二〇〇七年八月に湧き起こった、ビルマ(「ビルマ」と呼ぶか「ミャンマー」と呼ぶかは、言説の立場を決定する問題だが、ここでは作品名にしたがって「ビルマ」と呼ぶ)での大規模デモ(燃料費大幅値上げに端を発した僧侶や市民によるもの)を追う、この映像そのものにコメントできることは何もない。実際に見てもらうほかはない。
ほとんど実情が分からないビルマの状況を決死の覚悟で撮影し、またデータを各地に転送しては世界に知らしめていこうとする「ビルマ民主の声」なるVJ(=ビデオジャーナリスト)たちのジャーナリスト魂には、ただただ敬服するばかりだ。この命がけの映像を見て、ビルマの民主化を願わない者はいないだろう。
だが、かといって、「軍事政権=悪、民主化=善」という図式的な解釈で思考停止してしまうのも、また危険だろう。イラクの民主化、あるいは遠くベトナムの民主化以来だろうか、市民による民主化運動は、あまりに「正義」になり過ぎてはいないか。それは、(むろん相応の妥当性はあるのだが)運動において、誰もが否定できないラストワードと化している。
そもそも、ビルマの軍事政権と民主化運動の関係には、歴史的にみて、そう単純に善悪を決定し得ないものがある。1962年、議会制民主主義をクーデターによって転覆させた、軍主導の社会主義政権が発足された。その後、冷戦崩壊前夜の1988年、民主化運動によって政権が崩壊、だがこのとき軍が民主化運動を鎮圧し、そのまま政権の座につくことになる。以来、軍は、民主化の象徴たるアウン・サン・スー・チーを軟禁し、市民を武力で抑圧し続けてきた。
だが、この軍は、もともとイギリスの植民地支配に対して「民族主義」のもとに立ち上がり、日本とともに戦った人々なのだ。その独立義勇軍を率いていたのが、アウン・サン・スー・チーの父である。
その後、父アウン・サン将軍は、大戦において日本の敗色濃厚とみるや、たちまちイギリスに寝返り、戦後にイギリスからの独立を果たした時点で「建国の父」と祭り上げられることになる。
すると、娘スー・チーが民主化の象徴とみなされている事態は、一種の「父殺し」なのだろうか。独立・建国のために命をかけて戦った父と、その後紆余曲折はあろうとも、基本的にその民族主義を継承する軍。その一方で、イギリスの教育を受け、イギリス人と結婚し、帰国するやその旧宗主国の価値観を輸入しようと民主化運動の先頭に立つ娘。
だが、一見対立するこの父娘の立場も、先に述べたように、父が日本からイギリスに寝返っていたことをふまえれば、結局娘は父を継承しているのだともとれよう。そもそも、その寝返りがなければ、娘がイギリスに渡ることも、その価値観を呼吸することもなかっただろうから。
ここに、ビルマ建国から現在にわたる、世代をまたいだ「民主化」のねじれがある。それは、「建国の父」自身がはらんでいた、すなわち建国当初からこの国が直面してきた、イギリス型の民主化と、それに抵抗しようとする民族主義の両義性に起因する。
むろん、この国のそうした亀裂やねじれをもたらしたのは、日本も含めた旧宗主国による植民地支配なのだ。ましてや、現在、軍事政権の後ろ盾として中国が控え、一方の民主化を後押しをする勢力にイギリスやアメリカがあるとしたら、そうした力学のなかで民主化を支持することは、単なる反暴力や反戦平和、人権尊重といったニュートラルなスタンスではすまないものとなろう。
ものを言うことを禁じられたビルマの人々の固く閉じた口元、そしてその同じ人々が、僧侶の主導するデモに次々と加わっていくときに発するエネルギー――。
さらには、日本人ジャーナリスト長井健司氏が軍の銃弾に倒れる姿が、民主化のうねりの中に映し出されるときに与える、ニュース映像とは全く異なる衝撃。
それらを受け取る者には、だが同時に、民主化を支持するという行為が、決してニュートラルなものではあり得ず、それはそのまま、ひとつの政治的な立場の表明なのだという、ごく当たり前の事実をも突きつけられているのではないか。
(中島一夫)