アウトレイジ(北野武)

 「んじゃ」という会長(北村総一朗)の短くも締まらない挨拶で、暴力団山王会の幹部会合がお開きとなる。その中で、直系の池元組組長(國村隼)だけが、若頭の加藤(三浦友和)に呼び止められ怪訝そうな表情を浮かべる。系列外の村瀬組との付き合いに苦言を呈され、「兄弟の杯を交わしちまったもんで…」と弁明する池元。それに対して「横の兄弟よりも縦の親子の方がもっと大事だからよ」と加藤。だが、これから描かれるヤクザ社会は、もはや「横」でも「縦」でもない論理によって突き動かされていくことになる――。

 それは、冒頭近くのタイトルが浮かび上がるシーンに、すでに示唆されている。会合解散後に何台もの黒塗りの高級車が列をなして走り去り、その一台を真上からとらえた画面がふいに静止、車体の上に“OUTRAGE”というタイトルが映し出される。何ともいえず、クールな幕開けだ。

 だが、同時に、その何気ないショットが、作品空間を支配する「流動性」(車の流れ)と、まるでルーレットのように、その中から無作為に一台の車が選択されたかのような「確率性」の論理をも示していることは、後のカジノでのルーレットのシーンで明らかとなるだろう。

 ほかならぬその一台に池元とともに乗っていたのだろう、配下の大友組組長(ビートたけし)は、案の定「貧乏くじ」を引くはめになる。先の加藤から告げられた会長の「誤解」を払拭すべく、ただそのためだけに、村瀬組に抗争を仕掛ける役を担わされるのだ。

 あとは、いちいち述べるのも野暮というものだろう。趣向を凝らした抗争の仕掛け、単なるドンパチにとどまらない多岐にわたる殺害方法、「痛さ」や「残虐さ」を追求したアイデアに富む手の込んだ暴力シーンの数々は、血で血を洗う抗争が、決して単調にならぬよう工夫されている。

 また、残虐でありながらどこか笑えるシーン(例えば、歯の治療中に、器具で口の中をめちゃくちゃにされた村瀬が、直後のシーンでスチール製のギブスを口にはめた状態で現れ、どだい無理な食事をすすめられるという滑稽さはどうか)を差し挟みながら、最後まで飽きさせない展開は、見事というほかはない。

 それにしても、いったい彼らは、何のためにたたかっているのか。
 一見、それは、ヤクザ映画によくある、一族への忠誠心をめぐる抗争に見える。実際、発端は、会長の鶴の一声であった。だが、その際、「まさかお前ら、シャブをやり取りしてるんじゃねえだろうなあ」とすかざすチェックが入るように、同時にそれは、傘下の組が、健全な(!)資金繰りを行なっているか否かの検査であり管理なのだ。

 これは明らかに、一九九二年に暴力団対策法が施行され、それ以降、裏社会のマネーロンダリングの取締りが強化されていった事態を背景としている。萱野稔人などもいうように、小泉政権下の構造改革規制緩和にともなって、流動的な労働力の労務管理や供給の委託先が、ヤクザ組織から合法的な民間企業へと移された。以降、ヤクザ組織は急速にその活動を縮減せざるを得なくなる。『アウトレイジ』で繰り広げられる抗争劇とは、そうした、ネオリベ以降ヤクザ組織を襲った、リストラとサバイバルの劇にほかならない(ターゲットとなったのは、「しょぼい事務所」しか持てない、系列の中でも末端組織たる大友組であった)。

 今やヤクザも、流動性の高まった資本をコントロールしようとする国家に、いかに随伴し寄生するかにその生き残りがかかっている。そんななか、英語を操る国際派で、ゆえに後進国の大使館を装ったカジノ経営を任され、その後はITを駆使した株運用へとスムーズにシフトしていく、大友組の金庫番たる石原(加瀬亮)が、着々と頭角を表しのし上がっていくのは、したがって当然であった。

 ITによる株運用とは、もはや「シマ=空間」すら必要としない、まさに確率性と流動性が支配する世界だ。『アウトレイジ』において出し抜かれ、没落・滅亡していくのは、「シマ」や「さかずき」、「指つめ」、「義理・人情」など、旧態依然としたヤクザの論理に、いつまでもからめとられている連中である。いち早く、そこから脱却したニヒリストのみが、ここでは生き残ることができるのだ。

 確率性と流動性に「外部」はない。刑務所の塀の中も、その例外ではあり得ない。後輩の刑事(小日向文世)に唆され、ついに自ら出頭・逮捕される大友が、刑務所の「中」で、かつ囚人が野球をやっている「外野」で中野英雄に殺されるのはそれを明かしている(グローバルに見れば、グアンタナモアブグレイブが、決して「帝国」の「外部=外野」ではないのと同様である)。

 そうした意味でひとつ残念なのは、ここで起こる非道な殺害(outrage)が、基本的にかつて「手をあげられた」ことに対する「復讐」(revenge)でもあることだ(たけし→國村隼中野英雄→たけし、加瀬亮椎名桔平三浦友和北村総一朗など)。そのことが、この作品の強度を下げている。「復讐」は、その暴力の背景に何がしかの「理由」が存在する以上、それがいかに残虐なものであろうとも、恐怖を軽減してしまうからだ。

 しかしそれでもなお、この作品に対する「今どきヤクザの抗争劇でもないだろう」という一部の声は、完全に的を外していると言わざるを得ない。『アウトレイジ』が描こうとするのは、『仁義なき闘い』シリーズ以降の「ヤクザ」が、「規律・訓練」(しつけ)も施されず、したがって忠誠心をもった「主体」としてもはや束ねられないものとなっていき、さらにそれがネオリベ以降の「帝国」において加速していっている事態、そしてそこにおいては、いかにその支配する論理に即して自ら変容を遂げ、生き残っていくのかが問われているという事態なのである。

 こうして見てくれば、ラストの警察=小日向文世の高笑いが、決して「勝利」を意味しないことは明らかだろう。「カネより出世だよ」と嘯くほどに、たとえ官僚機構であっても、いまだ「組織」とその「ポジション」に「価値」があることを信じている彼が、この後、この「世界」で長く生き残っていけるとはとても思えないからだ。ここでサバイバルできるのは、そんなものを一切信じないニヒリストのみである。

中島一夫