実はああいう感じよね」。

 「ストーリー」という名のアンチ・ストーリーといおうか、豪華絢爛に「演じ」られた散文的な家族の日常といおうか。そもそも、戯曲の脚本家である長女エリザベートアンヌ・コンシニ)をはじめ、クリスマスに家族で劇を演じるほど日常が演劇で満ちているこのヴェイヤール一家においては、2時間30分という上映時間(デプレシャンでは普通の長さだ)など、家族という「劇」のほんの一こまにすぎない。そう、これは、家族「の」ストーリーではなく、家族「は」ストーリーだ、という映画なのだ。

 ヴェイヤール家の長男ジョゼフは、生まれながらに血液のガンを患っていた。両親も長女も骨髄が適合しないなか、次男アンリ(マチュー・アマルリック)は、ジョゼフに骨髄を提供するために生んだ子だったが、結局はこれも不適合で長男は死亡、アンリは早くも「役立たず」の烙印を押されてしまう。

 その後、母のジュノンカトリーヌ・ドヌーヴ)も同じ病に。もはや親兄弟もいない彼女は、自分の子供から骨髄を移植してもらわねばならない。だが、適合したのは、よりによって「役立たず」で問題児のアンリと、ずっと彼と反目し続け、とうとう兄弟を一家から追放した、長女エリザベートの息子ポールだけだった。どちらの骨髄を選ぶのか、はたまた移植しないことを選ぶのか、クリスマスに一同に会する一家の間で大騒ぎが起こる。

 何度も登場人物たちの口にのぼりながら、とうとう最後まで明らかにされないことがある。なぜそれほどまでに、エリザベートはアンリを憎んでいるのか、ということだ。だが、アンリとポールの骨髄が一致するという一事からも想像できるように、作品はそこかしこで、実はポールが、ほかならぬエリザベートとアンリという姉弟の間の子供ではないかという疑惑を誘発させてやまない。

 あるときポールがふらっとアンリを訪ね、追放された彼に、クリスマスには戻ってくるよう懇願したり、ふいに一緒にジョギングしながら、アンリがポールに、まるで父親のように教え諭すシーンはどうか。また、エリザベートの夫クロードが、アンリを殴り倒すほど嫌っているのも腑に落ちないといえば腑に落ちない。

 あるいは、最終的にアンリから骨髄を移植することが決まったとき、ポールがアンリに殊更にお礼を述べる思わせぶりなシーンは? そしてクリスマスのプレゼント交換で、エリザベートがポールを「通じて」アンリに渡した(返した?)手紙にはいったい何が書かれていたのか? 果たしてアンリの妻だったマドレーヌの死は本当に事故死だったのか? ユダヤ教徒のため、クリスマス前に一足先に退散するアンリの新恋人フェニア(エマニュエル・ドゥヴォス)が、別れ際にポールの手に記したマークの意味は? そしてそれに曰くありげに口づけするポールは? などなど。「それ」を疑わせてやまないシーンは尽きることがない(そういえば、長編デビュー作ともいえる『そして僕は恋をする』の主人公ポールを演じたのは、ほかならぬアンリ=マチュー・アマルリックだった)。

 思えば、祖母アンドレの恋人は女性のロゼメだし、そのロゼメの一言で、かつて末っ子イヴァンと従兄のシモンの間に、今はイヴァンの妻となっているシルヴィアをめぐる三角関係があったことと、男同士の「密約」があったこととが暴露される。シモンが自分を諦めてきたことを知ってしまったシルヴィアは動揺、その後二人は禁断の一夜をともにしてしまうのだった。

 そんな「奔放」なヴェイヤール一家に、果たして愛や性のタブーなど存在するだろうか。ここには、血縁や夫婦関係はもちろん、異性同性も問わない錯綜した関係の束があるだけだ。

 もちろん、一貫して養子関係を描いてきたデプレシャン作品において、家族、親族間の血縁関係が、偶然性や流動性にさらされ、相互に「交渉」や「離反」が起きることなど何ら珍しいことではない。だが、今作では、さらに子から親への骨髄移植が加わることで、ついに親子の上下関係すら怪しくなってきているのだ。

 蓮實重彦が、山中貞雄の『河内山宗俊』以後、世界映画史でもっとも美しい雪と評した雪とともに、今やアンリは父の「上」から舞い降りてくるだろう。移植後にコイントスに興じる母とアンリは、まさに骨髄をともにしたことで、もはや親子という上下(表裏)すら、賭けという偶然性にさらされていることを示唆しているようだ。そして作中、ずっと泣き顔であったエリザベートがラストで初めてみせる安らぎの表情は、これからは自ら母の位置を降り、「息子の世界で生きていく」という決意とともにもたらされるものだ。

 神は死んだが、人々は解放されるどころか、ルサンチマンに冒されてしまった――。父アベルは、苦しみのエリザベートに、ニーチェ道徳の系譜』の一節を朗読する。ルサンチマンに支配されるのは、まだ「上下」に囚われているからだ。今作で親子の上下すらフラットに均していこうとするデプレシャンは、あたかもフランス革命の徹底的な反復=やり直しを目論んでいるかのように思えてならない。

中島一夫