イングロリアス・バスターズ(クエンティン・タランティーノ)

 まさか、タランティーノを見に行って、村上春樹を思い出すとは思わなかった。

 「ユダヤハンター」の異名を持つナチスの大佐ランダ。彼に家族を皆殺しにされた娘ショシャナ。こうくれば、もう後は、タランティーノお得意の復讐劇だ。物語は、ショシャナの復讐劇に、ナチスを残虐に殺害することを喜びとする、ブラピ率いるユダヤアメリカ人の秘密部隊「バスターズ」による享楽的なナチス狩りが重なりながら展開する。

 ある時、ショシャナが経営するパリの映画館に、ナチス国威発揚映画のプレミア開催計画が急遽持ちかけられる。しかも、その席にヒトラーゲッペルスはじめナチスの幹部が勢揃い、さらには当日の警備責任者は、あの憎きランダだというのだから、復讐を誓う彼女にとって千載一遇のチャンス到来である。ショシャナは、ナチス映画のクライマックスシーンを、自らの顔を巨大に映し出しながら復讐のメッセージを叫ぶシーンへと差し替えたうえで、その場面が流れるなか、鍵をかけた映画館もろとも焼き尽くすという、ホロコーストさながらの復讐計画を立てる。だが、観客にバスターズも紛れ込み、事態は思わぬ方向へとズレていく――。

 なるほど、いくつか「見せる」シーンはある。だが、今回は、タランティーノ特有の「やってくれたぜ!」的なあっと驚くシーンが一つもなかった。西部劇『アラモ』の有名なメロディーが流れる冒頭から、必要以上に時間を引き延ばし盛んにサスペンス効果をもたらそうとするも(極め付けはバット男の登場シーン)、いかにもスピードが遅過ぎて今いちノリきれない。前作『デス・プルーフinグラインドハウス』の疾走感が圧倒的だったために、余計に「遅さ」ばかりが際立ってしまうのだ。何より、繰り広げられる暴力が、全く無根拠であったり、度を越えて理解不能であったりする点にこそ、タランティーノ作品の残酷さやそれと裏腹の滑稽さがあったはずである。だが、今回は、いわば大文字の歴史たるナチスユダヤが導入され、暴力の理由や背景がいちいち腑に落ちてしまい、一向に残虐さが残虐さとして伝わってこないのだ。

 逆にいえば、これほど戦略的に練られたタランティーノ作品もないのではないか。タイトルの『イングロリアス・バスターズからして多義的だ。「不名誉なニセモノ」とでも取れば、そこには映画の力で大文字の歴史=物語の転覆を目論む「偽史」への情熱が浮かび上がってこよう。そして、バスターズが、ナチスたちの頭の皮を次々に剥いでまわるのを目にすれば、その偽史と皮剥ぎという組み合わせに、どうしたって村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を思い出さないわけにはいかない。

 いうまでもなく、『ねじまき鳥』は偽の「クロニクル=年代記」、すなわち偽史の物語だった。その「第一部 泥棒かささぎ編」のクライマックスでは、ノモンハン事件が導入され、そこに敵の皮を剥ぐモンゴル遊牧民が登場する。

「ナイフを持ったその熊のような将校は、山本の方を見てにやっと笑いました。……彼は初めのうちはじっと我慢強く耐えていました。しかし途中からは悲鳴をあげはじめました。それはこの世のものとは思えないような悲鳴でした。男はまず山本の右の肩にナイフですっと筋を入れました。そして上の方から右腕の皮を剥いでいきました。彼はまるで慈しむかのように、ゆっくりと丁寧に腕の皮を剥いでいきました。たしかに、ロシア人の将校が言ったように、それは芸術品と言ってもいいような腕前でした。もし悲鳴が聞こえなかったなら、そこには痛みなんてないんじゃないかとさえ思えたことでしょう。しかしその悲鳴は、それに付随する痛みの物凄さを語っていました」

 この「ナイフを持った熊」のようなモンゴル遊牧民を引いたのはほかでもない。バスターズの一人、先のバット男(イーライ・ロス)が、まさにモンゴルならぬ「ユダヤの熊」とあだ名されていたからだ。ひょっとしたら、タランティーノは村上を読んでいるのではないか、と思わせるほどの符合である。いずれにしても、タランティーノサブカル的な感性が、村上春樹の想像力と響き合ってしまっていることは確かだ。

 『千のプラトー』のドゥルーズガタリは、チンギス・ハーンのモンゴル遊牧民部隊に、国家の外側にある「戦争機械」を見出した。そのことを知ってか知らずか、村上春樹は、国家の正史ではない偽史を語るうえで、モンゴル遊牧民を導入した。同様に、タランティーノは、バスターズを、まさに連合国軍の「バスターズ=私生児」として、すなわち「戦争機械」のような「非正規軍」として導入したといえよう。

 タランティーノは、映画というメディアとテクノロジーを駆使したナチス全体主義レニ・リーフェンシュタールの名も頻出する)を、一つの映画の「正統的な嫡子=正規軍」と見なしたうえで(ナチスの宣伝が、実際以上に神話化されている面があるとしても)、自らは「非正規軍=戦争機械」のような映画によって、「ナチスとしての映画」あるいは「映画としてのナチス」に対抗しようとしたのではなかったか。

 そう考えれば、ホロコーストよろしく映画館もろとも崇高な炎に包み込む、ショシャナの復讐劇そのものは、この作品においては傍流のストーリーにすぎないといえる。崇高な炎による殲滅は、結局は「ナチス=映画」と同じものでしかないからだ(だから、ショシャナは主役たり得ず、復讐の最中に殺されなければならない)。

 「あくまで主役は自分たちだ」とばかりに、ブラピ=バスターズは最後までしぶとく生き残る。ラストで彼らは、ランダの部下の皮を剥いだうえ、ランダ自身にはその眉間にナイフでハーケンクロイツ(鉤十字)を刻み込む。「こいつは俺の最高傑作だぜ!」――。

 このとき「最高傑作だ」と自画自讃しているのは、この「非正規」的な映画を作り上げたタランティーノ自身でもあることは言うまでもないが、何よりアクチュアルなのは、多言語を駆使する「探偵=二重スパイ」を自称するランダに対して、「バスターズ=戦争機械」の勝利がはからずも告げられてしまったことだろう。二重スパイはいまだ国家の内側(=間)的な存在だが、戦争機械とは国家の外側の存在であり、世界の趨勢が後者の勝利にあることは、現在のアフガン情勢一つ取ってももはや明らかだからである。

中島一夫