ノルウェイの森(トラン・アン・ユン)

 上原輝樹は、本作を反革命映画だと述べている。そのうえで、ソダーバーグの『チェ28歳の革命/39歳 別れの手紙』や、ウリ・エデル『バーダー・マインホフ 理想の果てに』、若松孝二実録・連合赤軍』などと「顔を並べる」べき、21世紀における「68年の映画」の系譜に位置付ける(http://www.outsideintokyo.jp/index.html)。

 そのように見なすことで、トラン・アン・ユンが、本作を撮るうえで参考にしたのが、68年へのレクイエムともいえるベルトルッチの『ドリーマーズ』であったという、その意図も明確になるはずだ、というのだ。そして、この監督は、村上春樹の原作に「最も世界中で〝非政治化〟されていくことになる土地〝日本〟を幻視した」のではないか、と。

 賛成である。村上春樹が重要な作家だとしたら、何よりそれは、反革命と非政治化をこの国(の文学や思想)にもたらしたからにほかならない。それが、柄谷行人のいう「村上春樹の「風景」」(『終焉をめぐって』所収)というやつだろう。

 原作にある部分やない部分の過不足をチェックしたり、原作のイメージを壊されたと訴えるようなレビューが後を絶たない。だが、キャスティングも含めて、原作『ノルウェイの森』の「風景」をビジュアル化したものとして、これ以上のものは望めないのでないか。おそらく日本人は、かつて巻き起こった『ノルウェイの森』ブームや、68年以降のこの国のありようを、このベトナムの監督によって今「反省」させられているのだ。

 もしこの作品が見るに耐えないとしたら、それは原作が「忠実」に再現されていないからではない。その逆である(主演の松山ケンイチは、セリフレベルでも原作通りにやりたいと主張したという)。

 実際、上映中ずっとおしゃべりをしていた女性の二人組がいたが、彼女たちが「あり得ない」を連発していたのは、すべて原作にあるセリフや設定に対してだった。おそらく、二重の意味で照れ隠しでしゃべらざるを得なかったのだろう。作中人物たちの現実離れした言動も恥ずかしいが、それにも増して、かつてそれにイカれた自分たちも恥ずかしい。この作品では、スクリーンは「鏡」と化すのだ。

 すでに多くの指摘があるように、とにかくキャスティングが素晴らしい。本作を見たあとでは、主人公「ぼく=ワタナベ」は、同じカタカナ名をもつ松山ケンイチ以外にもはや考えられなくなるだろう。最初はどうかと思われた菊地凛子の「直子」も、ワタナベと二人して早朝の草原をひたすら早足で歩きながらやりとりする、あの長回しの素晴らしいシーンひとつで違和感が吹っ飛ぶ。また、「緑」役の新人、水原希子の、みずみずしくもどこか小悪魔的な感じも魅力的だ。登場人物たちに対してはまったく感情移入できないにもかかわらず、それでも最後まで見せてしまうのは、彼ら俳優陣の存在感や演技によるところが大きい。

 もちろん、一目でそれだと分かる、トラン・アン・ユンの映像美――生気漂う水、植物、自然――もあいかわらず健在だ。大草原に立つ直子とワタナベが、草木とともに強風に煽られるシーン(ヘリコプターで風を起こしている)や、直子の自殺を知ったワタナベが、日本海の荒波に飲まれる岸壁で号泣するシーンなど、この監督ならではの自然描写の映像が、人物たちの心像風景の隠喩となっている。

 おそらく、この監督は、村上の原作の文学性が、「隠喩」によって支えられていることを見ぬいているのだろう。大学構内をジグザグデモしながら結集していく学生運動家たちの群れを尻目に、彼らと一線を画して一人カフェーで本を読む青年ワタナベの「孤独」は、閉鎖的な寮の螺旋階段を回転しながら映していたカメラを、そのまま一気に開放的な大自然へと振ることによって、より一層強調されていく。

 大自然とは、直子とワタナベの受動的な孤独を、受動的な孤独のまま包容してくれる「場所」だ。そこで彼らは、「自然に帰れ」とばかりに、自らの「深層=真相」を赤裸々に「告白」し、またぶつけ合う。

 もちろん、その「深層=真相」の「告白」は、性的な「恥部」(直子の「濡れた」発言、ワタナベの「勃起」発言、また手で行う性処理など)に関わることでなければならないのは、もはやフーコー以降の常識だろう。すなわち、この場合大自然とは、「告白」する対象たる「神」であり、本作で大自然を俯瞰する「神の視線」のショットが多用されるのもそのためだ。

 むろん、もはや彼らは、そうした「自然=神」を「故郷」とすることはできない。直子は死に、ワタナベはそれを機に都会へと戻っていくほかはない。だが、政治から遁走したワタナベに居場所はないのだ。

 「あなた、いまどこにいるの?」。緑の声が電話の向こうから聞こえる。この『ノルウェイの森』のラストのセリフ以降、電話=ネットワークという、「どこ」でもない場所なき場所こそが、若者の「居場所」となっていくこととなる。たとえば、大江健三郎の「四国の森」には希薄化しつつもまだあったトポス(=場所)が、この「ノルウェイの森」において完全に消滅したのだ。

中島一夫

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